第88回(2002年08月号掲載
元興寺(4)
幾多の変遷を繰り返して
よみがえったお寺
 「奈良町で道を尋ねると『まっすぐ行ったらあります。』と言われたので、まっすぐ歩いていたら突き当たってしまった。」といった話をよく聞く。この間も御霊神社の前を東に向かって歩いていると、むこうから四、五人連れで歩いて来られた中の一人が「私、ちょっと先に行って見てくるわ。」と言って私の横を走り抜けて、御霊神社の西側を北の方へ曲がられたと思ったら、また、走り帰ってきて、待っていたお友達に「行ったけど、あらへんわ。」と言っておられる。皆、困ったような顔をして戸惑っておられるので、「どちらへいらっしゃるのですか。」と声をかけた。その人たちは「“こんどう”というお豆腐料理の店へお昼を食べに行こうと思って、道を聞いたら『この道をまっすぐ行って、突き当たりを右に行ったらすぐです。』と教えてくださったので、その通り歩いてきたのですが、それらしいお店が見当たらないのです。」とおっしゃる。
 心の中で“やっぱり”と思った私は、「間違えて教えられたのではないのです。あの突き当たりは一、二間左に寄ると、また、まっすぐ西に向かう道があります。それを今度、突き当たったら、右にいらっしゃったら、すぐ左側にありますから、このまま行ってください。奈良町に住んでいる人たちは、この位の曲がり方だと、つい真直ぐと言ってしまうので、ごめんなさいね。あの出っ張っている辺りには、平城時代、元興寺の南大門があったということですよ。それに続いて中門、金堂とあった一角が、長年の間に何度も火事や地震があって、復興のために集まった工人達や、その生活を支える人達によって町が形づくられてゆく時、遺構をよけて道が造られたのでしょうね。今から行かれる“こんどう”さんの隣にも小塔院というお寺があります。今は庵のような小さなお寺ですが、かつては光明皇后ご発願の立派なお寺が建っていて、現在は元興寺の収蔵庫に納められている、五重の小塔がお祀りされていたとも、称徳天皇が百萬塔を各地のお寺に分けて納められた時、元興寺に納められた塔を納められた院だとも言われている由緒ある所なのです。道が分りにくくて大変だったでしょうけれど、これも奈良町の風情の一つだと思って、ゆっくりお昼食を召し上がってくださいね。」と言ったら、その方達は「それを聞いて一層奈良町が大好きになりました。」と喜んでくださった。
 私が住んでいる元興寺町も、人に聞かれると、つい「猿沢池の西側の道を真直ぐ南に来てください。」なんて言うけれど、やはりこの、金堂、中門、南大門の一角で、突き当たってしまうと思う方があるかも知れないから、気をつけなくてはならないと思った。
 創建当時の元興寺の境内地は東方の山地から延びた丘陵地の先端部にあたり、北は、興福寺の放生池である猿沢池のすぐ南を流れる率川から南は飛鳥川に至る広大なもので、その間に、清水通りの名で知られる、春日山山系からの清らかで豊かな水脈に恵まれた聖地であった。
 私の家は、南大門跡より南で、今は暗渠になっている飛鳥川とのちょうど中間に当たる。南大門というと、境内の南端の正面にあるような気がするのだが、元興寺の場合、南大門の外(南)の東側に南院、西側に花園院があったということだ。私の家の辺りは、仏様にお供えする花を栽培する花園か、または、その花園を管理する花園院が建っていたらしく、すぐ近くには花園町という町名も残っている。私は、私にできるささやかなボランティアとして、奈良町を訪れてくださるお客様方に、機会があれば、奈良町の昔話を聞いて頂いたりしているが、自宅で話をする時、話の結びに次のような言葉を述べることが多い。
 「今、皆さまがおられるこの土地には、天平の頃は元興寺の花園になっていたそうです。当時の南都の大寺というのは、信仰の道場というだけではなく、貴族の師弟のための国立大学のような役割も果たしていた訳ですから、歴史に名が残っているような公家達も、勉学疲れを癒すために花園を散歩されたこともあるでしょう。天皇や皇后も行幸の折は、仏様に捧げるために丹精こめて育てられている花園を訪れられていたかも知れません。この土地の下には年輪のように、華やかに行幸行啓を迎えた時代、平重衡の乱で南都が炎上した阿鼻叫喚の時代、元興寺極楽坊が極楽往生を渇仰する民衆の信仰を集めて門前市をなしたであろう時代、土一揆によって焼かれた時代などの地層が積み重なっています。その上に、今、我々のような普通の人間が普通に生活しているというのが、奈良町の面白いところです。一見どこにでもあるような古ぼけた町ですが、そうした目でご覧になれば、一木一草にも興の尽きぬものがあると思いますので、どうぞゆっくり、ご散策ください。」
 飛鳥にあった法興寺の中金堂や本尊などを飛鳥に残し、他の伽藍の大部分を平城に移して、元興寺と改称され、飛鳥に残った旧法興寺も本元興寺と呼ばれるようになったのにともない、飛鳥という地名も平城に移ってきた。
 萬葉集にある、大伴坂上郎女の歌に
ふるさとの 飛鳥はあれど 青丹よし 平城のあすかを みらくしよしも
 と詠まれているように、近つ飛鳥(河内)遠つ飛鳥(大和)と共に、平城の飛鳥ができたのであろう。
 今は暗渠になってしまって地上から姿は見えないが、元興寺の南の境界を流れていた飛鳥川は(昔はもっと広かったのかも知れないが)、昭和二十年代頃までは地表を流れていて、この辺りの町のお年寄り達は「わしなどの子供の頃は飛鳥川で鮒釣りをして遊んだものや。」と言っておられるし、私も子供の頃、七夕の笹や「河童にさらわれない為のおまじないだ。」といって家庭菜園で出来た、初なりの胡瓜に名前を書いて、この川に流したことを覚えている。この地区には飛鳥小学校や飛鳥中学校があって、飛鳥校区と呼ばれ、飛鳥という呼称はしっかり残っている。
 しかし、私が子供だった昭和の初め
頃には、名刹元興寺は、安政六年に焼失した五重塔(東大塔)の礎石を残すのみでなくなってしまい、周辺に残る町名にその名ごりを留めるだけだと思われていた。もちろん、極楽院という無住の古い寺はあったが、雑草が背丈より高く生い茂り、お化けが出そうな破れ寺で、それが飛鳥から移築された元興寺のオリジナルな建物であるとは、誰も知らなかった。というのは、本山から特任住職として派遣され、二十年余りの辛酸を重ねて復興をなし遂げて中興の祖と仰がれている辻村泰圓さんでさえ、著書「無尽蔵」で次のように述べておられる。
 「昭和十八年当時、この寺もようやく禅室といっている長いお堂は元興寺の元僧坊らしいとか、本堂は有名な智光さんが住んでいた住坊で、極楽院と呼ばれ、いわゆる浄土信仰が起こってきた由緒のある建物であるということが解ってきて、私が特任されて住職となり、元興寺の修理、整備が始まった訳です。
 禅室の解体は昭和十八年から始まりましたが、私は召集を受けて兵隊に出てしまう、一方戦争は激しくなって修理作業はストップしてしまいました。
作業が再開したのは昭和二十二年頃からです。むかし『滅びゆく文化財』という文化映画が出来て、まず音楽が始まって、最初に出てきたのはこの寺でした。建物がこわれていたり、本堂につっかい棒がしてあったりで、滅びゆく文化財の第一号だったのです。そうした必然性と、元興寺というものがだんだん解ってきて、国からの予算も頂けた訳です。(この頃、住職は文化財保護委員会へ毛布を持ち込んで、夜は椅子を並べたり、机の上に毛布を敷いたりして、泊まり込みで予算折衝されたそうである。)
 工事が進むにつれて、この建物の真価がだんだんわかってきました。解体した禅室の柱の寸法を測ってみたら、どうもうまくゆかない。これは天平尺で計算してみたら、というので計算するとぴったり天平尺にあてはまるので、奈良時代の建物であるということが解ってきました。本堂の解体修理をすると、もっと正確に僧坊というものがわってきました。本坊の内陣が僧房の一室分に当たる訳です。また、天井裏からいろんなものが出てきました。最初は何かゴミクタのようなものが放り上げてあるのだろうと思っていたところが、コケラ経(木片に書いたお経)や印仏、板絵(仏様の像を描いたり判で押したりしたもの)、離別和合祭文といったものでした。これらは鎌倉の修理前の藤原後期から鎌倉、室町のものです。これ等と境内の地下から出土した石仏、納骨器等は、仏教が貴族の仏教から、庶民が仏教にかかわりを持つようになった中世の遺物群として重要なものです。日本の仏教の庶民化とに最も大きい役割を果すのは浄土教だと思います。浄土教というと平安時代になってからと思われがちですが、その前に南都浄土教というのがあるのです。智光曼陀羅にあらわれた浄土思想、極楽坊と呼ばれた由縁などがそれを物語っていると思います。」
 この泰圓和尚でさえ、昭和十八年に初めてこの寺に来られた時は、あまりの荒れように「これは、えらいことやなあ。」と門の外から覗いただけで引き返されたというから、その荒廃ぶりがしのばれる。
 元興寺は奈良時代から平安時代の初期にかけて、三論・法相などの一方の中心であった。三論(龍樹の「中論」「十二門論」と龍樹の弟子の提婆の「百論」)では智光、法相では護命などの学僧が輩出している。極楽坊の名のもととなった智光曼陀羅で有名な智光様は、三論学の伝統にたって浄土教学を研究されたということである。十世紀から十一世紀頃になると、元興寺の寺院としての勢力は急速に衰え、藤原氏を後ろ盾に持つ興福寺の隆盛にともない、興福寺の勢力下に収められていった。そうした情勢のなかで注目を浴びだしたのが智光曼陀羅であった。
 平安時代初期に樹立された天台宗の教団の中に阿弥陀信仰の浄土思想がたかまり、不断念仏が行われるようになった。十世紀に入ると空也上人(九○三〜九七二)が市聖(いちのひじり)として、市井の民衆に阿弥陀念仏の功徳を説いてまわったので、貴族の間で信仰されていた仏教が一気に庶民まで広がった。さらに、末法思想が、災害や騒乱がおこる度に拍車をかけられて極楽願望が高まっていった。こうした風潮のなかで、智光曼陀羅を安置している堂は、かって智光様が住んでおられた房だというので、「極楽院」と呼ばれ、奈良に於ける浄土信仰の中心となったようだ。天井裏や地下から出てきた膨大な量の、柿経、印仏、摺仏、千仏、納骨器、葬祭関係資料などは、故人や自分たちの極楽往生を願って納められたものであろう。平重衡による南都焼打の時も、土一揆による火災の時も、その他、諸々の災害からのがれて、この極楽坊や禅室は、何度も修理を受けながらも、天平の面影を伝えてきた。
 しかし、そこに吹き荒れたのが明治元年の廃仏毀釈の大嵐である。明治三年には極楽院の朱印地百石が没収されて、旧元興寺の極楽院と小塔院は、本山西大寺預けとなり、無住寺になってしまった。
明治五年(一八七二)極楽院に、奈良町町民有志による私立学校 極楽院小学校ができ、明治六年七月には新学制により、この私小学校は「研精舎第二番小学」という公立学校になった。明治十六年に、この学校は大乗院跡に移転して「飛鳥小学校」となり、そのあとすぐ、極楽院は真宗大谷派の説教所となった。(飛鳥小学校が現在の紀寺町に移ったのは明治三十三年のことである。)大正六年(一九一七)には極楽院に大谷派本願寺立の女学校ができ、昭和三年(一九二八)その女学校は廃校となった。とすれば、辻村泰圓さんが初めて来られた時までには十五年ほどしかたってないのだが、随分荒れ果てていたものだとなと思う。
 あのお化け屋敷のようだった荒れ寺が、仏智に導かれ、辻村泰圓・泰範・泰善三代の住職のはかり知れない努力と、多くの学者や技術者による指導や尽力、膨大な数の人々の善意に支えられて、見事によみがえった。江戸時代頃に取り付けられたと思われる唐破風も取りはずされて、天平の面影を取り戻した元興寺が、平成十年十二月、古都奈良の文化財の一つとして、世界遺産に登録されたのは、千三百年にも及ぶ数知れぬ人々の信仰の賜と思うと、頭の下がるものがある。
 「貴族の仏教資料を持っているお寺は多いだろうけれど、こんな古い庶民の仏教資料をこんなに沢山持っているのは、うちの寺だけやで。」と泰圓和尚の自慢の種であった仏教資料は、昭和四十二年に元興寺仏教民俗資料研究所が設立されて整理整頓がすすめられ、昭和五十三年には、所名を元興寺文化財研究所と改称して、より幅広い文化財の研究や保存復元にとり組んでおられる。
 最近の年輪年代法によると、元興寺の用材が切り出されたのは飛鳥時代であって、日本最初の寺院、法興寺が移築されたものであるということが立証された。
 元興寺は、まさに古代の夢を育んでくれるお寺である。