第87回(2002年07月号掲載
元興寺(3)
平城京に移った元興寺
 和銅三年(七一○)、都が平城へ遷るのにともなって、唐で唯識を学び、斉明七年(六六一)帰朝して法興寺に入られた道昭菩薩が法興寺の一隅に建てて多くの弟子達を教化されていた禅院は、いち早く和銅四年(七一一)には平城へ移って、平城京のすぐ南に禅院寺という独立した寺になった。法興寺が今の元興寺の地に移転したのは、養老二年(七一九)のことで、寺名も元興寺と改称されて、飛鳥に残った法興寺は、本元興寺と呼ばれるようになった。
 地域は平城外京、左京四条・五条の七坊に当り、南北四町、東西二町といわれるが、南院、花園院は更に南にあり、平城京内寺院の例から見て東方の一町幅分も寺地であったろうから、寺地は十五町にも及んだとの説もある。元興寺の、飛鳥から平城京への移転は、養老二年に始まり、八世紀後半には造営を完成したものと思われる。正面の南大門には、弘法大師の書の師匠だったと伝えられる書聖、魚養の筆になる「元興之寺」という額が掲げられ、日本一といわれた金剛力士像二体が安置されていた。その奥に中門があった。

[今昔物語集 第十七巻五十 元興寺中門の夜叉 霊験を施す話]
 今は昔、元興寺の中門(南大門と金堂の間にある門)に、持国天と増長天がお祀りされていた。その使者として八夜叉(四天王の眷族の鬼神達)がいた。其の夜叉は霊験を施すこと限りなしと有名であった。元興寺の僧をはじめ、里の男女、この夜叉に詣でて、読経をしたり、お供え物をし、願い事をすると、一つとして叶わぬことは無かったと言うほど、霊験あらたかだったと伝えられる。
 夜叉というと、つい冷酷な人喰鬼を連想してしまうが、夜叉は古代インド以来、威力のある神として崇められたヤクシャ又はヤクシーと呼ばれる森や樹木の神で、福神と鬼神の二面を持つ神とされていた。ヤクシーは生産力の象徴である地母神として、インド彫刻では樹下に立つ豊満な美人像で表現されている。それが仏教に取り入れられ、仏教を守護する鬼神となり、漢訳仏典では夜叉、薬叉(やくしや)、野叉などと音写された。漢訳仏典によって中国や日本に紹介された夜叉は、悪人を食い、善人を守護する鬼神とか、毘沙門天の眷族として、刀利天(とうりてん)に於て、諸天を守る鬼神として八部衆の一人とされている。霊験あらたかな守護神と信仰されるようになったのだろう。

 霊験あらたかな二天と八夜叉を祀った中門をくぐると、五間四面、重閣の荘厳な金堂が建っていた。
 日本霊異記によると、天平元年(七二九)二月八日、聖武天皇が元興寺で大法会を営まれたことが記されている。神護景雲元年(七六七)にも行幸があって法会が営まれたという記録があるので、前者の天平元年は金堂やその周辺の完成、後者は寺院全体の落慶の法要だったのではないかと考えられる。日本霊異記の上記の話を要約すると次のようなものである。

[日本国現報善悪霊異記 中巻 第一話]
 奈良の都で、天の下の日本国をお治めになっていた聖武天皇は、天平元年春の二月八日、左京元興寺で大法会を営み、三宝(仏法僧)を供養された。左大臣、長屋王(天武天皇の孫で、母は天智天皇の皇女。妃の吉備内親王は元明天皇の皇女という皇族で、政治家の権力者。)に勅して衆僧に供する司に任じられた。
 その時、ひとりの沙弥(修業の浅い僧、あるいは自度僧)が、供養の食事を盛っている所へ行って、無作法なあつかましい態度で鉢を差出して飯を貰った。長屋王はこれを見て、象牙の笏(しゃく・礼服の時、威厳を正して持つもの。)で沙弥の頭を打った。頭が傷ついて血が流れた。沙弥は頭をなでて血を拭い、恨めしそうに涙を流して、急に姿が見えなくなった。それを見た、大法会に集まった多くの僧や俗人達は「不吉なことだ。よくないことだ。」と、ひそかにささやきあった。
 それから二日後の二月十日、天皇に讒言(ざんげん・事実を曲げ偽って、長上に人の悪口を言う。)する人があって「長屋王は天皇を倒して帝の位を奪おうと計画しています。」と申し上げた。天皇はお怒りになって、藤原宇合(うまかい)等が六衛府の兵を率いて長屋王宅を包囲して罪を窮問した。長屋王は「罪なくして囚らわる。これはきっと死ぬことになるだろう。他人の手で処刑される位だったら、自殺したほうがましだ。」と決心して、妻子と共に自害された。
 「ああ、哀れなることよ。福貴盛んな時には、その名声は国中に響き渡っていたけれど、不吉な災難が身に迫ってきた時は、身の拠り所もなく、ほんの僅かな間に滅び去ってしまった。この話でわかるように、自らの高き徳をたのみ、賎しき姿の沙弥を打った行為を、仏法を守護する善神が憎しみ給うたのである。袈裟を着た人達は、たとえ賎しき姿であっても畏れ慎まなければならない。仏・菩薩が本身を隠し、この世に人間の姿となって現れられることもあるのだから。」
 という言葉で結ばれている。
 日本霊異記は、薬師寺の僧、景戒が、一般の人達に仏法を学び、因果応報、勧善懲悪を説くための説話集なので、笏で頭を打った等の話が出てくるが。この話からも、元興寺の金堂落慶法要が、天皇の行幸を仰いでの盛大なものであった事がしのばれる。歴史に残る「長屋王の変」を説話に持ってきたものだが、実際の長屋王は、長屋王願経として、今も世に残る程写経された、信仰の篤い方であり、詩歌にも優れ、その作品は「懐風藻」(日本最古の漢詩集)にも「万葉集」にも納められている文化人でもあった。政治的陰謀事件で落命されたのは、誠にお気の毒なことである。
 平成元年十月二日、奈良の大宮通にそごう百貨店がオープンした。店舗建設に先立ち発掘調査されたところ、出土した木簡等から、この土地が長屋王の邸宅であったことが判明した。展示室に並べられた出土品の数々を見て、しばしば詩宴が催されたという、作宝楼と呼ばれた豪邸をしのんで感慨を新たにした。良い店だったが、諸般の事情で、先年閉店になったのは残念なことだ。
 話がだいぶ脇道にそれたので、もとに戻す。
 金堂の正面には「弥勒殿」という額が掲げられていて、建物の前には高さ一丈(約三m)ばかりの灯籠があった。金堂のご本尊は丈六(一丈六尺 約四・八m)の弥勒仏坐像で、脇侍は千手観音像二体と、無著・世親像。無著・世親は兄弟で、どちらもインドの大乗仏教、唯識派の大学者である。
 四天王像もあり、柱絵や厨子も見事なものであったということだ。ご本尊の弥勒仏は「元興寺縁起」や「今昔物語集」によると、三国伝来の霊仏であると語られている。

[元明天皇 始造元興寺語 はじめてがんごうじをつくれること](今昔物語)
 今は昔、元明天皇、奈良の都の飛鳥の郷に元興寺を建立し給う。堂塔を建て、金堂には丈六の弥勒を安置し給う。その弥勒は、我が国で造られた仏様ではない。昔、東天竺(天竺はインドの古称。東西南北中に分けて五天竺という。その東の天竺。)に、生天子国という国があって、長元王という王様がおられた。
 その国は五穀は豊に稔り、何不自由なかったが、仏法という言葉も聞いたことがなかった。長元王は、初めて「この世に仏法というものがある。」と聞いて、自分の治政中になんとか仏法を知りたいものだと願って「仏法を知っているものを探し出せ。」とお布れを出した。
 それから間もなく大風が吹いて、小さな舟が海岸に漂着した。舟には男が只一人乗っていた。国王はその男を召し出して、「お前は何をしていた人だ。どこの国から来たのか。」と問われた。男は「私は北天竺の法師です。以前は、仏法の修業をしていましたが、今は妻をめとって子供が沢山産れました。貧しくて貯えもなく、子供達が魚を食べたいと言うけれど、それを買う金がないので、しかたなく舟に乗って海上に出て魚を釣ろうとすると、急に強い風が吹きだして、波に翻弄されているうちに、思いがけずこの浦に来ました。」と答えた。
 国王は「お前が仏法の修業をしたことがあるのなら、法を説いてくれ。」とおおせになった。僧は、鎮護国家の教典として著名な最勝王経を読誦して、その大意を説いた。
 長元王は大変喜ばれて「仏法を教えていただいたからには、仏像を造ってお祀りしたい。」とおっしゃった。すると僧は「私は仏像を造るものではありません。王様が仏像を造りたいとお思いなら、真心をこめて三宝に祈願されたら、自然に仏像を造るものがやって来るでしょう。」と申し上げたので、王は僧に諸々の財宝を喜捨して舟で本国に送り届けた。
 その後、また、海辺に童子が一人乗った小舟が漂着した。その旨、王様に奏上すると、王は童子を召し出して「お前は何が出来るのか。」とおたずねになった。童子が「私は仏を造るものです。」と答えると、王は座を下りて童子を礼拝し「私の願うところです。どうぞ仏を造ってください。」と言って、涙を流して喜ばれた。
 童子は仏像を彫るのに閑静な土地を求めたので、王は土地を選び、必要な物品や仏像を造るための用材を運び込ませた。童子は門を閉ざして、手伝いの人を入れないで仏を造りだしたが、門の外から、ひそかに聞き耳をたてると、童子が一人で彫っているはずなのに、四五十人かかって造っているような音がするので、不思議なことだと思っていた。
 九日目に童子は門を開いて、仏像が完成した旨を王に奏上した。王は急いでその場に来られ、仏を礼拝して「この仏様は何という仏様ですか。」とおたずねになった。童子が「これは兜率天の内院にまします弥勒仏です。この仏を礼拝する人は、来世は兜率天に生れて、仏を拝することが出来るでしょう。」と答えると、仏の白毫から光が出たので王は涙を流して喜び礼拝された。
 王は「此の仏をお祀りする為の伽藍を建ててください。」と言われた。童子は先ず伽藍の四面に外郭をめぐらし、中に重層の堂を建てて仏を安置して「東西二町に外郭をめぐらす事は、菩提・涅槃の二果を証する相、南北四町なることは、生老病死の四苦を離れることをあらわす。この仏の名号を称え、礼拝した人は必ず兜率天に生まれて、三途(さんず・地獄・餓鬼・畜生道)を離れて、解脱できるであろう。」と言って、かき消すように見えなくなってしまった。
 王や人民に至るまで、これを見て涙を流して礼拝すると、また、白毫から光が放たれた。その後、この伽藍に僧が数百人も住んで仏法をひろめたので、大臣、百官、人民に至るまで、この仏を崇拝した。長元王は願の如く兜率天に生まれただけでなく、沢山の人が成仏した。その後、この国に悪王が出て、その寺も次第に滅亡して、僧は一人も居なくなり、人民もとうとう滅亡してしまった。
 そのうち、新羅の国王が、この仏の霊験を聞き伝えて、なんとか我が国に迎えて、日夜恭敬供養したいと願われた。新羅の国には賢い宰相がいて、王の命を受けて東天竺に渡り、計略をめぐらせて、ひそかに、かの仏を取って船に積み、海に漕ぎ出した。大海に出ると、にわかに大嵐になって、波が高く渦巻いた。船は木の葉のように波にもてあそばれて、沈みそうになった。海神様の怒りを鎮めようと、船に積んだ宝を次々と海に投げ込んだが、嵐は止まなかった。命を落とさないためにはと、遂に第一の宝である、仏の眉間の珠(白毫相を表すものとして、仏の眉間にはめ込んであった宝石)を取って海に入れようとすると、龍王は手を差し出してそれを受け取った。
 そして風や波がしずまって、心が落ち着くと、宰相は「龍王に珠を渡して命は助かったけれど、国に帰ったら、王様にきっと首を切られるだろう。」と気付いて、海面に向って、涙を流しながら、この心、龍王に届けとばかりに「龍王様は三熱の苦(龍が受けるという三種の苦。熱風や熱砂に身を焼かれる苦。悪風に宝飾衣を奪われる苦。金翅鳥に捕食される苦。)をのがれる為に、仏の珠をお取りになりましたが、私達が本国に帰りますと珠を失った咎で、王様から斬首の刑を受けることになるでしょう。どうかその珠を返して、この苦しみをお救いください。」と訴えた。
 すると、その夜、宰相の夢に龍王が現れて「龍衆(龍蛇の類)には九つの苦がある。しかし此の珠によって、その苦が無くなった。珠を返すから、あなたの苦も無くなるであろう。」と告げた。夢さめた宰相は喜んで、海に向って「珠を返してくださるとのこと、有難うございます。お礼に、沢山のお経の中でも、金剛般若経は罪業を懺悔して消滅させるのに威力のあるお経です。この経を写経供養して、あなたの九つの苦を無くしましょう。」と言って、早速写経供養をした。その時、龍王は海中から珠を船に返し入れた。但し、光は龍王が取ったので珠は光らなかった。その後、龍王は又夢に現れて「私の龍蛇として受ける苦は、此の珠によって救われた。又、金剛般若の力によって、ことごとくの苦が、皆無くなったのを大いに喜んでいる。篤く礼を言う。」と告げた。
 宰相は、その珠を仏の眉間に入れて、本国の新羅に帰り、国王に献上した。国王は大変喜ばれて仏を礼拝し、この仏を祀ってあった東天竺の寺院の絵図面をもとに、早速伽藍を建立して仏を安置された。僧徒も数千人集まり、仏法が大いに栄えたが、仏の眉間の珠は光らなかった。それから数百年たって、その寺の仏法もだんだん衰えて、堂の前の海に見たこともない怪鳥がやってきて、大波が堂までおし寄せてきた。僧達は、この波を恐れて、皆逃げていってしまったので、無住の寺になってしまった。
 この頃、我が国の元明天皇は、この仏(弥勒)の利益霊験を聞かれて「我が国にお迎えして、伽藍を建立してお祀りしたいものだ。」と念願された。天皇の外戚に、非常に賢く思慮深い、修業を積んだ僧がおられて「私が天皇の仰せにしたがって、新羅の国に行って、その仏をお迎えして参ります。天皇もよくよく三宝に祈請していてください。」と奏上したので、天皇は大変お喜びになった。
 僧は船で彼の国に行き、暗夜に寺の前に船を漕ぎ寄せて、三宝に祈請しつつ仏を船に迎え入れ、我が国に仏をもたらした。天皇は欣喜されて、今の元興寺を建立して、金堂にこの仏を安置し給うた。この寺には数千人の僧徒が移り住んで、法相(ほっそう)・三論(竜樹菩薩の「中論」と「十二門論」、竜樹の弟子の提婆の「百論」)の二宗を兼学して、仏法が益々盛んになった。(中略)
 かの弥勒は、今もおわします。仏菩薩の化人がお造りになった仏様であるから、非常に貴いあらたかな仏様である。天竺・新羅・本朝(日本)と、三国に渡り給える霊仏である。正しく、度々光を放って、帰依して信仰する人は皆、兜率天に生まれるという。奈良の元興寺金堂の仏様がこの霊仏である。
 以上が今昔物語に書かれた、元興寺本尊が三国伝来の仏様であるという言い伝えを要約したものであるが、今昔物語集が書かれたのは平安時代後期の一千百十年前後と思われる。その頃はこの弥勒様がおられたのだろうが、宝徳三年(一四五一)十月十四日、蜂起した土一揆のために元興寺金堂が炎上した時、この丈六の弥勒様も焼失してしまった。誠に残念なことである。
 金堂の後の講堂には、丈六の薬師如来坐像と日光・月光菩薩像、等身大の十二神将が祀られていた。この講堂から金堂を囲み、前方南の中門に連なる歩廊は、左右それぞれ四十六間あったという。講堂の奥には鬼伝説が残る鐘楼、幾棟もの僧房、正面が十一間あったという食堂・食殿がある大寺院であった。中門の東には総丈二十四丈もあったという大塔がそびえる東塔院、西には、現在元興寺の収蔵庫に納められている小塔が祀られていた小塔院があった。この小塔には、東大寺の大仏様の開眼導師をされた婆羅門僧正、菩提僊那が日本に来る時に持ってこられた仏舎利が納められていると伝えられている。また、この小塔院は、光明皇后の御願によって建てられ、後に、称徳天皇が奉納された百万塔を、この堂に安置したので、小塔院と呼ばれるようになったとも言われている。
 なにしろ、奈良町には市井の一隅に、ひっそりと建つ小寺や石仏にも、びっくりするような歴史が秘められているのが、奈良町散策の魅力である。