第78回(2001年10月号掲載
やすらぎの道の社寺
ヒフ万葉集の恋歌と奈良町の放送局
雄略天皇の歌碑
海石榴市
 「ならどっとFM放送」の「奈良大学おもしろミニ講座」では、「万葉集は言葉の文化財」と題する上野誠先生のお話もあった。上野先生によると『現代の「ナンパ」の名所は、東京・渋谷のスペイン坂、大阪・難波の引っ掛け橋が有名ですが、千三百年前の万葉の時代には、海の幸、山の幸、里の幸が集まる市(いち)には、アワよくば良い相手を見つけようと集まる美男美女も多かったようです。なかでも有名だったのは、海石榴市(つばいち・現在の桜井市金屋)と軽の市(現在の橿原市石川町丈六)でした。当時の「ナンパの作法」は男性が女性に家と名前を聞くことだったので、気に入った相手を見つけると歌で呼びかけて、相手の反応を探ったものです。しかし女性は簡単には応じてくれない。名前を教えるということは、古代においては、結婚の意志ありというメッセージになるので、女性にとっては大変な決断を要したのです。だから、古代の女性は簡単に名前を他人に教えることはなかったので、平安朝になっても「藤原道綱の母」、「菅原孝標の女(むすめ)」としか女性作家の名が伝わらないのはそのためなのです。』とのべておられる。
 海石榴市と聞くと、私はふと、平成九年十一月一日、マスオ商事KKの桜井支店オープンの時のことを思い出した。サービスステーションのオープン行事を無事に済ませて、モービルの支店長さんなどと一緒に昼食をとりに行ったのが、三輪山のふもとの「枡谷」という、なんとなく風情のある料理屋さんだった。奥座敷に通る廊下の東側が大きなガラス張りになっていて、雅味のある鄙びた風景が見える。景色を見晴らせるように椅子とテーブルが置かれている。奥で食事を済ませて、帰りにこの廊下を通りかかると、テーブルの上に、今、食べ終えたばかりのようなお膳が、いくつか並んでいた。
 別にとりたててこれということはないのに、妙に心ひかれる眺めだなと思っていた私は、送ってきて下さったお女将さんに「ここでも食事をさせて頂けるのですね。」と聞いた。「はい、ここから見える辺りは、昔、海石榴市が開かれていた所だろうというので、よくお客様がおいでになります。今日は皆様方の運転手さんたちに、ここで召し上がって頂きましたが。」と答えられた。「じゃあ、この辺は金屋ですか。」と言うと「そうです。」とのことにびっくりした。うちの社員は、当然私はそんなことは知っていると思って場所を選定して予約しておいてくれたのだろうが、恥ずかしいことに、私は、ここがあこがれの海石榴市の跡であることに気づかなかったのだ。
 その辺を散歩してみたかったが、時間の都合もあって、心を残しながら帰路についた。
 その後、雑用に追われて訪れる機会が無かったが、先生のお話に刺激されて、ついこの間、海石榴市の跡へ車を走らせた。今の金屋の里は、ひっそりとした趣深い土地だが、飛鳥時代は、大和盆地を南北に通る山の辺の道と東西に走る横大路の交点に当たる交通の要地であった。山の辺の道を北に進めば奈良・山城、さらに近江・北陸に通じ、東は初瀬街道を通って初瀬・伊勢へ、南は飛鳥に通じる磐余(いわれ)・山田道。西は横大路で当麻から難波へと通じる。
 また、日本書紀に、推古十六年(六○八)に、難波より大和川、泊瀬川(はつせがわ)を遡上してきた隋の使者、斐世清(はいせいせい)一行を海石榴市巷(ちまた)に迎えたとあるので、この辺りは、水陸交通の要所として繁栄をきわめたであろうことが偲ばれる。
 海石榴市は椿の中国名で、聖徳太子のお父様の用明天皇の頃に椿の木が植えられて、海石榴市と呼ばれ、人々が多く集まって歌垣も催されていたようだ。海石榴市というとすぐ頭に浮かぶのは、
紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十のちまたに 逢える児や誰(たれ)
という歌だろう。
 この地で催された歌垣に於てであろうか、または珍しい物品や、取れたての産物に人が群れ集まる市であったろうか、美しい乙女に一目惚れした若者が心をこめて呼びかけた歌に違いない。
「あの美しい紫の色は、紫草の根に灰汁を指すことによって生まれるのですよ。あなたも私と一緒になって新しい幸せを築こうじゃありませんか。海石榴市の賑わいの中で出会った美しいあなたは、何というお名前ですか。」といった意味の求婚の歌だろう。
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか
 先の歌に対する返歌である。
「あなたは一体どなたですか。お母さんがいつも呼んでいる名前はありますが、今日はじめてこの海石榴市の路上でお会いしたばかりのあなたに、お教えすることはできません。」
 とやんわり気を持たせた断り方だ。どちらも作者未詳で、ごく普通の市井の若者だろうが、そのおおらかな愛情表現、完全に断るでもなく、受け入れるでもなく、巧みな値打ちの持たせ方だと思う。こんな素晴らしい歌で、恋の駆け引きをしなければならない時代に産まれていたら、さしずめ素養のない私などは、一生結婚出来なかっただろうなと思いつつ、車では入れない細い旧道を歩き回る。ここは万葉人も歩いた道だと思うと、足の裏から、往古の人たちの心のぬくもりが伝わってくるような気がする。
 海石榴市観音に行く道に、見事な紅芙蓉の花が咲きこぼれていた。「八十のちまたに 逢える児や誰」と呼びかけられた初々しい佳人に出会ったような気がした。海石榴市観音堂は道から東に入った、三輪山の麓の小高い所にある。お堂は最近改修されたもので新しいが、中を覗くと、奥の方に、長い歳月に彫りも薄れて、まろやかさを増した石刻の観音様が二体お祀りしてある。遠い飛鳥の時代から、道中の無事を願う人、良縁を望む人、商いの繁盛を祈る人、数知れぬ人々がこの観音様に祈り、心の平安を得てきたことだろう。
 上野誠先生は「実は万葉集の開巻第一の歌も、天皇の求婚歌なのである。国土統一の英雄として仰がれていた雄略天皇は高らかに歌う。」として次の歌をあげておられた。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも
(巻一の一)
 第二十一代 雄略天皇は、名を大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)といい、泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に宮居しておられた。だから、この歌は、海石榴市から泊瀬街道を少し東に行った泊瀬の黒崎あたりの丘で、若菜を摘む乙女に声をかけられた歌だろう。
「籠も良いお籠を持ち、へらも良いおへらを持って、この丘で若菜を摘んでいるあなた、家はどこですか、お名前は何というの?」との問いかけに、おそらくは顔を真っ赤にしてうつむいて答えられない乙女に対し、天皇はたたみかけるように歌われています。「(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が君臨している国ですよ。すみずみに至るまで私が治めている国ですよ。私の方から家のことも名も告げましょう。」と、この国の天皇であることをあかされる。春の明るい陽当たりの良い泊瀬の丘で、日の本第一の権力者である天皇が、何にもとらわれずに、野辺の乙女に自分の愛情をドーンとぶちまける、いかにも万葉らしい、おおらかな秀歌だ。
「ならどっとFM」の放送から話が飛鳥に行ってしまったが、奈良町に戻そう。どっとFMはサービスエリアを、電波法で市町村単位と定められている「コミュニティ放送局」だ。平成四年に国が制度化してから、平成七年の阪神・淡路大震災をきっかけに急速に増えて、現在、全国で一四一局が開局しているそうだ。
 奈良市でも「市民による市民のための放送局」として、平成十二年六月に開局し、「ならどっとFM」の愛称で親しまれている、かわいらしい放送局だ。この開局に当たっては、社長の金城真砂子さんはじめ、多くの有志やスタッフの方々の涙ぐましい努力と働きがあり、いまも「ボランティアプロダクション」のスタッフ一同が、がっちりとスクラムを組んで支えている、若さが躍動するような放送局である。
 また、そのスタジオもユニークで素敵だ。現在、スタジオとして使われている、奈良市西新屋町にある太い格子のはまったこの家は、江戸時代に建てられた、松山さんという大きな米問屋の老舗だった。戦前の奈良町は、商人や職人の町として繁盛していたので、住み込みの使用人が十人位いる家が多く、いまと違ってお米を沢山食べる時代だったので、松山さんのお宅の前は、入荷や出荷の荷車で、いつも賑わっていた。
 今のご当主の松山隆さんのお祖父様と私の父が同級生だったので、なにかと世話になっていた。たとえば、私の家は農家ではなかったが田舎に田を持っていたので、毎年、小作米が届けられてきた。玄米なので届くと直ぐ松山さんに全部預かって頂いて、必要に応じて白米にして持って来てもらっていた。一日に三〜四升は炊くほど多人数だったので、預けてある米は数ヶ月で無くなって、あとはわけて頂いていたようだ。それにしても三日にあげずに配達して下さっていたから、随分と面倒なことをお願いしていたと思うのだが、いやな顔一つしないで、長年続けて引き受けて下さっていた。奈良町にはこれに限らず、おたがいの信頼の上に成り立つ、心や物の流通があたたかく通いあっていた。
 戦争になって米は配給制になり、松山家の次の代はお嬢さんばかりだったので、お米の仕事はお向かいの分家に譲られたようだ。いまのご当主は高畑にお住まいになっておられるが、奈良町の振興にも非常に力を入れて下さっているので、松山さんのお家も江戸時代の建築の良さを生かして改装し、奈良らしいユニークなスタジオとして新しい生命を与えられた。
 米蔵を改装してショットバー(演奏会のできるライブハウスにもなる。)としたり、座敷は手造りの照明が照らし出すホンワカとした和風喫茶になる。奈良の方も、観光客の方たちも、ぜひ気軽に覗いて頂きたい、趣のある放送局である。
 松山さんのお家は広いので、半分は「こんどう」さんという、お豆腐料理屋さんに貸しておられる。手作りのお豆腐が美味しいのと、奈良町の町家らしい雰囲気がおすすめだ。
「こんどう」さんの南隣が元興寺の小塔院跡(現在は元興寺の宝蔵庫に展示されている、国宝指定の小塔がお祀りしてあった所。)、どっとFM放送局から北へ少し行くと、昔から近在の人々の信仰を集めていた庚申堂もある。千何百年も前の史跡や江戸時代の町家と、現代人がなんのこだわりもなく当たり前に生活しているのが、奈良町の面白いところだと思う。