第77回(2001年09月号掲載
やすらぎの道の社寺
ヒフ江戸時代の奈良の絵図
 今は自動車の往来の激しい広い道路「やすらぎの道」に面した傳香寺の前に、かつては率川が流れていた。大正十三年に、この川に架けられた石橋の完成記念に、この橋の上に三、四十人の人が並んで撮られている写真を見て、こんな大きな橋が架かる位の川が流れていたのかと、びっくりした。
 西山住職のお話によると、川が暗渠になってしまうまでは子供たちがこの川筋で鮒やメダカを掬って遊んでいる姿を、よく見かけられたそうだ。そう言えば、以前「ならまち通信」にも、築地之内(つじのうち)町の杉山さんという方が「家の前には飛鳥川が流れていて、ドジョウを獲ったものです。ドジョウ汁にしようと鍋に豆腐を入れて火にかけて、ドジョウを生きたまま入れると豆腐に頭を突っ込むのです。可哀相で食べられなかった。いまだに駄目です、ドジョウは。」と語っておられる記事が掲載されていた。飛鳥川というのは築地之内町から元興寺町に入って、家の倉庫の横を通って鳴川町へ流れていた川だが、こんなに近くにいながら、この川で食卓に上がる程のドジョウが子供でも掬えたとは知らなかった。
 奈良町は道の狭いところが多いので、車が通りやすいように道路を拡げるには、先ず川を暗渠にするのが一番手っ取り早い方法だったのだろう。それに、下水が川に流れ込んだりすると、夏なんか臭くなったりして不衛生だったのかも知れないが、今だったら綺麗な水を循環させるのも、そうむつかしいことではないだろうから、飛騨の高山や山陰の津和野のように鯉でも泳がせたら、奈良町に風情が加わっただろうのになと思うと、今は地下にもぐってしまった川の存在や昔の町並みが妙に気になりだした。ちょうどそんな折、「ならどっとFM」の番組審議委員会の視聴番組に「奈良大学おもしろミニ講座」のなかの鎌田道隆教授の「江戸時代の奈良絵図」と題する講話が選ばれて、審議員一同非常に興味深く聞かせていただいた。
 奈良の歴史は古いが、観光客がよく訪れるようになったのは、太平の世となった江戸時代になってからのようだ。「江戸時代にはいくつかの奈良の観光絵図が印刷・発行されていますが、今日は江戸時代後期の『和州奈良之絵図』を紹介します。」で、お話は始まる。先生は、奈良大学の授業の中で、この絵図を学生達によく見せて、気がついたことを述べるように言われたそうだ。
 まず第一に皆が気付いたのは、この絵図は北が上でなく、東を上にして描かれていることだった。先生は「和州奈良之絵図には奈良の人々の地域観が正確に表現されています。この絵図にも描かれているように、三条通には上三条町・中三条町・下三条町がありますが、絵図にも、東から西に上・中・下と三つの町が並んで示されています。奈良の人々は東の方を「カミ」、西の方を「シモ」と考えていたわけです。東の方が高く、西の方が低いという奈良の地形に関係しているのかも知れません。」と述べられておられる。
 ほんとうに私達も「もう一筋下の通りですわ。」とか「御霊神社の前をまっすぐ上がると、左手に十輪院があります。」とか、日常何とも思わないで使っているが、奈良に馴染の無い方が聞かれたら、どんな坂があるのだろうかと奇妙に感じられることだろう。地形的に東が高いからというのが最も妥当な考え方だと思うが、京都の人達は御所を中心に上ル、下ルと言われるように、奈良の守護神として崇敬される春日大社のご神体である御蓋山や春日山が、奈良を見守るように東に連なっているからかも知れない。
 それにしても、私達は地図は特別な但し書きが無いかぎり、上が北だと信じていたのに、昔は東を上に描いたのだろうかと思って、以前、威徳井さんという方から頂いた奈良を中心とした道路絵図を出してみた。威徳井さんは江戸時代から転害門の南東の角で「いとく井や孫三郎」という旅籠屋(はたごや)を経営しておられたお家だ。
 三月号に「いとくゐ餅」さんのことを書いた時「井戸の側で大威徳明王を感得されたお坊さんが『いとくゐ餅』と命名してくださった。この家は名字も『威徳井』と云う。」と書いたら「いとくゐ餅さんは屋号で、苗字は永本さん。私の家が威徳井です。」とお電話を頂いた。お詫びに伺ったら逆に歓待してくださって、この古地図や木版刷りの千社札など、貴重なものを頂戴した。千社札には、京大阪 はせ(長谷)かうや山(高野山)追分辻と書かれている。
 転害門南東角のこの場所は、東大寺詣でに最も便利なだけでなく、京や大阪見物、長谷詣でや高野詣での追分の辻という、宿屋にとって最高の立地条件の地にあることをアピールしている。
 いとく井屋さんがサービスに渡していたという地図を見ると、驚いたことに南が上になっている。京・大阪から奈良に来る道、奈良から伊勢や吉野へ行く道の宿場が細かく、例えば、奈良から市の本(櫟本)へは二里、市の本から丹波市(今の天理市)まで一里というように克明に記されている。歩いて旅をする人達はこれを目安に、どこを見物するか、どのへんで泊まろうかを決めたりするのに重宝されたことだろう。紙面の許すかぎり、京都から土山 関等の東海道の宿場まで記載されている。そして図面の左上をしっかりと占めているのが伊勢神宮である。内宮・外宮はもちろん、五十鈴川や二見ヶ浦まで、しっかり記されている。なんだか絵図全体が双六で、伊勢神宮が上りのようにさえ見えてくる。
 江戸時代の人達は上を北にしなければならないとか、東だとかいったことはこだわらず、人々が目的とするであろう所に重点をおき、要所には、その特徴をとらえた絵を配して、しかも全体が一幅の絵となるよう配慮していたようだ。そこで日本では、明治政府が学校教育に地図という呼称を用いるようになるまでは、一般には「絵図」と呼ばれていた。
 こうしたことから絵図に興味を持った私は「マイ奈良」の清水さんに無理を言って、鎌田先生が教材に使われたのと同じ、和州奈良之絵図を持って来て貰った。
 これは旅の目安に持ち歩くという言うより、奈良の観光案内図として、主に旧奈良市内を描かれたものだけに、さらに絵的要素が多く、見ていて楽しい。
 面白いのは、平面図と鳥瞰図を巧みに組み合わせて、見どころを浮かび上がらせている手法だ。
 中心部に描かれている奈良町は平面図で町名が詳細に書き込まれている。字のくずし方がむつかしいのと、仮名使いが昔風(例えば浄言寺町が志やうごんぢ丁)になっているので読みづらいが、一つずつ読んでいくと、今の町名とほとんど変わっていない。この絵図を見て一番先に目に付くのは、上部の位置を大きく占める春日大社と東大寺である。鳥が飛びながら行手の景色を眺めているように描かれた東大寺境内には、南大門や大仏殿をはじめ山中の寺院が描かれ、大仏殿の横には「聖武天皇御勅願之所」として大仏様のお身丈や堂の大きさが記されている。二月堂の横には良弁杉や若狭の井戸があり、手向山八幡を通り抜けた三笠山(若草山)では鹿が遊んでいる。
 春日大社の前には無数の石燈籠や鹿の姿が見える。春日大社の立派な拝殿奥には、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)の四柱の神をそれぞれお祀りした四つの神殿があるのだが、大前で柏手を打って拝んでも気がつかないで通り過ぎることがあるが、この絵図は斜め上から見ているので、拝殿の奥にちゃんと四つの棟が見えている。おん祭の時、若宮様がお出ましになる「御旅所」まで書かれていて、ゆきげ沢や飛火野の辺りには鹿が沢山立ったりうずくまったりしている。
 平面的に描かれた奈良町の内でも、興福寺、元興寺、新薬師寺等は鳥瞰技法で、観光客が見落とさないよう配慮されている。興福寺四丁四方という但書のある広大な敷地の(図面で見ると)三分の一位はありそうなのは御奉行所である。
 奈良町は天領であったから、奈良奉行所が行政や治安を預かっていたのだろう。この奈良奉行所跡には明治四十二年、奈良女子高等師範学校が設立され、今は奈良女子大学になっている。
 猿沢池の近くに、柳生蔵屋敷となっている所は明治三十一年に市制が施行された時、奈良市役所となった場所。昭和五十二年までここにあった市役所は新大宮に移って、今は「ならまちセンター」になっている。
 この絵図でさらに工夫がこらされているのは周辺部である。距離は遠くて普通の図法では描けないが、時間があれば是非立ち寄って頂きたい有名な所は、雲を描くことによって距離感を出して、西北には興福院、不退寺、法華寺、西大寺、神功皇后陵や秋篠寺までも描き、西南には唐招提寺、薬師寺、遠く郡山城から法隆寺まで一枚の紙に書き入れてあるのはたいしたものだ。その上、周囲の空いた所には、よく知られた奈良の祭礼や年中行事、奈良八景、南都七大寺、主だった町までの道のり等が書き込まれている。まったく江戸時代の人達の自由な発想や知恵を働かせた工夫には敬服する。
 歩いて旅をした時代、絵図はかさばらないお土産として重宝されたのではないだろうか。お土産に貰った人達は、土産話と絵図を引きくらべながら「よーし、私も一生懸命働いて、奈良見物に行こう。」と夢をふくらませ、意欲をもやしたのではないだろうか。
 この絵図の発行元は、奈良大仏前 絵圖屋庄八板 と記されている。この絵図屋さんのご子孫の方は筒井さんといって、今も大仏殿の側にお住まいになっていて、絵図や案内記等の版木を大切に保管されているということだ。