第86回(2002年06月号掲載
元興寺(2)
行基葺きと
今昔物語に書かれた元興寺
 薬師寺の前管長高田好胤様とインドの八大仏蹟巡拝した折のことである。お釈迦様がお育ちになったカピラ城跡で法要を済ませたあと、管長様は付近の民家の屋根を指して「あの屋根をよく見ておきなさいよ。」とおっしゃった。崩れかかった民家の屋根は、瓦もなんとなく雑然としている感じで、意図がよくわからなかった。けげんそうな顔をしている私に、管長様は「あとで時間のあるときに教えて上げるから、写真も撮っておきなさい。あなたが旅の本を書く時の参考になると思うから。」と続けられた。
 管長様はお釈迦様がお産れになったのはルンビニーの無憂華の下であったと言うけれど、それはお産をするのに、お里へ帰られる途中であって、ルンビニーが目的地ではなかった筈だ。お母様である摩耶夫人のご生家のあったラーマ国はどの辺だったのだろう。管長様は今までに七回もインドの仏蹟にお参りされているのに、まだ、かつてのラーマ国までは行ったことがないから、今回はぜひ行ってみたいものだと思って、調べて来られたようだ。
 玄奘三蔵が書かれた「大唐西域記」には「カピラ国より東して曠野・荒林の中を行くこと二百余里にして藍摩国(ラーマ国)に至る。」とあるのをたよりに、カピラ城とルンビニーを結ぶ延長線をはさんで六十度位をコンパスで印をつけて来ておられた。(大唐西域記にある一里とは四○○m位らしい。)
 たまたま、ルンビニー園の内にあるネパールの前国王が建てられたお寺の住職に、ラーマ国の位置を聞かれると、その住職はシャカ族で摩耶夫人の生地であるディーバラハ村の出身だと言うので、管長さんが印を付けてこられた地図をお見せになると、丁度その線上で一致した。
 翌日訪れたお釈迦様のお祖父様である前覚王が治めておられたラーマ国は静かで平和そうな農村だった。お城蹟がある「ディーバラハまで三キロ」という標識が出ている所で車を降りて細い田舎道を歩く。歩きながら管長様がおっしゃった。
「昨日見たカピラ城の周囲の民家の屋根も、この辺りの屋根も、あなたの家の近くにある、元興寺の行基葺きに似ているやろ。玄奘三蔵様は『西遊記』なんて物語に面白おかしく書かれている以上の地道な苦労をして、ナーランダ大学(古代インドの仏教大学)へ勉学に来られた時、八大仏蹟を巡拝して、このラーマ国へも来られたんや。その時、仏教の真髄と共に、インドのさまざまな文化や民俗的な知恵も中国に伝えられた。一方、日本での法相宗の祖である道昭菩薩様は、六五三年、遣唐使として唐へ行かれ玄奘三蔵様に法相を学んで奥義を極め、飛鳥にあった元興寺の前身の法興寺に帰って来られた。それから法興寺の東南に禅院を建て、持って帰られた沢山の経巻を納めて、お弟子さん達に唯識教学をお説きになった。行基様もそのお弟子さんの一人だったんや。道昭様は法興寺の禅院で亡くなられ、都が奈良に移って法興寺も平城京の外京、三条東七坊に移された。昔の坊さんは仏教の修業だけではなくて、土木も建築も薬学も勉強しておられたから、行基様は法興寺の建物を一部移築するについての差配をされたんやろかな。元興寺の屋根の一部に残る創建当時の瓦を使った部分を行基葺きと呼ぶやろ。ここらの民家の屋根瓦は、その頃の形がそのまま続いてるんや。」と教えて下さった。
 今昔物語集では、道昭和尚は唐に渡って、さっそく玄奘三蔵様の弟子にして頂いたように書かれている。一説には、道昭様は弟子にしてもらいたいと、何度も玄奘様を訪れたが、その都度お弟子さんが応対に出て「うちの師匠は天子様から依頼された仕事をしておられて非常に忙しい。他国から来た学生にまで教える時間がない。」と門前払いで、三蔵様にお目にかかることも出来なかった。
 そこで道昭様は「今、玄奘様は、天竺から持ち帰られた教典を納めるために、教興寺(西安の)に大雁塔を建てておられるので、その現場にしばしばおいでになっている。」という噂を聞いて、自分の身分をかくし、土工として現場で働くうちに三蔵様にお会いできて、その天禀(てんびん)を認められて弟子となることが出来たとも言われる。
[今昔物語集 第十一巻 四 道昭和尚亘唐伝法相還来語(どうしょうわじょう とうにわたりてほっそうをつたえてかえりきたれること)]
 今は昔、我が国の天智天皇の御代に道昭和尚という聖人がいらっしゃった。河内の出身で俗姓は舟氏(ふねのうじ)。幼少の頃、出家して元興寺の僧となった。知恵が広く、素直で道心が堅く、仏様のようなので、世の人々から貴びうやまわれていた。このことを聞かれた天皇は、道昭を召しておっしゃった。
「近頃、聞くところによると、唐の国に玄奘法師という人がいて、天竺(インドの古称)に渡って聖教を習って本国に帰ってきたという。その中に大乗唯識(だいじょうゆいしき)という教えがあるそうだ。この教えは、あらゆる存在や現象・事柄は識(心の本体)にかかっている。すべては識の働きによって仮に現出したしたものであると、仏の道を説いているというが、我が国にはまだその教法はない。お前は早く唐に渡って玄奘法師に会って、その教法を習ってきなさい。」
 天皇の命を受けた道昭は、唐に渡って玄奘三蔵の所に行き、受付に出てきた人に「日本の国から、国王の仰せにより、唯識を習い伝えるため参りました。」と来意を伝えた。
 三蔵はこの由を聞いて、早速、道昭を僧坊に迎え入れて面談したが、昔から知っている同志のように親しげだった。その後、唯識の教えを伝授すること一年余り、瓶の水を他の瓶に注ぎ入れるように、秘法を細大漏らさず教示された。その有様を羨んだ三蔵の弟子達が師に向って言った。「此の国(唐)に沢山の弟子達がいます。皆、功徳をおさめ、修業を積んだ人達です。それに、この日本から来た僧を何故そんなに優遇されるのですか。例え、日本の僧が優れているといっても、小国の人ではありませんか。大国の我が国の人にかなう筈がないでしょう。」と。
 三蔵は「お前達、あの日本僧の宿坊に行って、夜、そっと彼の様子を見てきなさい。その後、ほめるなり、そしるなりしなさい。」と言われた。
 三蔵の弟子が二、三人で、夜、道昭の宿坊に行って、ひそかに伺い見ると、道昭は読経の最中だったので、よく見ると、口の中から長さ五、六尺程の白い光が出ていた。弟子達はこれを見て、不思議に思い、稀に見る、尊いことだと思った。また、師の三蔵法師が、他国から来た未知の人の徳行を知っておられたのは、仏か菩薩の化身のようだと悟った。
 道昭和尚は法を納めて帰朝の後、沢山の弟子達のために、唯識の教えを説き伝えた。和尚によって日本にもたらされた唯識の教えは、今、益々盛んである。(本)元興寺の東南に禅院を建てて住んでおられたが、和尚は亡くなられる前、沐浴をして身を清め、清浄な衣を着て、西に向かって端座された。その時に、光が発して房の内を明るく照らし出した。弟子達が驚いて見守っていると、夜になって、その光は房を出て庭の樹木の上で輝きだした。しばらくすると、その光は西方に向って飛び去った。弟子達がこれを見て驚き騒いでいる間に、道昭和尚は西を向いて端座したまま亡くなっておられた。弟子達は、はじめてこの光は師匠が極楽往生される瑞相であったことを知った。そして、道昭和尚は、仏の化身だったのだろうと、世に語り伝えたという。
 元興寺は歴史が古いだけに、今昔物語にも、智光さんと頼光さんの話など、数多く納められている。
[元興寺僧 蓮尊の話]
 元興寺僧 蓮尊が、法華経二十八品(ほん)のうち二十七品は覚えたのに、二十八の普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぱつほん)がどうしても覚えられないで困っていた。ある時、蓮尊の夢に普賢菩薩のお使いの童子が出てきて「あなたは、前世は犬であった。お母さん犬と一緒に家の床下で暮らしていた。その家には法華経の修行者が住んでいたので、毎日、法華経を読誦していた。最初の序品(じょぼん)から妙荘厳王品(みょうしょうごんおうぼん)の二十七品まで誦すのを聞いてから、母犬が他へ行くのに付いて、あなたも去った。あなたは前世に法華経を聞いていたおかげで、今生は人として生れ僧となった。しかし、二十八品の普賢品を聞いていないので、なかなか覚えられないのだが、今ねんごろに普賢品を念じ奉っているから、必ず暗記できるであろう。一生懸命修業すれば、この経の心を悟ることが出来る。」と告げて童子は消えた。その後、たちまちにして普賢品をそらんじることが出来た。これによって僧は、いよいよ信仰を深め、感涙にむせんで礼拝し、経を誦すことを怠らなかった。
[元興寺の隆海律師の話]
 元興寺の隆海律師という人は、摂津の河上の生れで、十七、八才まで漁師をしていた。その国の国分寺の国師が、法要をするのに元興寺の願暁律師という方に来て頂いた。法要の日、漁師をしていた青年は法要を見物に行った。律師の説教を聞いた青年は感激して「法師となって道を学びたい。」と決心して、家に帰って「私は大寺に行って法師になって道を学びたい。」と父母の許可を得た。翌日、願暁律師が奈良に帰られる時、彼は走って付いて行って、自分の決心を話し、元興寺に連れて帰ってもらった。師匠について法文を学ぶと、非常に賢く、真言の密教をも学んで元慶六年(八七四)律師の位まで上がった。隆海律師は道心深く常に極楽浄土に生まれることを願っていた。遂に、命終わろうとする時、沐浴清浄にして、念仏をとなえ、西に向かって端座して亡くなられた。律師の手は阿弥陀仏の定印を結んでいて、葬るときもその印は乱れなかった。これを見聞きした人は貴いことであると、尊敬の念を新たにした。
 とか、いろいろな話が書かれている。

[元興寺と蹴鞠]
 平成十四年五月四日、桜井市多武峰の談山神社で奈良21世紀フォーラムの総会が開催され、記念講演として、京都教育大学教授で奈良橿原考古学研究所指導研究員の和田萃(あつむ)先生から「蹴鞠」に関するお話をうかがった。
 大化の改新の中心人物である、中大兄皇子と中臣鎌子(後の藤原鎌足)との出会いの場となった蹴鞠の会は、法興寺の西の広場、通称、槻の木広場で行われたということだ。槻とは欅(けやき)の古名で、前にも記した通り、法興寺の本堂を建てるために、怪鳥が棲んでいた槻の大樹が切り倒されたが、寺の西側には数本の大木があって槻の広場と呼ばれ、公式行事や蹴鞠や打鞠(騎馬で曲杖をもって鞠を打つポロ風の競技)等、貴族のスポーツによく使われていた。
 日本書紀によると「中臣鎌子は人となりが正しくて、意気が高く秀でていて、曲がったことや不正を正そうという気持ちが強かった。当時、蘇我入鹿が権勢をふるい、専横を極めていた。皇位継承に関しても、自分の意のままになる天皇を擁したいとして、皇位継承の有力者であった、聖徳太子の子、山背皇子を斑鳩宮に急襲して、その一族をことごとく自殺させてしまった。鎌子は大いに怒って、皇族方の中で、自分と力を併せて入鹿を倒して、正しい王政に戻して下さる立派な主君はおられないものかと探していた。心の中では中大兄皇子(後の天智天皇)が良いと思ったが、なかなか近づく機会がなくて、自分の心の底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄皇子が法興寺の槻の木の下で蹴鞠をする仲間に加わって、蹴鞠をしていると、皇子が鞠を蹴られた拍子に皮靴(みぐつ)が脱げ落ちたので、それを掌に乗せてひざまずいて恭んで奉った。」
 二人はこれから非常に親しくなり、肝胆相照らして談じあったのが、人目につきにくい多武峰であったという。そして遂に、六四五年六月、飛鳥板蓋宮での儀式の場で入鹿は暗殺され、父の蝦夷(えみし)も甘樫岡の邸に火を放って自殺した。そして年号も改められ、大化の改新と言われる大きな国政改革がなし遂げられた。これとよく似た、蹴鞠を契機として英王と輔佐の臣が出会う話が新羅にもあったと三国史記に出ているそうだ。
 日韓共催のサッカーのワールドカップを目前に控えて湧き立っている折柄、サッカーの前身とも言える、古代の蹴鞠の研究がなされ、鎌足公を祀る談山神社で奉納試合が行われた。現在、各地の神社で奉納されている蹴鞠は、平安時代頃、貴族の遊びとして日本に定着した、長絹の直垂(ひたたれ)の下に葛袴をはき、水干(すいかん)をつけた優雅な姿で、鞠を一定の高さに蹴り上げ、正式な動作で落とさないように蹴る回数が多い方が優秀とする王朝絵巻のように優美なものだが、大陸から入ってきたばかりの頃の蹴鞠は、もっと競技的なものだったのではないかと研究されたものである。
 衣裳は万葉研究家の猪熊先生が考案された、飛鳥時代の大宮人のスポーツ着らしきもので、色も赤、黄、青と大陸的な感じだ。スポーツジャーナリストの賀川浩さんが加わって再現された万葉蹴鞠は、一チーム六人のメンバーで対戦する。それぞれの鞠場で二回以上蹴り合ってから相手の鞠場に鞠を蹴り入れ、相手が地面に落とすと得点になる。足で蹴るだけでなく、頭や胸ではね返したり、なかなかの熱戦で、おおらかな万葉人の競技を見ているような気がした。
[註]奈良21世紀フォーラムとは奈良県住民を対象に、地域の文化とスポーツの振興、歴史的につながりの深いアジア地域との国際協力等の活動、品格あるまちづくりの推進によって、ふるさと奈良県の一層の活性化と発展に寄与することを目的とした特定非営利活動法人です。
 古代日本と朝鮮半島で行われていたという蹴鞠が、日韓の文化交流に役立つことを念願する。