第81回(2002年01月号掲載
喜光寺(1)
復興の兆し旺盛な行基様のお寺局
 阪奈道路を奈良に向かって走っていると、旧奈良市内に入る少し手前の左側に、大仏殿を小さくしたような形のお寺が見える。これが試みの大仏殿と言われる清涼山 喜光寺である。
 喜光寺は天平時代、東大寺の盧遮那仏(大仏)造立にあたり大勧進の大役を務められた行基菩薩によって、養老五年(七二一)に創建された寺である。大仏開眼が天平勝宝四年(七五三)であるから、大仏殿の落慶法要より三十二年も前のことである。創立当時は菅原寺と呼ばれていたが、天平二十年(七四八)、聖武天皇がこの寺にご参詣になった時、ご本尊様より不思議な瑞光が放たれたので、それを機に寺号を改め、喜光寺と呼ばれるようになったという。
 喜光寺は、今では奈良の郊外の観があるが、当時は、平城京三条三坊に位置し、平城京のほぼ中央に当たるので、行基菩薩が都で活躍される拠点であり、晩年はこの寺に隠棲して天平二十一年二月二日、この寺で入寂されたというので、喜光寺は行基寺とも言えるお寺である。
 創建当時は五町(約五ヘクタール)もある境内に、南大門・宝塔・金堂・経蔵・鐘楼を備えた一大伽藍であったらしいが、永い年月のうちに、天災や人災によって衰退し、なかでも室町時代末期に起こった松永弾正久秀の兵火によって、甚大な被害をこうむった。
 それからの推移はよくわからないが、少なくとも、私たちが西大寺に奈良自動車学校を設立するに当り、毎日、この寺の横を通っていた昭和三十三年頃は、本堂がポツンと建っているだけで、参拝に訪れるらしい姿も見受けられず、時折、近所の子供たちが本堂前の空地で遊んでいる位であった。
 昭和四十五年、阪奈道路の拡張にあたって、四十四年三月から喜光寺境内の南部の発掘調査が行われ、溝・築地・建物などの基壇跡や多くの古瓦が出土した。創建当時の菅原寺と書かれた瓦も有ったそうで、南大門跡も確認されたが、そこは今、児童公園になっている。
 この閑寂そのもののようだったお寺に、平成二年九月、本山薬師寺の執事であった(現在は執事長)山田法胤師が住職に任命されて、本山と兼務されることになった。法胤師は一巻千円(現在は二千円)のお写経で天平伽藍の復興を着々と進めるとともに、人の心に仏心の種まきをしておられる薬師寺で修業された方だけに、早速「いろは写経」を始められ、行基菩薩のご命日の二日には、法要や法話をされたり、行基会や暁天講座を催されているので、お写経の輪が拡がり、参詣者も増えて、日増しに境内が整備されていった。
 外から見て、随分綺麗になったな、さすが法胤さんだなと感心しつつも、車が入りにくいとか、駐車場はあるのかしら、などと勝手な理由で立ち寄らなかった私が、初めて訪れたのは、平成十年七月二十九日、境内に建てられた万葉歌碑の除幕式に出席する為だった。
 先ず目を奪われたのは、境内のいたる所に咲いている白やピンクの蓮の花だった。池はもちろん、通路脇にも、よく手入れの行き届いた芝生にも、大きな蓮鉢が並べられていて、清らかに凛として咲く蓮の花は、極楽浄土もかくやと思われる風情があった。聞けば、喜光寺は蓮の寺とも呼ばれる程、天竺斑蓮、喜光寺白光蓮、金輪蓮、舞姫蓮、大賀蓮、白君子小蓮、ミセススローカムなど、三十種を越える蓮を咲かせて、仏様の供華ともし、見る人の心を浄めておられるようだ。
 歌碑は、万葉集巻二十 四四九一 石川女郎の歌で
大き海の水底ふかく思ひつつ
     裳引き平らしし菅原の里
 藤原宿奈麻呂(藤原四卿のうち式家の頭領 宇合の第二子)の妻、石川女郎が愛が薄れて離別されたことを悲しみ恨みながらも、幸せだった日々を追憶した歌。
 寵の厚かった頃、大海の水底のように深くあなたのことを思いながら、華やかな裳裾を引いて、道が平らになる位、踏みならして、この菅原の里に通い続けましたのに、あの頃が懐かしいといった歌。一見、仏教とはあまり関係ないようだが、この寺のある位置が、平城京の中心地で、貴族の豪邸が建ち並び、華やかに装った公達や貴婦人が行き交った地であったことがしのばれる。そしてその華麗な衣装に包まれた貴族達の心の襞に隠された、恋の悩みや権力の移ろいの嘆きなど、やはり御仏がやさしく見守ってくださっていたのだろうか。
 歌碑の北側には、お写経道場を兼ねた庫裏も新築されていて、堂々たるものだ。着々と境内の整備を進めながら、今は南大門の復興に意欲をもやしておられる法胤師から、寛延三年(一七五○)九月に、住持沙門 寂照という方が謹書された「喜光寺略縁起」のコピーを頂戴した。なかなか難しいので、解釈の間違いがあるかも知れないが、要約すると、次のようなものである。
 清涼山 喜光寺は平城の西、菅原伏見の里にあり、元明・元正・聖武三帝の勅願で、行基菩薩開創の伽藍の遺跡である。(行基菩薩は、初め法興寺に在り、次に薬師寺に転じ、後に当寺に還り、開祖となられた。)この地は、もと右京三条の三坊にあった寺吏乙麻呂(土師氏の一族)の邸宅であったのを寄進して、建立された寺である。和銅六年(七一四)元明天皇の命によって生馬山を以て杣山となす。東は富山の峰、南は平尾谷并ビニ山道を限り、西は河内、高田和尾、北は山城の山界という広い山を下賜され、この山から切り出した材木で、元正天皇霊亀元年(七一五)はじめて菅原寺を建つ。
 是より先、慶雲三年三月二十七日、葛城ノ王(後の橘諸兄公)和泉の木島郷の田地(諸兄公の米地)と杣山(一名木島山)を菩薩に喜捨し、以来、聖武天皇も、官省符の地を勅入された。新たに菩薩は畿内に精舎四十九所(僧院三十四ヶ所 ・尼院十五ヶ所)を当寺の子院として建て、共に鎮護国家、紹隆佛法 安養兜率往生を祈念した。 此の寺は初め菅原寺と稱し、菩薩手ずから坐身八尺の阿弥陀如来並びに観音・勢至の二脇侍を造り、堂内に奉安す。ある日、聖武天皇が行幸されて阿弥陀佛に拝礼されると、ご本尊のお顔より瑞光明を放って玉体を照らし出した。天皇は大変お喜びになって、詔して、喜光寺と寺名を賜った。
 菩薩は在世中に種々世の中の為に尽くされて、天平二十一年二月二日夜半東南院に於て入滅された。御年八十二才、其の月の八日、火葬して生馬山竹林寺の東陵に葬る。
 天満宮を鎮守するは、此の地はもと菅原道真公の先祖 土師宿弥古人などが住んでいた所であった。菅原の地名により、菅原の姓を賜り、代々この地に住んでおられた。菅公(菅原道真公)も、この地で誕生されたので、寺の東北方に誕生所の旧蹟がある。この故に菅公手ずから自らの肖像(菅原神社のご神体)と、十一面観音の尊像を刻れて、この寺にお祀りになった。
 寺の西南の隅に、宇賀の神、弁財天の祠が有った、と伝えられる。どちらも弘法大師が彫られたものという。なかでも宇賀神(霊龍とも号する)は、興福寺の龍蔵より三橋に移し、又此の地に還る。弁財天は興正菩薩が、相州江の島の神御より勧請されたものと伝えられる。福を求める者には霊験あらたかである。西大寺興正菩薩は、建治元年(一二七五)一乗院門主の招きに応じて、しばらくこの寺の住職をしておられた。この寺は興福寺一乗院に属していたので、徳治・延慶(後二条・花園天皇の年号 一三○六〜一三一一)より観應・應永(一三五○〜一四二八)頃まで一乗院門主三代この寺に隠居しておられて、菅原殿、喜光寺殿とかお呼びしていた。喜光寺の後に古い石塔が三座あるのは、この方達のお墓である。それから数百年たって、延享三年(一七四六)尊賞法親王を金堂の西側に葬った。塔上の院号は洛西法蔵寺百拙和尚、位牌は円照寺宮文應公主のお手書であった。
 元亀年間(一五七○〜七三)兵火の災によって宝塔、経蔵、鐘楼、門など皆焼けてしまって金堂のみが残った。(松永久秀の乱だろうか。)
 文禄の末、豊臣秀吉公が、この寺の堂や仏像を伏見城に移したいと思って、石田木工の頭に命じて、まさに壊そうとする時、俄に使者が駆けつけて解体するのを止めた。どういう理由があったか知らないが、神仏の加護でなければ、この難を遁れることが出来なかったであろう。
 慶長五年(一六○○)の秋、東照神君(徳川家康)が石田三成と戦った関ヶ原の戦で危機に臨んだ時、馬上から遥かに大和の寺院に祈願して、此の戦に勝つことが出来たら、大和の寺院三十三ヶ所に扶持を差し上げますと誓われた。当寺もこの一つとして今に到るまで、其の賜を頂いている。
 又、元和の頃(一六一五〜一六二四)主席覚洞が何度も吉野天川の弁財天に詣でていた。或る時、宮司が扉を開いて内陣を拝ませてくださった。その時、忽然として佛舎利が三粒現れたので、歓喜してそれを頂戴して帰った。更に、唐招提寺、法華寺にお願いして各一粒づつ佛舎利を頂いて心をこめてお祀りし、後世に伝えた。
 先師 貫光和尚は唐招提寺の応量坊に住んで、五重塔の修理をしておられたが、それが終わって、享保九年(一七二四)春、講演のためにこの寺の側を通り、喜光寺があまりにも荒れ果てているのに愕然として、これを恢復したいと、一乗法親王に申し上げると喜んで承知して、工人たちをたくさん集め、十二年(一七二七)金堂の修理をしてくださった。さらに、佛、菩薩、護法天王の諸像、幡や供器など、ことごとく揃えて頂いた。其の時、朱の柱、碧の瓦が林中に聳え、金容玉毫が日に照り映えて、壮麗さを一新した。
 鎮守の神社も次第に修復出来たのも、皆、先師貫光のおかげてある。先師こそ福慧兼備の中興の祖であるが、十二月三日に亡くなられたので、荼毘にふして骨を寺の塔に納めたと聞いている。
 元禄甲戌夏、村の民家から火が出て延焼した。菅廟は僅かに小祠を建てたとはいっても、なかなか復興に及ばず。なやんでいる時、郡山城中の有志の方達が、鳥居が朽ち果てているのを見て、お互いにお金を出し合って、石鳥居を建ててくださった。かねてから額を掲げたいと思っていたので、一乗法親王にお願いしたところ「天満宮」の三大字を書いて額にしてくださったので、延享丙寅の春、これを賜って鳥居に掲げた。
 今、寛延三年(一七五○)の夏、社が古くなったので、新社を造営した。この時に際し、昔をかえりみれば、開創より今に至るおよそ一千三十有年の間の興廃は、惜しいかな詳らかではない。
 年老いて忘れたり、知識不足でわからない所があるかも知れないが、今書いておかないと、年月が経つと、ますますわからなくなると思って是を記すなり。
 出目寛延第三歳庚午 秋九月 
  穀旦に在り 住持沙門 寂照謹書
 とある。今から二百五十一年前のことである。その時でもくわしいことはわからないと書いておられが、これだけでも書いておいて頂いたのは有難いことだと思う。
 今は法相宗大本山の薬師寺の末寺になっているお寺だが、いろいろ変遷があったようだ。また、この二百五十余年の間には、排仏毀釈の嵐が吹き荒れたり、いろいろな風霜に耐えて、今やっと、復興の兆しが旺盛になってきている。薬師寺さんが、日一日と天平の輝きを取り戻しておられるように、喜光寺さんも行基菩薩在世の頃の面影を彷彿させて頂きたいものだと願っている。