第79回(2001年11月号掲載

奈良の鹿(1)

 昭和六十三年(一九八八)四月〜十月、奈良置県百年と奈良市制九十年を記念して、奈良シルクロード博が開催された。仏教東漸の道であり、文化伝承の道であるシルクロードの終点は奈良であるということを、目で見て実感出来る素晴らしい博覧会であった。その時、シリアが大きく取り上げられて、メイン会場である新装なったばかりの新公会堂には、シリア・タルトス沖の海底遺跡から発掘されたオリジナルの古代アンフォラの壺が展示され、映像が深青の海底に眠る遺跡を神秘的に再現した。リアルに造られたパルミラ遺跡の模型は、誇り高き絶世の美女、ゼノビア女王が君臨したという古代王国への夢をかりたてた。すぐにも行きたい思いだったが、中東情勢がキナ臭い感じで、なかなか実現しなかった。ようやくシリア行きが実現したのは、それから四年後の平成四年(一九九二)のことであった。
 あこがれのパルミラ遺跡で古代ロマンに浸っていると、アラビアンナイトの物語から抜け出してきたような紳士が近寄ってきて「日本の方ですね。日本のどこから来ましたか。」とかた言の日本語で話しかけてこられた。「奈良です。」と応えると「オー奈良。鹿、コーエン、大仏さん。」と嬉しそうに握手された。シルクロード博の時に奈良に来られたことがあって、緑の公園で遊ぶ鹿の姿が非常に印象的だったと言うことだ。
 この国では、日本へなんか来たこともないような子供たちでも、日本人を見ると「ヤポン、ヤポン。」(どの人もジャパンではなくヤポンと発音する。)と呼びかけたり「ヤポン、ナラシルクロード、ディア、ビッグブッダ。」と鹿のまねをしたり、両手を大きく伸ばして大仏さんの姿を空に描いたりする。マリ遺跡やダマスカス博物館では、シリア遺跡関する日本語版の本や絵葉書が売られていた。印刷が非常に綺麗なので出版所を見ると、シルクロード博の時、印刷されたものであった。四年もたってもここではシルクロード博が生きていて、奈良の大仏さんと鹿は、しっかり人々の心に根を下ろしているようであった。
 実際には見たことのない異国の人にまで憧れられている奈良の鹿の人気は、国内ではどうなのだろう。
 奈良大学の高橋先生が「奈良県あるいは奈良と聞いて、あなたが思い起こすものは何ですか。主なものを三つあげて下さい。」ということで、千人余りの人たちにアンケートを取られたところ、一番多かったのが鹿で76%、次に大仏様で65%、あとは回答率が20%以下だったということだ。「この結果から、鹿と大仏が奈良のイメージの双璧となっていることがわかります。」と述べておられる。
 京都で一泊して、奈良・京都を観光した修学旅行の生徒さんが「京都へ行ったら鹿がたくさん芝生を歩いていて面白かった。」と答えたという話は、奈良の観光を見直そうといった会議の折、よく引き合いに出されるエピソードだ。これは「奈良をもっとよく知って貰う工夫をしなければならない。」という反省点と同時に、楽観的な見方をすると、豊かな緑と文化財を背景に悠然と歩く鹿の姿が、純真な子供さんの心に興味深く映っただけでも、将来奈良に関心を持っていただければ、鹿のお手柄だろう。
 ところが、こんな話もある。数年前、国際ソロプチミスト奈良と姉妹提携をしているフランスのSIベルサイユの会長様がSI奈良に来訪された。私たちは大歓迎で有名な社寺や奈良公園を案内した。さすが芸術の国フランスから来られた方だけに、仏像の神秘的な美しさに感動し、お茶席の雰囲気も喜ばれて、和菓子やお抹茶も喜んで召し上がったが、鹿がのんびり公園を歩いているのを見て、不思議そうな顔をされた。
 「あんなに鹿が歩いているのに、どうして撃たないのだ。」ということだ。「とんでもない。奈良の鹿は春日様の神鹿で、皆に大切にされているのです。」と答えるが、どうも納得のいかない顔をしておられる。SIベルサイユの会員で、フランス在住の大石画伯の奥様が一生懸命説明したり、通訳したりして下さるが「鹿は食べ物だ。」と信じているベルサイユ生まれの会長様には、十分理解して頂けなかったようだ。無理もない。ベルサイユ宮殿は、ルイ十四世の時、大々的に作りかえられて、付属する都市まで備えた豪華絢爛たる宮城だが、もとはといえば、ルイ十三世時代に狩猟用の館として建てられた位だから、昔は狩がよく行われた所だったのだろう。従って、そこに住む人たちは、今も鹿の肉が大好物なのかも知れない。
 ベルサイユの会長様には、言葉足らずでうまくお伝えすることが出来なかったが、奈良で鹿が大切にされる理由に、次のような伝説がある。
 昔々、常陸の国(ひたち・今の茨城県)鹿島で、東国の鎮護に当たっておられた武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、神護景雲元年(七六五)六月二十一日、中臣時風、中臣秀行をお供に、大きな白い鹿に乗って、柿の枝を鞭にして手に、鹿島を旅立たれた。今でも旅に出ることを「鹿島立ち」と言うのは、この故事によるものと伝えられる。 武甕槌命は常陸から大和まで天翔って来られたのではなく、野山を越え、河を渡って旅してこられたようだ。今の三重県名張市では、夏美川で禊をされて、しばらく滞在されたという。その地に建てられた積田神社の社殿奥の森の中にある柿の大木は、命が鹿の鞭にしておられた柿の枝を、地に刺したのが根付いたものと伝えられる。
 春日大明神(武甕槌命)が、奈良までの道中にお泊まりになったとか、休憩されたとか、他にも色々な逸話を残しておられる。例えば、神饌の焼栗をお供の時風、秀行に与えて「これを地に蒔いて、若し芽が出たらお前たちの子孫は末長く栄えて、神々に奉仕できるであろう。」とおっしゃったので、二人が焼栗を植えると見事に芽が生えたので、中臣殖栗連(なかとみえぐりのむらじ)という称号を賜った話なども有名だ。
 また、奈良市大柳生町にある夜支布(やぎう)山口神社の参道入口の右側には「春日鹿蹄の古伝石」があり、今も神様同様崇敬されている。これは、春日明神がしばらく鎮座され、やがて春日野に向かって出発される時、神が乗られた鹿のひずめの跡がくっきり残されたと伝えられる天然石だ。
 鹿に乗って、人間の旅のように泊まりを重ね、春日野に到着された。そこは春日山系の原始林につらなり、飛火野の草地には樫や馬酔木が散在して影を落とす鹿の楽園であった。
 鹿の常食の草はたっぷりあり、秋には好物の木の実がが豊かで、冬は草原で日なたぼっこ、夏は木陰で憩い、外敵が来れば原始林の奥深く逃げ込むことが出来る好条件の地なので、春日明神が来られる以前から、沢山の野生鹿が棲んでいたと思われる。
 神様の乗物としての大役を果たした白鹿は、これ等の鹿と共に幸せに暮らし、子孫を増やしていったのであろうというのが神鹿の由縁だ。
 平安中期の公家の藤原行成は、当代を代表する能書家として、小野道風、藤原佐理(すけまさ)と共に三跡(さんせき)と讚えられる有名人であった。この人の日記である「権記」の寛弘三年(一○○六)一月十六日の条に「暁に沐浴して春日大社に参拝、本殿に幣帛(へいはく)を奉り、下りて来たところで鹿に遭う。これ吉祥なり。」と書いておられる。行成は、氏神春日大明神が氏子である行成の参拝を喜び、観応された証に、神のお使いとして鹿を遣わされたのだろうから、何か良いことが起こりそうだと随喜している。
 治承元年二月二十五日、右大臣 藤原兼実(かねざね)は、五才になる姫君の初宮詣でに春日大社に参詣の折、参道で鹿に出会った時、わざわざ牛車から降りて鹿に頭を下げて拝まれたそうだ。この当時は、春日詣での際、最初に逢った鹿には、必ず車から降りて参礼するのが習わしになっていた程、神鹿思想が発展していたようだ。
 鎌倉時代前期の高僧 明恵(みょうえ)上人は、京都栂尾に高山寺を建立した時、かねてより感徳していた春日大明神を鎮守として祀り、春日宮曼荼羅や鹿曼荼羅を作って、自らも拝み、一般の多くの人たちにも礼拝するように奨めたと伝えられる。鹿曼荼羅というのは、堂々とした雄の白鹿の背に置かれた唐鞍のの上に、藤をまとった榊が立っていて、その榊の中央部に神鏡がかかっていることによって、春日明神を表しているものである。鹿曼陀羅からは、春日大明神が時風と秀行を従えて、鹿島から春日野に影向されたという伝説を絵画化した鹿島立神影図なども出現した。こうなると鹿は全く神の眷族であり、神の依代としてあがめられたのであろう。
 元寇の役で有名な北条時宗も、神鹿の保護に努めたようで、建治年間(一二七五〜七七)の禁制の中で「神鹿を殺害したものは死刑に処す。」と述べている。
 郷土史研究家の故山田熊夫先生は「徳川幕府は『神鹿殺害 山本伐用』の禁制を出し、神鹿の保護に努める一方、鹿守を置き、野犬、畜犬の徘徊を取り締まり、奈良町の入り口には木戸を設けて、町外への進出を防いでいる。」と、その著書に記しておられる。
 三作という子供が、あやまって鹿を殺した罪で石子詰になったという伝説も江戸時代の話だ。この時代、奈良の人は早起きだったと言われる。自分の家の前で、鹿が傷ついて倒れていたり、死んでいたりすると、厳罰に処せられるので、早く起きて家の前に何か無いかを調べて、鹿の死体でもあった場合は、そっと他へ移すためだという。
 明治になって、こうした禁制や罰則が無くなってから、人々は却って、鹿に倍旧の親愛の念を抱くようになった。鹿は人懐っこく可愛らしいだけでなく、奈良公園を美しく保つため大きな役割を果たしてくれている働き者だ。もし鹿がいなかったら、芝は伸び、雑草は繁り放題に繁って、その掃除には膨大な人手を要することだろう。鹿は草を食べてくれる上、適度に踏むことによって刺激を与えて芝を繁殖させる。鹿の糞はフンコロガシのような小さい虫がいて、これを処理し、芝生や樹木の肥料となって循環している、まさにエコロジーの実践者だ。
 三十年程前のことである。夜遅く息子が青い顔をして帰ってきた。「国立博物館の前の道を車で走っていたら、不意に鹿が飛び出してきて自動車に当たった。びっくりして鹿を助けに降りようと思ったら、野犬が五、六匹、鹿を追いかけるように飛び出してきて、噛み合いのような喧嘩を始めた。危ないと思ってライトを消して野犬の群が向こうに行くのを待って鹿を見に行ったら、鹿はたいした怪我ではなく逃げたのか、それとも野良犬に引きずって行かれたのか、いなかった。春日さんの神鹿なのに、車にさえ当たらなければ逃げられただろうのに、もし野良犬に噛み殺されでもしていたら可哀想だ。」と、しょげきっていた。今どき、石子詰になるなんて思っていないのだが、代々奈良に住む人間にとって、鹿は身内のような身近な存在なのだ。夜中、野犬に追われるようなことがなければ「奈良の鹿は信号を見て赤だと止まり、青になるのを待って道を渡る。」と、観光客の方に珍しがられる程、おとなしい動物なのだが、よほど運が悪かったのだろう。「明日、鹿の愛護会にあやまりに行っておいて上げるから、もう寝なさい。」と言って、翌日、「寸志」を包んで鹿愛護会へ行った。
 「昨日、息子が夜、車で走っていると鹿が飛び出してきて……」と言いかけると、むこうの方は「動物のことですから飛び出すこともあるでしょうけれど、車の修理は出来ませんから。」とおっしゃる。「いいえ、車の修理を頼みに来たのではありません。僅かですが、鹿が怪我をして倒れていたら、これを治療代に、もし、死んでいたら埋葬料にして頂きたいと思って、おわびに参りました。」と言うと「この頃、鹿に怪我をさせたからとあやまりに来る人は少なく、車が壊れたから修理をしてくれと言ってくるので、失礼しました。やはり、奈良に古くから住んでおられる方だからですね。」と言われて、春日さんの鹿を傷つけておいて文句を言ってくる人もあるのかと、こちらがびっくりした。