第78回(2001年10月号掲載
喜光寺(3)
喜光寺の仏様達と、
伝承「伏見の翁」
【本堂】
 養老五年(七二一)行基菩薩によって創建された本堂はその後焼失し、現在の本堂は、室町時代の天文十三年(一五四四)に再建されたもの。大仏殿の「試みの堂」とも言われる重層の本堂は、薬師寺の東塔や金堂と同じように、裳階(もこし)を付けた、重厚で美しい復古建築である。上層支輪のあたりに天窓があるので、西方から夕映えが射し込むと、あたかも西方浄土から阿弥陀如来が来迎されるかに見えるという。浄土信仰にふさわしいお堂で、重要文化財となっている。喜光寺は元亀年中、松永久秀の乱によって、宝塔、経蔵、鐘楼、南大門など焼けてしまったが、この堂だけが難を免れて、大仏殿に似た姿を今に伝えている。
【本尊】
 ご本尊は木彫寄木造りの阿弥陀如来。行基菩薩が創建された時のご本尊が何であったかはわからないが、現在は、平安時代作の丈六の堂々たる阿弥陀如来がどっしりと坐っておられる。菅原道真公が太宰府に左遷されて、配所で不本意な亡くなりかたをされたので、その死を悼む人達が故郷の喜光寺で、道真公の菩提を弔うために造られた阿弥陀仏だという説もある。
 木彫の上に下地漆を塗り、その上を金箔仕上されていたらしいが、今はほとんど剥落して、ところどころに金色の名残をとどめるだけだが、それが却って重厚感を増している。
 頭光の周囲に五仏を配し、光背には飛天をつけた、平安時代らしい華麗な造りである。穏やかで静かな表情でゆったり坐り、阿弥陀定印(あみだじょういん・上品上生印じょうぼんじょうしょういん)を結んでおられる。
「註」―坐像の場合、両手を膝の中央に置き、親指と人差指の先をつけ、両手の人差指の背を立て合わせ、他の指を重ねる印。
 豊満な肩から胸にかけての衣文の線は流麗で、阿弥陀如来の慈悲のお心が溢れ出ているようだ。
 脇侍の観音菩薩と勢至(せいし)菩薩の坐像は少し時代が下がって南北朝時代(一三三六〜一三九二年)の作。像高約一・六メートルと、ご本尊に対しては、やや小ぶりだが、笑みをたたえたお顔や坐られた足の表情に親しみを覚えるお姿である。
 行基菩薩のご縁日の二日に、毎月本堂で行われる法要の中で、この両脇侍に親愛の情をこめて、次のような賛歌が参詣者全体で斉唱される。
勢至なる(勢至菩薩)
一、勢至なる 菩提の種を さずかりて
  無明の闇も やがて 明けなん
  オンサンザンサク ソワカ
二、守られし 菩提の種は 智慧を開き
  無上力 なれば 勢至と 名づく
  オンサンザンサク ソワカ
いとけなき子(観音菩薩)
一、いとけなき子らに よみじを 照らしつつ
  御手には乳び たれさせ給う
  南無観世音……オンアロリキヤソワカ
二、今日は父 明日は母よと 叫ぶ子らに
  慈悲の雨ふる 晴を待たなん
  南無観世音……オンアロリキヤソワカ
【行基菩薩坐像】
 ご本尊の阿弥陀三尊の右側に行基菩薩の坐像がお祀りされている。
 喜光寺には江戸時代位までは行基菩薩坐像が安置されていたが、時代の変遷と共に、そのお像は西大寺に移っているという。行基様のお寺に、行基様のお像が無いことを残念に思い、どうしても行基菩薩像を奉安したいと願う人達が集まって、平成十一年四月吉日に、発起人代表を大川靖則奈良市長として「喜光寺に行基菩薩座像を奉安する会」が結成され、二千人もの結縁者が集まった。
 ちょうど、その前年の平成十年は、行基菩薩の入寂千二百五十年の御遠忌の年であったので、それを記念して唐招提寺所蔵の行基菩薩坐像の分身として三体の模刻がされていた。三体の内一体は行基菩薩誕生の地堺市博物館に納め、一体は行基菩薩のお墓のある生駒市の竹林寺に奉安、今一体を行基様入寂の精舎、喜光寺本堂に奉安されることとなった。
 平成十一年十一月十四日、秋晴れの良き日、輿に乗った行基菩薩像は菅原神社前を道楽(みちがく)を先頭に、まつぼっくりならまち少年少女合唱団、信者、式衆にいざなわれて生きるが如く本堂にお入りになった。盛大な開眼法要が行われ、まさに千二百五十年ぶりに、行基様が喜光寺にお帰りになったのである。

【境内の諸仏】
(1)弁天堂
 池の中に弁天堂があり、秘仏の宇賀神王がお祀りされている。二百五十年余り前、当時の住持であった寂照様によって書かれている、興福寺の龍蔵から移されたという宇賀神様だろうか。毎年、七月下旬には公開され、財福、芸能の上達に霊験あらたかであると、信仰を集めておられるそうである。私は拝観したことがないので、この弁天堂にお祀りされている宇賀神王のお姿はわからないが、一般的には宇賀神は穀物の神、転じて福の神とされ、弁財天と同一視され、天女型のものが多いという。
 十年程前になるだろうか、第一勧業銀行の奈良支店長に宇賀神さんという方が赴任してこられた。新任の挨拶に来られた時、名刺を見て、私が「珍しいお名前ですね。」と言うと「弁財天の宝冠に、化仏のように蛇が付いているでしょう。あれが宇賀神ですよ。」と教えてくださった。「宇賀神様が銀行におられたら、それこそ福徳円満ですね。」と、弁財天の話に花が咲いた。
 弁財天はヒンドゥー教の女神サラスパティーが仏教に取り入れられて、妙音天、美音天、大弁財天などと呼ばれ、一般には略して弁天さんとして親しまれている女神。サラスパティーとは古代インド各地の聖河の名称で、それ等の大河の偉大さを神格化した豊饒の神であったが、やがて学問、技芸、福徳を司る神と考えられるようになった。もとの姿は蛇神であるというところから、池や海の水辺に祀られることが多いということである。一方、宇賀神は「日本古来の食物(稲)の霊魂である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とか、大気津比売神(おおげつのひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)などの名で登場する女神で、民間信仰の世界では宇賀神と呼ばれる、穀物の神、転じて福の神とされるから弁財天と同一視され、天女形の像が多い。また、白蛇を神として祭ったもの、狐の神とする説もある。」と辞書にある。
(2)喜光寺の仏様達と、伝承「伏見の翁」 喜光寺の仏様達と、伝承「伏見の翁」石仏群
 江戸時代に彫られた、不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩などの四十七体もの石仏が、境内に散在していたものを一ヶ所に集めて奉安されている。
(3)仏足石
 平成八年この寺の住職の山田法胤様がインド仏蹟巡拝の際、ブッタガヤの聖地にある仏足石を、お釈迦様が苦行された前正覚山の石に写して請来されたもの。(平成八年には私たちも高田好胤前管長様や安田暎胤現副住職様に随行してインド八大仏蹟の巡拝をしたのだが、法胤様は別に行かれたようだ。薬師寺のお坊様方は、しょっちゅうインドへお参りに行っておられるのに感心する。)
(4)いろは写経道場
 お写経道場は平成七年に建立された。ご本尊はインド請来の釈迦成道の像。菩提樹の木で造られた木彫像である。お写経衆は釈迦に見守られながら、毎日お写経に励んでおられる。
(5)蓮の花
 六月下旬から八月上旬位までは、境内の参道に並ぶ二百鉢に余る蓮鉢や池で、大賀蓮や舞妃蓮など三十種を越える花蓮が、紅白様々に咲き誇って、極楽浄土もかくやと思われる風情を展開する。
(6)盆梅展
 平成十三年二月三日から三月二十日まで、菅原道真公(八四五〜九○三)生誕の地である菅原町では、喜光寺と菅原神社を中心として「菅原の里・盆梅展」が初めて開かれた。梅の花を愛し、太宰府へ下向の折、庭の梅に
東風吹かば においおこせよ 梅の花
 あるじなしとて 春な忘れそ
 と詠まれた道真公をしのび、遺徳を顕彰するために始められた行事である。展示された盆梅には百年以上経つ老梅もあり、緋梅、野梅、しだれ梅等、数十種類の名花が芳香をただよわせて訪れた人々に感銘を与えた。これからも毎年、年中行事の一つとして盆梅展を行い、地元や奈良市観光協会なども協力して、西大寺から喜光寺、菅原天満宮、唐招提寺から薬師寺に抜ける新たな観光ルートにしたいと夢をふくらませている。
 以上のように喜光寺のここ十年余りの復興ぶりは目覚ましいものがある。

【伏見の翁の伝説】
 尼ケ辻に鎌倉時代作と言われる石地蔵が安置されている。その辺りが昔から伏見と呼ばれ、近鉄尼ケ辻駅の西南にある垂仁天皇陵も菅原伏見東陵という。
 そのすぐ近くに小高い丘があって、伏見の丘と呼ばれている。聖武天皇が大仏造営を進めておられる頃、どこから来たのか、一人の老翁がこの丘に来て、三年間、頭を北にし、東を向いて伏していた。里人が名前を聞いても生国を聞いても一切答えなかった。人々はこの老人のことを「伏見の翁」と名付けたそうである。
 大仏開眼の大導師をつとめられた婆羅門僧、菩提僊那(ばらもんそう ぼだいせんな)は南インドの人で、文殊菩薩を拝みたいと思って唐の国の五台山に来られた時、遣唐大使の丹治比真人広成(にじひのまひとひろなり)等と親しくなり、その要請に応えて来日された。菩提僊那の来日を喜んだ行基菩薩は、わざわざ難波津まで出迎えに行かれたそうだ。行基様は、あるいは大仏開眼まで生きておられないことを悟っておられたのかも知れない。行基菩薩と菩提僊那が翁の寝ている所に近づくと、翁は笑みを浮かべて立ち入り「叶った、叶った。」と小躍りして喜ばれたそうだ。三人は喜光寺に入り、そのうち翁は姿を消した。
 村人達が行基様に、翁のことをたずねると「東大寺の守護神である。」とおっしゃったので、この地を東大寺守護神影向の霊地としたということである。一説には、翁は文殊菩薩の化身であったとも言われる。
 今そこには鎌倉時代作の立派な阿弥陀如来の石仏が安置されているが、町内の人達は「お地蔵さん」と呼んで親しんでおられるそうだ。
 ちなみに伏見の丘のある近鉄尼ケ辻駅東側の一帯は、通称興福院(こんぶいん)町と呼ばれている。現在、興福院は佐保川西町にある名刹の尼寺であるが、江戸時代までは、菅原伏見の里と呼ばれるこの地にあったと伝えられ、尼ケ辻北町には興福院池という池の名として残っている。
 興福院は宝亀元年(七七○)藤原百川(ももかわ)が建てたとも、天平勝宝の頃、和気清麻呂が聖武天皇の御学問所を移して、弘文院と称したのが始まりとも伝えられる。
 開基は秋篠の豪族の息女、自慶院心慶比丘尼と言われ、後に、豊臣秀長の後室も剃髪して入寺されたとのことで、由緒深いお寺である。尼ケ辻という地名も、鑑真和上が唐招提寺を建てるにあたって、寺院建立の聖地を各所に求めたところ、この地の土が甘くて故郷の唐の土に似ていたから甘壌と称して、この近くに寺を建てられたから、とも、尼寺があったからとも言い伝えられる。興福院は、江戸時代、現在の建物を徳川家綱から寄進されるにあたり、伏見の里から佐保川西町に移られたという。いずれにしろ、仏縁の深い土地である。