第80回(2001年12月号掲載

奈良の鹿(2)

 奈良をこよなく愛された、歌人であり書家としても美術史家としても有名な会津八一先生[明治十四年〜昭和三一年・秋艸道人(しゅうそうどうじん)渾齋(こんさい)の号がある]が書かれた「渾齋随筆」中の「奈良の鹿」の冒頭に、「初めて奈良へ見物に来たものの目に、何よりも先ず氣になるものは、大軌電車の驛を出てまもなく、人通りの多い街のまんなかで、鹿に遇ふことである。人を見て逃げ出しもせず、人ごみのなかを、悠然と歩いて行くのもある。また行く手に大きいのが四五頭立ち塞がって、貰ふべきものを貰わぬうちは、容易に通さぬという気色を示すものさへある。
 このふてぶてしさも、初めての旅人には、かへって物珍しく、なんとなく遠い太古のことなどを考えさせられる。『萬葉集』にある数多い鹿の歌がとりとめも無く、自然と思い出されるのも此の時である。そして、昔の寧楽の都大路の景物のかたみとして、この鹿どもが、今の世にうろついてゐるやうにさねね、思ふ人もあるであらう。」(漢字カナ共原文のまま)と述べられておられる。誠に見事な描写で当時の鹿の様子を表現している。大軌電車の駅といっても、若い方達は、そんなのどこにあったのかとお思いだろうが、今の近鉄奈良駅のことである。
 大正三年に大阪(上六)―奈良間に「大阪電気軌道」という電車が開通し、大軌電車と呼ばれて人々に親しまれた。昭和十六年参宮急行電鉄を合併して関西急行となり、その後、伊勢電気鉄道(名古屋線)、大阪鉄道(南大阪線)等を統合して、昭和十九年、近畿日本鉄道として発足、愛知県から大阪府に至る六府県にわたる私鉄最長のキロ数を誇る、略称近鉄となった。
 従って、これが書かれたのは、昭和十六年以前のことと推察されるから、ちょうど私が学校に行くのに、毎日、この辺りを通っていた頃、よく見かけた光景なので、そうだ、そうだと心から納得できる。当時は観光客が今より少なかったのか、鹿の方からお客さんを探しに来て、おじぎをしながらすり寄るようについて来て、餌をねだったものだ。
 最近では、春秋の連休などには、飽食した鹿が木陰などにうずくまって、人が通るのを横目で見ていることもある。この間、南円堂の近くを歩いていると、子供連れのご婦人から「一寸おたずねしますが、鹿はどこへ行ったらいますでしょうか。」と声をかけられた。鹿なんか、いつもこの辺りに何頭も群れをなしているのに、と思って見まわしても、その近くに鹿の姿は見あたらない。その方は「東京から大阪へ用事があって来たのですが、少し時間があるから奈良まで足を伸ばして孫に鹿を見せてやろうと思って探しているのですが、帰りの新幹線の時間が近づいてくるのに、鹿がいないんです。」と言われる。
 近くにいる人に聞いても「いつもはこの辺りに五六頭うろうろしているんですけれど、今日はいませんね。」とのこと。おなか一杯鹿せんべいを食べた鹿が、観光客の少ない所へ行って昼寝でもしているのだろうか。せっかく、鹿を見に来られたのに、鹿がいなくては申し訳ないと、その周辺を走り回って、やっと鹿を見つけてご案内したら、大変喜んでくださった。奈良公園に鹿がいるのはあたり前だと思っていた私には、観光シーズンまっただなかに鹿の姿が見えないと言われたのはショックだった。

◆鹿の角
 毎年、十月には鹿の角切りが行われる。奈良公園の鹿は、今年(二○○一)七月現在、一一四四頭、うち、一才未満の子鹿が一七五頭、一才以上の雄が二五一頭、雌が七一八頭だそうで、雄の子鹿は病気にかかりやすく、雄同士のけんかで致命傷を負うことも多いとのことである。
 この数少ない雄鹿のみが持つ角は、不思議なもので、あの図体の大きな牛の角は抜け替わらないのに、鹿は立派な枝わかれした角が、毎年生え変わる。
 奈良公園に若葉が萌え始める頃、短かい毛が密生した表皮に包まれた丸く柔らかそうな袋角が生えてくる。明るい陽射しに、このうぶ毛が銀色に光る。この表皮の下には、血管が網の目のように通っていて、傷がつくと出血するので、鹿は袋角に傷をつけないように用心深く行動する。袋角は急速に伸びはじめ、枝分かれしていくが、夏頃までは先が太く、なんとなく柔らかな感じがする。秋口頃には根元からカルシウム等が沈殿しはじめ血流が止まると、表皮が乾いてはげ落ち、先の尖った硬くたくましい角があらわれる。
 角の枝の本数は、鹿の年齢によって異なるが、成熟した鹿で三又四先(枝が四本)で、壮年期(八才〜十二才頃)が最も大きく立派で、通常鹿の生命は二十年余といわれる。
 角は切らないでほっておいても、早春の頃になると根元から落ちて、次の新しい袋角が生えてくる。秋も深まって交尾期になると、雌鹿を求めて雄鹿のなく声もひときわ冴えて、気が荒くなり、雄同士が激しく角を突き合わせて自分の強さを雌鹿にアピールしようとする。たがいに角を突きあって死傷したり、時には人間にも危害を与えることもあった。この危険を防ぐため、江戸時代、寛永十一年(一六七一)に、その頃の管理者であった興福寺が、当時の奈良町奉行、溝口豊前守とはかって、両者立ち会いのもとで、鹿の角伐りが始められたという。
 当初は町民が家の格子ごしに見られた程、町のなかの所々で行われていたが、昭和三年に御大典記念事業として、春日参道の南側に鹿苑及び付属の角伐り場が設けられて、そこで行われるようになった。鹿の角伐りは、明治・昭和の戦乱期に一時中止されたこともあったが、今年で、ちょうど三百三十年受け継がれてきた伝統行事である。
 行事はまず場内に設けられた春日明神の祭壇に向かって祈願の祭典から始まる。祭典が終わると、場内にとどろく太鼓の音とともに、はちまきにはっぴ姿の
勢子(せこ)達が、角をかざして勢いこんだ数頭の鹿を角伐り場に追い込む。猛然と場内をかけ廻る鹿に、勢子達が「十字」(割竹を組み、縄を巻き付けた捕獲具)や「だんび」(竹を丸め、その間を縄で編んだ直径一メートル程もあるもの)等を使って、荒々しく走り廻る鹿の角に縄をかけてたぐりよせ、あばれる鹿を取り押さえる。横倒しにされた鹿は、素袍(すおう)・烏帽子(えぼし)姿の神官によって、頭に枕を敷かれ、切れ味のよい鋸で角を伐り落とされる。角はウヤウヤしく神前に供えられる。自慢の角を切り取られた鹿は、なんとなく淋しげに走り去っていく。静かな古都には珍しく勇壮でスリルに満ちた行事である。
 今年は、七・八・十三・十四日の四日間角伐りが行われたが、その最中、十月八日の朝日新聞に「シカの角なんか変」という記事が掲載されて、角が山羊のように下向きに曲がった鹿の写真が出ているのにびっくりした。鹿愛護会で、昨年十一月に調査したところ、角が左右対称でなかったり、下向きに曲がったりといった異常を持つ雄鹿が五十〜六十頭もいたということである。
 角が変形した鹿を獣医さんが解剖されると「九割以上の胃から弁当のラップやコンビニエンスストアの袋が出てくる。ごみを食べたり、交通事故に遭ったりして内臓を痛め、角に栄養が行かず、変形するのではないか。」と言っておられるとのこと。「奈良公園以外のほかの地域のシカと交流がないことで、血縁関係が濃くなり、遺伝情報が崩れる場合もあるのではないか。」との説もあるようだが、せめて私達で出来ることとして、公園を訪れる人達一人一人が、弁当ガラや菓子袋、空き缶等のポイ捨てや置き去りをしないように心掛けたいものだ。
 春日大社の岡本彰夫権宮司様が書かれた「大和古物散策」によると「角伐りで切られたあとの鹿の頭に残った根元は『株』と呼ばれ、鹿が頭のかゆみをとるために、ゴシゴシやったりしているうちに、自然とこすれて艶を出し、なめらかなものになる。これが落ちると帯留めやタイタックにすると面白いものが出来る。」とある。聞いただけでも、渋い雅味の有るものになるだろうと想像される。
 三月頃には、うつむいて角の「株」を探している人を公園で見かけることもあるそうだ。また「角細工では、裁縫のヘラ、箸、かんざし、きせるの筒、茶杓、箸置、筆置、根付、差根付、軸先、盃、ペーパーナイフ等々、きりがない。私も一時期、集めてやろうと志を抱いたが、ある時、ある人が『あんなようけ(たくさん)角ある筈おまへんが、あれは牛骨だんがな』といった。突然、私は総身が崩れる思いがした。」とも書いておられる。でも、この頃は、だれもが奈良へ来た記念にと、角細工を買って帰られる時代ではないので、却って本物の角細工だけを作っておられるお店もあるようだ。
 鉦のバチは鹿の角が良いそうで、他の角を使うと音色が変わるとか、奈良漆器の最後の仕上げには、鹿の角の粉で磨きをかける等、鹿の角は思いがけない所でも大切な役割を果たしている。
 鹿の角は薬としても有名である。ことに、袋角は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれて、補精強壮剤として有名で、粉末にして眼科にも用いられたようだが、袋角を採ると鹿は死んでしまうので、奈良の鹿からは鹿茸をとられたことはないだろう。普通の角は黒焼にして、ニンジン・ニッケイを加えて、産後の血の道に良いとされたという。

◆鹿の毛
 鹿の毛は、春になると冬毛から夏毛に生え替り、色艶も増して斑点も鮮やかに、一年中で最も美しい姿になる。四月から五月頃には子鹿が生まれるので、若葉の頃、奈良公園で親子連れの鹿が若草を食む姿は一幅の絵のように美しい。鹿は非常に母性愛が強いので、子鹿の可愛らしさにひかれて、ついさわりたくなって、頭を撫でに行ったりすると、心配した母鹿に前脚でたたかれたりすることがあるので注意を要する。秋になると毛が強(こわ)い感じになって、ことに雄鹿の首の毛は伸び、雄々しい姿となる。
 春日大社の花山院前宮司様の著書に「正倉院から生きた鹿の毛を少しわけてほしいとの依頼があった。正倉院御物の中には八世紀の筆が十七本あり、そのどれかを復元されるのである。筆には鹿の夏の毛がよいとされている。」と書かれていたのが頭に残っていた。
 ついこの間、第五十三回正倉院展を見に行くと、二本の雀頭筆(じゃくとうひつ)が展示されていた。「芯毛を中心に、毛を幾層も帯状の紙で巻き込みながら重ねていき、外毛をかぶせて円錐状にまとめ、竹軸に差し込んだもので、穂先が雀の頭に似ているので雀頭筆と呼ばれる。」とある。
 一本は装飾を施さない実用筆で、毛は狸の毛と書かれている。一本は聖武天皇がお使いになったのではないかと思われるような立派な筆である。「筆管の上部は沈香貼り、下部は斑竹(はんちく)で尾端は白牙頭で飾られている。帽も斑竹で、先端に白牙を飾り、帽口は紫檀製で銀製の薄板で約している。」という、詳細な説明書に、穂は後補とあるだけで、何の毛を用いたかは書かれていなかったが、この穂先の毛の白さから、、これが前宮司様が書いておられた鹿の毛で復元されたものではないかなと思った。
 春日大社から折にふれて送ってきてくださる「神筆 鹿の巻筆」というものがある。この添書の一部に「神鹿の毛で作られた“筆”は、南都春日の神授品として珍重され、戦前には、当時健在だった白鹿の豪毛で謹製した筆を皇室へ献上した記録も残っています。このような由緒により、一般に賞用されるシカの夏毛をもって、古様による巻筆の仕立てにしたのが、この春日筆です。」と記されている。穂は、白毛の中に、赤、緑、黄、紫に染められた毛が彩りに巻き込まれ、赤く塗った竹軸の頭には五色の小さな短冊形の紙が付いた美しい筆であるが、この白毛と正倉院展で見た装飾筆の穂の毛が似ているように思えたからである。

◆鹿の煎餅
 神鹿として保護されているとはいえ、冬になって食べ物が少なくなると、近在の農村へ行って農作物を食い荒らすと言って、江戸時代から明治時代にかけては、しばしばイザコザを起こしたそうである。そこで鹿のための煎餅が作られたり、公園内に椎の木を植えて、冬場の餌になるように工夫されたということだ。ずっと昔のことであるが「修学旅行の生徒さんが『鹿の煎餅』というから奈良の名物だろうと思って買って帰って食べたら、まずくて食べられなかった。」という投書がきたそうだ。もちろん、あれは鹿の餌として売られているので、おやつではありません、というので解決したのだろ
うが、こんな話もある。
 数年前、東京在住の写真家 榎本敏雄氏より「近鉄さんから、奈良の宣伝写真を頼まれたので、モデルになってくれないか。」との話があった。聞けば、日経新聞全面広告の写真だという。「私達夫婦のような泥臭いものがとても。」とお断りしたが、昔、ヒットしたアメリカ映画の「ローマの休日」をもじって「ナラの休日」とするので、若い頃にこの映画を見て感激した年代で奈良に住んでいる人。美男美女のプロのモデルより、平凡でどこにでもいる普通の市民の方が親しみやすくて、宣伝効果が上がるのではないかとの意向らしいので、長年(先祖からだと約百五十年)住まさせて頂いている奈良観光のお役に立てるのだったらと、お受けすることにした。
 撮影場所は「ローマの休日」ではスペイン階段が有名だったところから、五十二段が選ばれた。五十二段の中程に座っていると、榎本先生が「鹿がほしいな。鹿を連れてこい。」と助手さんにお金を渡された、しばらくすると、助手さんは、渡されたお金全部で「鹿せんべい」を買ったらしく、胸にいっぱいかかえて、それをまきながら帰って来た。後からは、七、八頭の鹿がついてきて、私達を取り囲んだ。先生は「そんなに沢山連れてきたら、人間が見えなくなってしまうじゃないか。一度全部追っ払って、餌を見せながら一頭だけ連れてくるように。」と指示された。
 石段に二人座って鹿にせんべいをやっていると、知り合いの人が通って「こんな所で何をしてはりますの?」と不思議そうな顔をされたのには閉口した。やっと無事撮影が終わっても、先刻の助手さんは、鹿の煎餅の残りをしっかり胸にかかえている。先生が「そんなもんどうするんだ。鹿にやってしまえ。」と言われると「ホテルに帰って皆で食べようと思って。」と言われたので大笑いになった。そのつもりで、沢山買ったのだ。大人でもその気になるのだから、子供さんが間違えたのも無理はないなと思った。