第76回(2001年08月号掲載
やすらぎの道の社寺
―傳香寺―
久留島武彦先生
久留島武彦先生寓居跡の碑
   傳香寺の境内を歩いていると「童話家 久留島武彦先生寓居の跡」と彫られた立派な碑がたっているのを見てびっくりした。久留島武彦先生といえば、巖谷小波(いわやさざなみ)先生とともに、明治から昭和にかけての日本童話界の重鎮である。日本のアンデルセンとも呼ばれた久留島先生が、奈良町に住んでおられたことがあったとは知らなかった。私が子どもであった昭和の初め頃は、テレビもなかったし、玩具の種類も少なく、旅行に連れて行って貰うことも、めったになかったので、童話を読むのが最高の楽しみだった。身体が弱く、あまり走り廻れなかった私も、童話を読んでいると、いつの間にか、自分がそのお話の主人公の兎や犬になって野原を走り廻っていたり、田舎娘になって森で花や木苺を摘んだり、時にはお姫様や侍女になったりして、想像がドンドン拡がり、夢は世界を駆け巡った。
 お話のなかではピーターパンのように空を飛んだり、星や月の世界に行くことも可能であった。日本の童話には故郷に帰ったような安らぎと親近感があった。奈良生まれ奈良育ちの私に故郷はないのだが、お話に出てくる山河や湖には、いつか行ったことがあるような、なつかしみを覚えたものだ。しかし、そうしたお話を作ったり、語り聞かせてくださる久留島武彦先生は、雲の上の人のような遠い存在だと思っていたのに、こんな近くに住んでおられたことがあるとは驚きだった。
 久留島先生は明治七年、大分県玖珠(くす)郡玖珠町で、森藩最後のお殿様、久留島通靖氏の孫として旧藩邸で生まれられた。久留島家は慶長六年(一六○一)に、伊予の来島(くるしま)から、日田・玖珠・速見郡内一万四千石のお殿様として入封され、十二代目の通靖氏の代に明治維新を迎えて子爵となられた。お父様の通寛氏は病弱であったので、久留島家十三代は叔父さんが継がれた。
 武彦先生は大分中学の米人英語教師ウェンライト氏に心酔して、ウェンライト師が関西学院に転任されると、自分も同学院に転校された。明治二十四年、洗礼を受けられたので、久留島子爵家からは「異教」に入信したというので除籍処分を受け学資も断たれて苦労されたが、この時、日曜学校の指導や、街頭伝導をされたのが、口演童話家として大成される話術の基礎を修得される要因となった。
 明治二十七年、日清戦争に従軍し、戦地から投稿した作品が巖谷小波先生に認められたのが文壇入りのきっかけとなった。大正十三年に小波先生や武彦先生を顧問にして日本童話連盟が創立されると、同十五年には早くも奈良公会堂において、奈良県童話連盟が創立されて、久留島先生が「文覚上人と鯨ともじらの話」を口演されたそうである。先生と奈良とのご縁は深く、稗田の阿礼や小子部(ちいさこべ)のすがるを顕彰して祭を始めたりで、度々来県されている。
 昭和二十年五月、十津川村で口演をしておられる最中に、東京の自宅及び早蕨幼稚園(明治四十三年に先生が創設され経営されておられた幼稚園)が空襲で焼失したとの電報を受け取り「それなら東京に帰っても仕方がないなあ。」と言われて、それからしばらく奈良に住まれることになった。
 最初は、茶道の祖 珠光様ゆかりの称名寺の書院に寄寓しておられたそうだが、昭和二十三年の暮れ頃、東大寺の清水公照師と仏師の太田古朴氏が傳香寺に来られて、境内に久留島先生の家を建てさせてほしいと申し入れられ、早速工事にかかって、二十四年春には、完成した「香積庵」に移り住まれた。
 メルヘンの語り部、久留島先生は六年間、傳香寺の香積庵を足場として、奈良県下の小中学校は勿論、全国各地を遊説して、童話の普及につとめられた。
 先生はまた、幼児教育の大切さを力説され、傳香寺に幼稚園を開設することを熱心にすすめられた。現在も境内に明るい園児達の声が響く「いさがわ幼稚園」を昭和二十八年四月十日開園にこぎつけられたのも、先生のご尽力が大きかったという。
 「マイ奈良」編集長の清水さんのお母さんは久留島先生と親しかったので、昭和二十四年七月に彼が生まれた時、先生に名付け親になってほしいと頼まれたそうだ。先生はこころよく「信彦」と名付けてくださったが、市役所に届けに行くと、当時は進駐軍から「彦は神様につける名前だから一般につけるのは遠慮するように」とのお達しがあるので受け付けられないと言われて、急きょ「信夫」として届けられたとのことである。ところが、傳香寺の現住職が生まれられたのは、その二年後の二十六年八月十六日。この時は武彦と名付けられたら「つい最近までは彦のつく名前は受け付けられなかったのだが。」と言いながらスンナリ受け付けてくださったそうだ。日本にもそんな時代があったのだなあと、しみじみ思わせる話である。住職は僧籍に入って、今は西山明彦さんとおっしゃる。私は「あきひこ」さんと読むのかと思って「お坊さんにしては珍しい名前ですね。」というと「あきひこじゃなくて明彦(みょうげん)と読みます。」とおっしゃる。そう言えば、鑑真和上が日本に来られる時、嵐にあって難破したり、漂流したりして五回も失敗しておられるが、その間に、和上の最も身近でお世話していた愛弟子の祥彦(しょうげん)さんが病気で亡くなっておられる。祥彦さんにあやかったようなお名前の明彦さんが、本山の唐招提寺でご奉仕される姿を鑑真和上は天上から目を細めてご覧になっていることだろう。
 話はまた、昭和の初めに戻るが、昭和五年八月十六日、大和郡山市稗田町の売太(めた)神社において、奈良県童話連盟が発起し、当時、日本の童話三大家といわれた巖谷小波・久留島武彦・岸部福雄の三氏の臨席のもと、全国の童話愛好家約三百人が集まって、第一回阿礼(あれ)祭りが挙行された。
 稗田は古い面影を残す環濠集落(周囲に濠をめぐらせて自衛した集落)で、売太神社はその中心的存在である。この地には太古から天宇受売命(あめのうずめのみこと)を太祖とする猿女君(さるめぎみ 稗田氏)が居住していた。飛鳥時代、稗田氏に阿礼(あれ)様がお生まれになった。成人して四十代天武天皇に舎人(とねり)としてお仕えしていた。阿礼様は聡明で卓抜した記憶力の持ち主であったので、天皇は語り部として彼をお選びになり、歴代天皇のご事蹟・皇位継承・神代以来の主な各氏族の歴史等など語り伝えられた。
 その後、四十三代元明天皇が、太安麻呂(おおのやすまろ)様に「稗田の阿礼に聞き習った事柄を記録せよ。」とお命じになって、和銅五年(七一二)正月二十八日に完成したのが「古事記」である。稗田の阿礼は、まさに「かたりべの元祖」と呼ぶにふさわしい方である。
 第一回の阿礼祭を記念して、童話界の巨匠達が発起人となり、全国の童話家達が阿礼命のご遺徳を顕彰するために、巖谷小波先生揮毫の「阿礼祭記念碑」が建てられた。阿礼祭は、その後毎年行われている。
 私が小学校に入学した昭和七年頃は、阿礼祭に刺激されて童話熱が盛り上がり、奈良県童話連盟が活発に活動しておられる時であった。
 古梅園のの大番頭さんで習字の先生もされていた石谷近蔵先生を会長に「いちよう教園」を主宰しておられた聖光寺の乾泰正先生、奈良県立図書館の中川明館長、椿井小学校の山田熊夫先生、済美小学校の藤原正武先生、後に会長となられた乾健治先生などが、私が今でも覚えている、当時活躍しておられた先生方である。
 久留島先生が、若い頃関西学院の日曜学校の主任をしていた経験を生かして、お伽話を中心の子供会を開いておられたのにならって、月に一、二回は各学校順番に童話の会が開かれた。どういう訳か、私は聞く方よりは、話す側にまわされて、先生方のお話の前座をつとめていた。
 ある時、図書館主催の夏期講座に行って、後ろの方にチョコンと座っていたら、中川館長さんが講話の中で「次の日曜日には○○小学校の講堂でお話の会を開きます。あそこに座っている小さな女の子、増尾さんと言いますが、あの子も話をしますから皆さん聞きに行ってやってください。」と言われて、びっくりして真っ赤になったこともあった。
 昭和十年には小子部のすがるを祀る小子部神社で第一回すがる祭が開催された。
 日本書紀によると、雄略天皇は養蚕を盛んにしようと思われて、すがるに「蚕
(こ)を集めてこい。」と命じられた。すがるは蚕を子と間違えて、みなし子を沢山集めてきた。天皇は日本で最初の孤児施設を作って、すがるをその養育にあたらせ「小子部連(ちいさこべむらじ)」の姓を賜った。日本霊異記によると、すがるは天であばれ廻って落ちてきた雷を捕まえて、その地を雷の岡(いかずちのおか)と呼んだ。さらに、彼の死後、彼の墓標に落ちた雷が、標柱にはさまって捕えられ「生きても死にても 雷を捕らえし すがるの墓」と墓標にしるされたという。
 すがる祭を記念して、奈良県童話連盟では上記のすがるの話を児童劇にして、ラジオの子供の時間に放送することになった。今とは違ってテレビはなく、ラジオもJOBK第一放送と第二放送しかない時代だから、私達子供にとっては大事件だった。劇の練習をしていると、アナウンサーの方が発音の指導に来られた。ふだん、なにげなく話している言葉のアクセントが、こんなに違うものかと驚いた。耳で聞いて納得していても、いざ話してみると関西なまりの発音である。むつかしいものだなと思った。それがこの頃になると、地方の言葉がだんだん無くなって行くというので、NHKの方が何度か奈良弁を教えてくださいと言って来られた。自分では、あの時以来、出来るだけ標準語で話すつもりをしていたが、やっぱり私は奈良弁かと苦笑いした。
 幼い頃からメルヘンの世界にあこがれていた私は、平成元年(一九八九)アンデルセンが生まれた、デンマークのオーデンセや、グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」の舞台となったドイツのブレーメンなどを訪れた。
 オーデンセには十年位前まではアンデルセンの生家だけが保存されていただけだったようだが、今は近所の家を買い取ってアンデルセン博物館になっている。博物館には大小さまざまな肖像画や家具、旅行鞄や靴など、一生の大部分を旅行に過ごした彼らしい遺品が展示されている。切り絵や押花、スケッチが彼の手紙やさし絵の原画と共に並べられ、世界各国の言葉に翻訳出版されたおびただしい数の本のコレクションが揃っていた。
 さすがヨーロッパ、古いものがよく保存されているなと、その時は感心したが、実は久留島先生が、大正十三年(一九二四)にデンマーク国王主催 第二回ジャンボリー(野営祭典)派遣団の副団長として参加された時、オーデンセのアンデルセン生家が荒廃しているのを悲しんで、生家の復興をオーデンセ市民に訴えデンマーク各地でアンデルセンの功績をたたえる講演をして、国内世論を喚起させて、アンデルセン記念館設立のきっかけを作られたそうだ。私がまだ生まれる前に、海外でそれだけの事蹟をあげておられるのには、舌を巻くしかない。
 久留島武彦先生は昭和三十五年六月二十七日、八十六才で亡くなられた。その年、先生の業績を記念して、久留島武彦文化賞が制定されて、青少年文化の向上と普及に貢献した人、及び団体を顕彰して、毎年贈呈されるされることになった。昭和三十八年の第三回久留島武彦文化賞は、奈良県童話連盟が受賞している。
 昭和六十年(一九八五年)奈良県童話連盟設立六十周年を記念して、傳香寺の住居跡に「童話家 久留島武彦寓居の跡」の碑が建立され、童話連盟の全国大会が同寺に於て行われた。