第83回(2002年03月号掲載
喜光寺(3)
淡墨桜と山田法胤住職
 薬師寺の前管長、故高田好胤様がまだお元気だった頃のことである。四月の第三日曜のご法話日に、お写経道場の前まで行くと、道場前の桜の木の下に管長様が立っておられた。「今日はご法話をなさるのでお忙しいでしょうのに、どうなさったのですか。」と聞くと、「忙しいのはいつものことやけどなあ、もうあんたらが来る頃やと思って出迎えてましてんがな。」と冗談でひとしきり笑わせておいてから、おもむろに、「この桜は淡墨(うすずみ)桜といって、咲きかけは淡いピンクで、満開になると白色、散る前に薄墨色を帯びてくるという珍しい桜で、岐阜県の根尾村、樹齢千五百年といわれる天然記念物に指定された名木があるのや。うちの法胤(現薬師寺執事長 喜光寺住職の山田法胤様)が、この山深い根尾村の出身なので、昭和五十一年四月の金堂落成の時に、お祝いにと、根尾村の人達が、この名木から採った若木を二本持って来て、ここと境内に一本づつ植えてくださったんや。小さかった木が、こんなに立派な成木になって、一昨日見た時は、その名の通り、薄墨色を帯びた花が見事に咲いていたので、あさって皆さんが来られる時まで、この花がもってくれたらな、と願ってたんやけれど、花に嵐やなあ。たった二日で、すっかり葉桜になってしまったなと思って眺めてたところや。」とおっしゃった。
 私はこの話を聞いてびっくりした。桜は成長するのが早い代わり、病虫害に弱くて、樹齢は杉や桧のように長くないと信じていたからだ。というのは、私共が経営する奈良自動車学校を設立した時、学校というと入学式の日の満開の桜のイメージが強く、シーズンを問わず毎日入学して卒業していかれる自動車学校であるのに、学校には桜がつきものとばかりに、桜の木を何百本も植えた。最初は若木で白っぽい花をチラホラしか咲かせなかった桜は、グングン成長して、四、五年のうちには見事な花を見せてくれるようになった。しかし、電車の線路側の木は、枝が伸びすぎて架線にふれてご迷惑をかけてはいけないとか、木が小さいうちは、かなり間隔をあけたつもりが、枝と枝がくっつき合うという理由で「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。」ということわざがあるのを知りながら、枝を切らざるを得なくなった。すると、切り口から腐ってきたり、又、葉桜の頃になると毛虫が大発生して、枯れたりで、今、皆さんから「自動車学校の桜、綺
麗ですね。」と言って頂けるようになるまでには、随分沢山の木が枯れてしまった。この経験から、桜の寿命は長くても二、三百年位だろうと思い込んでいたからだ。
 散り際の良い桜と見えて、残花もなく淡い墨色の花を偲ぶべくもなかった。私はそれ以来、薄墨色の花を咲かす、千五百年もの年を経た桜の巨樹を一度見たいものだと思っていた。
 平成十一年の春、奈良交通から「山田法胤師と西国三十三番札所の谷汲寺へ参詣、根尾の淡墨桜を見に行く」という企画のご案内を頂いて、早速、初日に参加することになった。
 谷汲寺は正式には谷汲山華厳寺という、西国第三十三番の満願霊場である。東大寺長老の清水公照師と西国三十三ヶ所巡礼をして、この寺へお参りした時は十一月も末であったので、参道の桜紅葉もほとんど散り尽くして、お参りの人達も、笈摺(おいずる)を着て輪袈裟をかけた巡礼姿の人が多く、読経の声や鉦の響きの中にも、なんとなく静寂の気がただよっていた。
 春に法胤師とお参りした時は、参道に入った途端、ふんわりと花の雲に包まれた感じで、陽射しまで桜色に感じる程、両脇の桜が満開だった。巡礼さんの数も秋より多いようだが、それも一般のお参りの群れにまぎれる程、たいへんな人出で、両側のお土産屋さんたちの呼び声も活気を帯びていた。
 札所寺らしい、和やかで親しみ易い雰囲気をもつ本堂のご宝前で、平成十年六月二十二日に遷化された薬師寺前管長 高田好胤様のご冥福を皆でお祈りした。
 このツアーは四月十二日と十三日、どちらも日帰りのバス旅行である。思えば、薬師寺さんにとってこの一年は、悲しい事とおめでたい事が相次いで、多忙をきわめた年であった。好胤前管長様ご遷化以来、毎日の忌中法要、八月八日の満中陰法要、十月八日から十日にかけて行われた大講堂の立柱式、年が替わって四月八日には松久保秀胤管長様の晋山式と披露式が済んだばかりである。
 執事長の山田法胤さんは四六時中忙しくお疲れのことと思うのに、朝早く出発して夕方遅くなる、かなりハードなこのツアーに、二日間とも終始一行と行動を共にされた。というのは、せっかく故郷へ帰るのだから、初日の朝は奈良から同行して、その夜は根尾の生家に泊まって久闊を語り合い、翌朝二日目に参加の人達を谷汲寺まで迎えに行って根尾を案内し、一緒に奈良に帰ってこられるのかと思っていたが、生家にも寄らずに二日共、奈良から奈良まで同行された律義さに感心した。
 根尾村は谷汲から根尾川に沿って上流にさかのぼった所にある山あいの村である。平素は静かな山村らしいが、淡墨桜の近くでバスを降りると、山道沿いに露店が出たり、郵便局まで出張して淡墨桜の切手や葉書を机に並べて、たいへんな賑わいである。 坂を登りきって淡墨桜が見えてくると、聞きしにまさる大木である。平成三年の測定によると、樹高十六・三m、幹周りが目の高さで九・九一m、枝張りが東西二十六・九m、南北二十・二mという巨樹だ。大正十一年十月十二日、国から天然記念物に指定されたときの測定では、樹高二十一・八m、幹周り(根元で計ったのだろうか。)十一・五二m、枝張り東西三十一m、南北五十一mメートルあったそうだ。
 千五百年の長寿を保つ桜ではあるが、その間にはいろいろ曲折があったようだ。記録によると、大正年間の大雪で太さ約四メートルの枝が折れ、幹に亀裂が出来た頃から木が弱り始め、村ではいろいろ保護につとめたが、昭和二十三年頃には枯死寸前の状態となった。多くの人達が、この名木が枯れるのを惜しんで、淡墨桜顕彰保存会が結成された。当時、老木の起死回生の名手として有名であった前田利行氏や中島英一氏の指導で、幹周辺の土を掘り起こして調査されたところ、巨根はほとんど枯死状態で、その腐朽した箇所には無数の白蟻が巣くっていたそうだ。ただちに白蟻を駆除し、わずかに活力を残す二百三十八本の残根に、近くの山の山桜から採取した若根を根接すると共に、土壌の入れ替えや肥料を施こされた。
 こうした多くの人達の知恵や労力によって、蘇った桜ではあるが、昭和三十四年九月の伊勢湾台風は、この老木の太い枝を折り、小枝をもぎ取って、見るも無残な姿にしてしまった。
 村としては、早速、支柱を増し、施肥も行ったが、なかなか樹勢の回復には至らなかった。昭和四十二年四月に来村された作家 宇野千代さんは、侘びしく立っている老桜の痛々しい姿に心をうたれ、雑誌「太陽」に、その状況を掲載すると共に、岐阜県知事に、なんとか、この淡墨桜が枯死するのを防いで頂きたい旨、書簡で切々と訴えられたそうである。
 平野三郎知事は、早速視察に来られ、県文化財審議会に淡墨桜の保存を指示された。審議会の依頼を受けた岐阜大学の教授は、診断の結果喜光寺(1)幹周辺をこれまでより広く柵で囲んで根を守る。(2)支柱を増して枝を守る(3)寺白いカビを削り取って幹を守る。(4)肥料を与えて若返りを計る。等の指示を出された。
 桜本来の生命力を甦らせ,樹勢を回復させる延命手術も四回受けて、この老巨桜は不死鳥の如く蘇ったのである。私が行った四月十二日には、この老大木は沢山の支柱に支えられながらも、元気に淡墨色がかった花を見事に咲かせていた。歴史の古さを物語る落ち着いたおもむきの有る美しい桜だが、淡紅色の桜に比べて何となく、もののあわれを感じさせるものがある。それには、この桜が継体(けいたい)天皇のお手植えの桜という、次のような伝説があるからかも知れない。
【淡墨桜の伝説】
 日本書紀によると、男大迹王(おおどおう・後の二十六代 継体天皇)は、応神天皇五世の彦主人王の王子であった。また、一説には、履中(りちゅう)天皇の孫 弘計王(おけおう 後の顕
宗天皇)の王子であるとも言われている。どちらにしても、皇位継承をめぐって大泊瀬皇子(おおはつせおおじ 後の雄略天皇)の迫害から身を守るため、彦主人王、億計王(おほけおう 後の仁賢天皇)、弘計王は、尾張一宮へ落ち延びた。
 年月が経って、彦主人王と振媛(一説には弘計王と豊媛)の間に、男大迹王が生まれた。彦主人王は男大迹王を、より安全な所に隠して養育しようと思って、最近、嬰児を亡くしたばかりの草平夫婦と、女児を出産したばかりの兼平夫婦に、生後、わずか五十日の男大迹王を託して、人目につかない土地に出発させた。
 二夫婦は王を大切に擁護して、辛苦の末、美濃の山奥の根尾の里に辿り着いた。目立たぬように山仕事をしながらも、王は立派に成長され、尾張の目子媛(めのこひめ)と結婚して、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が誕生された。
 十八才の時、お母様のお里の越前の三國に移られるにあたり、住み馴れた土地や住民との別れを惜しんで一本の桜の若木をお手植えされ、次のような歌を残された。
 身の代と遺す桜は薄住よ
   千代に其の名を栄盛へ止むる
 雄略天皇の皇子 清寧天皇崩御後、弘計王は二十三代顕宗天皇となられたが三年で崩御、続いて億計王 二十四代仁賢天皇も在位十一年で崩御、二十五代武烈天皇は皇継者が無いまま若くして亡くなられた。
 大伴金村大連は天皇の血統で仁慈のほまれ高い男大迹王を三國まで迎えに行って、王は二十六代継体天皇として即位された。継体天皇は五十七才で即位されて、八十二才の天寿を保たれたという。また、目子媛との間に生まれた勾大兄皇子は二十七代の安閑天皇に、次男の檜隈高田皇子は二十八代宣化天皇に即位された。さらに、天皇に即位されてから迎えられた手白香皇后との間に産まれた天国排開広庭尊(あまくにおしはらきひろにわのみこと)が二十九代欽明天皇となられた。
 冠位十二階、憲法十七条を制定して国政を整え、深く仏教の興隆に力を尽くされた聖徳太子は継体天皇の曾孫に当たられる。
【根尾村と法胤師】
 喜光寺住職の山田法胤師は、昭和十五年、皇紀二千六百年と日本中が沸き立った年に、根尾村に産まれられた。師の幼い頃は、淡墨桜の周りには、今のような柵が無く、子供たちの良い遊び場だったとなつかしそうにおっしゃる。家族の方達が信仰心が篤く、昭和三十一年一月七日、十五才の時に薬師寺へ入寺されたそうだ。
 数奇な星の元に根尾で十八才まで育ち、後に天皇として大和に入り(磐余玉穂宮)大和朝廷の基礎を築かれた男大迹王。根尾で十五才まで育って大和の名刹 薬師寺で仏道を修行し、日本仏教の大恩人 行基様のお寺を守る法胤さんに不思議なご縁が感じられる。
 余談ではあるが、私達が淡墨桜を見に行った時、奈良交通の常務をしておられた小山手さんもご一緒だった。そして文字通り淡墨を溶かし込んだ様な満開の桜に感激し、帰ってから奥さんに話された。奥さんは翌日のツァーに参加されたのだが、帰ってきて「花なんか、ちっとも咲いていないで、葉桜になってましたよ。」とおっしゃったそうだ。そう言えば、私達が桜を見てバスの駐車場に向かう頃から風が出てきて、だんだん強くなってきたなと思ったが、たった一晩でそんなに様変わりしてしまうものかと、桜の木の下に立っておられた高田前管長様の姿を思い出した。
 私達は淡墨桜に古代の夢を見せて頂いたのだと。