第85回(2002年045月号掲載
元興寺(1)
仏教伝来と法興寺
 元興寺の前身である法興寺(本元興寺とも飛鳥寺とも呼ばれる)は、日本で最初の本格的仏教寺院である。
[仏教の伝来]
 仏教が日本へ公式伝来したのは「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」によると、欽明天皇の御代(五三八)。百済の聖明王から金銅の釈迦仏像一体と、幡(ばん)と蓋(がい)を若干、経典などが朝廷に献上された。(書紀では五五二年となっている。)
 仏像や経論を初めて目の当たりにされた天皇は、文武百官を集めて、この教えを受け入れるべきや、否やを問われた。その時、蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国は、ひとしくみな礼拝しております。我が国だけが拒絶する訳にはいきません。」と奏上した。一方、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は「我が国の王が、蕃神(あだしくにのかみ 外国の神)を礼拝されれば、きっと国神(くにつかみ 日本古来の神)の怒りを受けるでしょう。」と言上して反対し、朝廷では仏教の受け入れの可否をめぐって、論争が沸き起こって、遂には政治問題にまで発展していった。天孫降臨を信じ、古来の神々の祭祀を司る人達にとって、天竺で生まれた釈迦の教えは、外国の神と感じられたのであろう。結局、天皇は「心願の人、蘇我稲目に授けて、試みに礼拝させるのがよい。」と、個人的に仏教を信仰することを許した。
 稲目は歓喜して、向原(むくはら)の家を喜捨して寺(豊浦寺の前身)とし、ねんごろに仏をお祀りした。ところが、その後疫病が流行して沢山の死者が出た。物部尾輿などは「先日、私どもの申しあげることを用いずに、仏を祀らせたので、多くの人達の死を招きました。あまり時のたたぬうちに旧に復したら、必ず慶賀することがあるでしょう。早く仏像を投げ棄てて、後の福を求めるべきです。」と天皇に奏上した。天皇の許しを得て、排仏派の人達は仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火を放った。寺は焼け落ちて何も残らなかった。この時、風も雲もないのに、突然、大殿(天皇)の宮殿に火災が起こったということだ。(日本書紀による。)
 敏達天皇の六年(五七七)百済への国使 大別王が帰国する時、百済の威徳王より、経論若干巻、律師、禅師、比丘尼、呪禁師(じゅごんし)、造物工、造寺工、六人を献じられたが、結局、大別王の寺に安置された。皇后(後の推古天皇)は、欽明天皇と稲目の遺言をあげて、仏教の公認を願われたが、天皇は国論の不一致を理由に、その要望を聞き入れられなかった。
 数年後、国内に災害があったので、稲目の子の蘇我馬子が卜(占い)によって仏教の布教を願い出た。馬子は仏道の修行者を探し求めたところ、播磨に高麗僧 恵便(えべん)と尼の法明がいたので、それを師として、出家した三人の尼を修業させた。
 敏達天皇十三年(五八四)には、百済から来た鹿深臣(かふか)が、彌勒菩薩の石像を一体、佐伯連が仏像を一体持ってきた。鞍部村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等(しめだちと)が得た仏舎利を馬子に献じたので、馬子などはますます仏法を信じて、石川(橿原市石川町)の宅に仏殿を造った。翌年、春二月、馬子は大野丘の北に塔を建てて、先の仏舎利を塔の柱頭に納めた。この時また、国に疫病が流行って沢山の人民が死んだ。物部守屋連は「欽明天皇の御代にも、只今も、疫病が流行するのは、もっぱら蘇我臣が仏法を修法するからではないでしょうか。」と言上した。勅許を得た物部守屋は、自らも寺に出かけ、塔を切り倒して火を放ち、仏像も仏殿も共に焼き払った。燃えなかった仏像は難波の堀江に棄てさせた。この日、雲もないのに俄に風が吹き大雨が降ったそうだ。
 しばらくして、天皇と物部守屋は、天然痘(てんねんとう)にかかり、この病は国中に大流行した。天然痘にかかった人達は「身体が焼かれ、打たれ、くだかれるようだ。」と涙を流して苦しみ「これは、仏像を焼いたむくいだ。」とひそかに語り合った。
 六月、馬子は天皇に「疾病はいまだにおさまりません。三宝(仏法)の力を受けないと救うことは出来ないのでしょうか。」と奏上した。天皇は「汝はひとりで仏法を行いなさい。余人に勧めてはならない。」と詔され、八月十五日に崩御された。
 三十一代天皇に即位された用明天皇は、仏法を信じ、神道を尊ぶ温厚な方で、聖徳太子のお父様である。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が政の中心にあって対立し、政治生命をかけて争う中で、天皇は常に中立であったとは言うものの、敏達天皇は排仏に傾き、用明天皇は仏教に同情的であったようだ。しかし残念なことに、用明天皇二年四月二日、磐余川のほとりで祭礼の最中、病で倒れられ、双槻の宮に戻って、群臣に向って「朕は三宝に帰依しようと思う。卿ら議せよ。」と詔された。物部守屋達は天皇の御意に反し「何故国神に背いて他国の神を敬うのか。」と反対し、蘇我馬子達は「詔のままに天皇を助け奉るべきだ。」と激しく対立した。天皇は対立の中で、四月九日に亡くなられた。
 そこで崇仏と排仏の争いは、蘇我氏の推す泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と、物部氏の推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)との皇位継承争いとなった。同年六月に穴穂部皇子は殺され、翌七月、両派は兵火を交えることとなった。
 蘇我馬子の側には、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)難波皇子、春日皇子等の諸皇子に加え、巨勢(こぜ)、膳(かしわで)、葛城臣等の豪族達が共に兵をひきいる大軍団が。迎え撃つ物部守屋の軍勢も、大伴、阿倍、平群、坂本等の豪族の連合軍で、戦略に長け、強く盛んで、皇子達や蘇我方の兵士達は、三回も退却しなければならなかった。
 この時、厩戸皇子は、まだ十四、五才で、額で髪を束ねた少年であったが「もしかすると負けるのではないか。これは、仏に願をかけなければ勝てないかも知れない。」と思って、かたわらにあった白膠木(ぬるで ウルシ科の喬木)を切り取って、急いで四天王の像を作って、頂髪(たぶさ)に置き「今、私を敵に勝たせて下さったら、必ず世を守る四王のために寺塔を建立し奉ります。」と誓われた。
 また、信貴山、朝護孫子寺の寺伝によると、聖徳太子は八才の時、信貴山で初めて毘沙門天を感得され、後に仏敵物部守屋の討伐を祈念されたのが三寅の日(寅年の寅月寅の日)であったという。
 勝利を得て後、この山を「信ずべき、貴ぶべき山」であるとして信貴山と号し、自刻の毘沙門天を祀る、この寺を建てられたのである。以来、信貴山では今も、寅年、寅月、寅の日には三寅詣での行法が行われ、沢山のお参りがある。
 太子が四天王に祈願しておられる時、蘇我馬子も祈念して「すべての諸天王、大神王たち、我を助け護ってご利益を得させて下さったなら、、諸天と大神王のために寺塔を建立して三宝を伝えよう。」と誓った。誓い終わって兵を整え、再度討伐に向うと、今度は大勝利を納め、守屋とその子は戦死し、排仏派は総崩れとなった。乱を平定した後、聖徳太子は難波の地に四天王寺を建立され、馬子も本願のとおり飛鳥の地に法興寺を建てたと日本書紀には記されている。
 仏教は公伝以来約五十年、この間、二度に及ぶ迫害と激しい内乱を経て、ようやく我が国に定着することが出来た。ちょっと歩けば神社やお寺があり、お寺にも鎮守として神を祀る奈良の地で育った私には、仏教が入ってくるのに、それ程の抵抗があり、その調整に五十年もかかったのは不思議な様に思えるが、岩城隆利先生は、新宗教の受容としては、五十年にわたる曲折も比較的短い方だとおっしゃる。日本在来の神道が仏教を許容して、後に神仏習合といった形が現れる程、今では日本人の心の中に定着している。
 仏教の渡来は、それにともなって、高度の思想・芸術・技術等の先進文化を日本にもたらし、文明をすすめると共に、統一国家体制の形成に大きな役割を果たすこととなった。
[本元興寺と呼ばれる法興寺(飛鳥寺)の建立]
 崇仏、排仏の争いにも決着がつき、崇崚天皇が即位され、仏教はようやく興隆期を迎えた。崇崚天皇元年(五八八)百済からの使者が仏舎利、僧侶、寺大工、鑢盤博士、瓦博士、画工等の技術者を伴って来日した。おそらく寺院建立のために日本から要請されたものであろう。いよいよ法興寺の造営にかかるために崇崚三年(五九○)には法興寺の建築用材の伐採が始まり、五九二年に金堂と回廊の建築に着手した。この十一月、崇崚天皇が崩御され推古天皇が即位された。
 今昔物語集 巻十一に「推古天皇 造本元興寺語」(もとのがんごうじをつくれること)という話があるので要約してみる。
 今は昔、推古天皇という女帝の御代に、仏法が盛んになった。天皇も銅で丈六の釈迦の像を百済から来た仏師に鋳造させて、飛鳥の郷に堂を建てて安置し給おうとして、先ず堂を建てる所を選定された。その地(飛鳥真神原 まかみのはら)には、いつから生えていたのかわからない程、古い槻(つきのき ケヤキの古名)の大木がそびえていた。
 「この木を切って堂の基礎を築くべし。」の宣旨を受けて工事の責任者である役人が、工夫達に木を切るように命じると、人々は大騒ぎして逃げてしまった。その後、他の人に伐らそうとしたが、斧を二三度打ち立てただけで死んでしまった。又、他の人に伐らせたが、やはり前の人のように俄に死んだので、一緒にいた人達は皆これを見て、斧や伐採道具を投げ捨てて、なりふり構わずに逃げてしまった。その後は「いかなるお咎めを受けようとも、もう決して木のそばには近寄らない。命があってこそ、役所のお仕事もさせて頂けるのだ。」と言って怖れおののいた。その時、ある僧が「どうしてこの木を伐ると人が死ぬのだろう。なんとかしてその理由を知りたいものだ。」と思って、雨が激しく降る夜、僧自身が蓑笠を着て、雨宿りをするように木の下に近づいて、古木の根元にある空洞のそばにひそかにたたずんだ。夜が更けてくると、木の空洞の上の方から多くの人の声が聞こえてきた。耳を澄ませて聞くと「度々この木を伐りに来る者を、伐らせないように皆蹴殺したが、最後まで伐採させないわけにはいかないだろう。」と言う。又、違う声で「それでも毎回蹴殺そう。この世に命惜しまない者はいないから、木を伐ろうとする者はなくなるだろう。」と言う。又、異なる声がして「若し、麻苧の注連縄を引き回らして『中臣祓』(なかとみのはらえ 六月・十二月の大祓に神前で述べる祝詞)を読み、杣人達に墨縄をかけて伐らされたら、我々はなすすべがなくなる。」と言えば、みんな「ほんとうにそうだ。」と心配そうに言い合っている。夜が明けはじめて鳥が啼き始めると、木の上の声はしなくなった。
 僧は良い事を聞いたと思って、この由を奏上すると、天皇は大変お喜びになって、僧の言うように麻苧の注連縄を木の本に引き回して、魔除けの散米をし、幣帛を供えて、中臣祓を奏上する。一方、杣人達を召して、墨縄をかけて伐らせると、一人も死ぬ者はなかった。木が傾いた頃に、山鳥のような大きな鳥が五、六羽ばかり、木末から飛び去っていった。その後、倒れた木を運び出して、御堂の壇を築いた。宿を失った鳥達は、南の山の辺りにいるということを天皇がお聞きになって、鳥を哀れみ、社を造ってこの鳥達に与えられた。
 堂も完成したので、開眼供養の日(書紀によれば推古十四年〈六○三〉四月八日)の早暁、仏像(丈六の釈迦仏)を堂に納めようとしたが、仏は大きく、堂の南の戸は狭くて入らない。壁を壊さなくてはならないと大騒ぎをしていると、年八十才位の老翁が出てきて「サア、皆さん、私の言うようにしなさい。」と言って、仏像のあごを引き回すようにして、頭の方を前にして、いと安らかに堂に納めた。アッケにとられた人達が、やっと「この翁は何人か。」と探したが、掻消すようにいなくなってしまった。あちこち探し回ったが遂に見つからず、これは仏菩薩の化身であろうと人々は言った。時刻になったので法要が始まると、仏の白毫から白い光が出てきて、中の戸から外へ出て堂の上を蓋のように覆った。皆「これは奇瑞なことだ。」と慶びあった。落慶法要の後は、聖徳太子が引き継いで執行されたので、仏法は益々盛んになった。本の元興寺という。この仏は今もおられる。「心ある人は、必ず参って礼拝して奉るべき仏である。」と語り伝えられる。
 この物語に出てくる仏とは、鞍作の鳥(くらつくりのとり 止利仏師)に命じて造らせた丈六(高さ約四・八m 台座を含む)の金銅釈迦如来像である。物語では仏の化身が納められたことになっているが、日本書紀では「仏像が金堂の戸より高く堂に納めることが出来なかったので、工人達は『堂の戸を破って納めよう。』と言ったが、鞍作の鳥は秀でた工匠なので、戸を壊さずに堂に入れることが出来た。」となっている。
 この丈六のお釈迦様が、現在の飛鳥寺(安居院)のご本尊で、飛鳥大仏と呼ばれている仏様である。昭和三十一年(一九五六)から翌年にかけて飛鳥寺(本元興寺)跡の発掘調査が行われた。当時の法興寺は、塔を中心として、東西と後方に金堂を配した一塔三金堂の伽藍配置で、百済でも見つかっていない珍しいものだそうだ。
 現在飛鳥大仏と呼ばれている釈迦像は、中金堂の本尊であったらしく、位置もそのまま保っているということだ。推古三年(五九五)に高句麗僧の恵慈(えじ)が渡来してきて、百済僧 恵聡と共に法興寺に住んで「三宝の棟梁」となっているので、高句麗の影響を受けているのかも知れない。(高句麗時代の遺跡には、塔を中心に三方に建物を配したものがあるということだ。)