第75回(2001年07月号掲載
やすらぎの道の社寺
―傳香寺―
▲地蔵菩薩像 胎内納入物
傳香寺 裸地蔵菩薩像
  「傳香寺さんって知ってる?」と聞けば、たいていの方は、「裸地蔵様をお祀りしているお寺でしょう。」と答えられる程、傳香寺の裸地蔵は有名だ。しかし、この寺の本尊は裸形地蔵尊ではない。
 天正十三年(一五八五)八月十一日、順慶法印の一周忌に建立された優美な桃山建築の本堂に納まっておられるご本尊は、飛天を透かし彫りにした美しい光背を背に、どっしりと座られている釈迦如来である。本堂の建築にあわせて造立されたものらしく、「なら下御門 宗貞大仏師作」との墨書がある。豊臣家と徳川家との間で物議をかもした京都方広寺の大仏と同じ作者だというから、順慶法印の菩提を祈って、仏師も当代一流の方を選ばれたのだろう。堂内には筒井家歴代の位牌がまつられている。戦国乱世を、苦難と栄光と別離の悲しみに耐えて生き抜かれた方達の霊も、今はお釈迦様の大慈悲に抱かれて、静かに眠っておられることだろう。
 本堂に向って左側には、順慶の甥の定次が供えたという「片袖地蔵尊」が安置されている。奈良の都の羅生門の片袖(片側)を支えていた石に彫られた地蔵尊だという。本堂と地蔵堂の間位の、手前には、にこやかなお顔の大きなお地蔵さんが立っておられる。昔、このお地蔵様は今県立奈良美術館や合同庁舎の建っている場所の北の方に安置されていたそうだ。たいへん霊験あらたかで、感応がある度にこの大きなお地蔵様が動(ゆる)がれたので、油留木(ゆるぎ)地蔵と呼ばれるようになり、町の名前も油留木町となったという。その後、眉間寺前に移され、明治の初め眉間寺が廃寺になってから、傳香寺へ来られたのだという。私がお参りした時は、上を向けた左の掌に宝珠のように蜜柑(誰かが供えられたのだろう)をのせて、春光を浴びて満足気にうなずいておられるように見えた。(永正十二年(一五一五)の刻銘がある。)
 有名な「裸形地蔵菩薩立像」は地蔵堂におまつりされている。非常によく整った、慈悲に満ち溢れるようなお顔もお姿も美しい。はだか地蔵さんというが、木彫彩色の像は白衣の上に衣や袈裟をきちんと着けていらっしゃる。やんごとない若きご門跡をモデルに彫られたのではないかと思われる程、気高く、威厳のあるお地蔵様だ。
 この地蔵菩薩は、興福寺、延寿院のご本尊であったが、明治初年の排仏毀釈の時、興福寺にゆかりのある傳香寺にゆずられたものだという。胎内に納入された願文によって、安貞二年(一二二八)比丘尼妙法・唯心等によって発願された、春日明神の本地仏であることが判明した。
 お地蔵様の胎内には、宋時代の鮮やかな碧瑠璃色のガラス製舎利器に仏舎利三粒と小さな薬師如来坐像を納め、レース綿の袋に入れられたものが納められていた。胎内仏として、小さいなら見事な、白檀一木作りの十一面観音菩薩立像も納められていて、願主の真摯な念がしのばれる。いずれも重要文化財で、胎内納入品も展示されている。平素は秘仏になっているはだか地蔵様だが、毎年七月二十三日には、お衣替えが行われ、新調のお衣やお袈裟にお召し替えになって威儀を正されたお地蔵様が、いさ川幼稚園の園児の演技や盆踊りをご覧になる。二十三日・二十四日は地蔵会で、地蔵堂のお扉が開かれているから、気軽にお参りすることが出来る。地蔵堂には、筒井一族追善の為に島左近が奉納したと伝えられる聖徳太子二才像がおまつりされている。聖徳太子は二才の時、東方に向って合掌し、「南無仏」と唱えられると、両手の間から仏舎利が出現したと伝えられるので、南無太子像と呼ばれる。緋色の袴をはいた清純、無邪気な可愛らしいお姿である。
 日本の仏教美術のルネッサンスともいわれる鎌倉時代には、より写実的にということと、生き仏様にお仕えするという考え方から、裸形の像を造ってお衣を着せるのが一部に流行したようだ。奈良で有名なのは、傳香寺はだか地蔵様、西光院のはだか大師様、城寺の裸形阿弥陀如来像だが、奈良国立博物館所蔵の裸形阿弥陀如来立像もみたことがあるし、他にも何体か残っているのであろう。
 少し話はそれるが、新薬師寺に、景清地蔵と呼ばれる錫杖の代わりに弓を持ったお地蔵様がある。謡曲や歌舞伎で有名な「景清」が、大仏鎌倉大修理の開眼供養に源頼朝が参列するのを討って、平家の恨みをはらそうと計画し、それに先だって、新薬師寺の近くに住んでいたお母さんにいとまごいに行った時、このお地蔵様に自分の弓を持たせておいたと伝えられる。
 この景清地蔵様も年古りて傷みが目立ちはじめ、昭和五十八年に、東京芸術大学で修理をして貰われることになった。大切な佛像に失礼があってはならないと、白い布で何重にも丁寧に巻いて、住職と副住職がついて、夕方奈良を出発されたそうだ。今と違って交通事情も悪い頃とはいうものの、朝早く東京に着かれたそうだ。学校の門があくまで車で仮眠していると、白い人間のような形をした得体の知れない大きな荷物を積んだトラックが、芸術大学の前に長い時間とまっているというので、警察官の不審尋問を受けられたという。事情がわかって、無事にお地蔵様を預けて帰って来られると、数日後に平山郁夫先生から電話がかかってきたそうだ。修理をしようとして木の衣を外してゆくと、内から完全な「はだか地蔵」が出てこられた。これに、又もとのように木の衣を着せましょうか。二体にしましょうか。といった内容のお話だったらしい。その際出てきた胎内文書によると、木像は関白藤原基房の子息で興福寺の高僧であった実尊僧正をしのんで、弟子の尊遍が、一二三六年頃造って、遺品の衣や袈裟を折々に着せ替えてはありし日をしのび、菩提を祈念していたということだ。
 木の衣は、おそらく江戸時代の修理の時着せられたものだろうという。両腕も鎌倉時代製作のものは肩から外して躰内に収められ、右手は弓を、左手には宝珠を持てる形のものを製作してつけられていたようだ。
 中田聖観住職は、「この像を造立された時の志に戻って、二体にしてほしい。」と頼まれたので、頭部だけが鎌倉時代作で、衣及び両腕が江戸時代製作の景清地蔵と裸地蔵の二体のお地蔵さんが出来た。そして、実尊像は、玉のように美しいというので、住職が、お玉地蔵と名付けられた。私が初めてお玉地蔵をおがませて頂いたのは初秋の頃だった。お玉地蔵という名にふさわしい美丈夫なお地蔵様であるが、これから寒くなってゆく季節に裸で立っておられるのは、おいたわしい気がする。丁度祖母の五十回忌を十一月の十九日に迎えるので、その供養をかねて、お衣一式を寄付させて頂けないかと、ご住職に申し入れた。ご住職は、「折角表へ来られたお地蔵様に今更衣を着せたくない。そんな志があるのなら、お厨子の扉を作ってくれないか。」とおっしゃるので、祖母の年忌にお扉を奉納させて頂いたことがある。裸の仏様のまつり方もいろいろあるものだなと思った。(脇道に入ってしまって失礼しました。住職と副住職が、修理に出す仏像のお供をされたという話に感動して、どこかに書きたいと思っていたものですから。話を傳香寺に戻します。)
 傳香寺の正門を入って右手奥には、順慶法印の供養塔や、芳秀尼の立派な宝篋印塔、定次公の大きな五輪塔等、筒井一族のお墓や供養塔が祀られている。
 傳香寺さんは、いち早く福祉に目覚めておられたのか、大正年間に近くの老人達が集って老人会が結成された。そして、納骨堂を造ったり、野晒になっていた石仏や墓を集めて、供養されたそうだ。この辺りは万葉の頃、阿婆の野と呼ばれた、古くから人が行き交ったところなので、舟形の石に地蔵と戒名を彫ったものや、いろいろな石仏が五百体程集まったということだ。
 その頃の話だろうか。石原楽器店の大奥さんによると、筒井家の墓所の近くに、南北朝時代の能楽師で観世流の始祖、観阿弥(初代観世大夫。出家して法名が観阿弥陀仏なので、略して観阿弥とよばれている。)の墓があったとおっしゃるそうだ。石原家は代々、能や狂言に秀でたお家なので、昔は時々、お参りしていたのに、いつの間にかなくなってしまったということである。
 西山住職さんは、「五百体ばかりであった石仏と納骨堂を唐招提寺の西方院さんへ移したことがあるので、そのドサクサで観阿弥さんのお墓も行ってしまったのかと思って、西方院さんへも行って調べましたが見当たりませんでした。」とおっしゃる。無くなったのは残念だけれど、それだけの歴史と格式のあるお寺だということだろう。
 傳香寺が、天正十三年(一五八五)にこの地に建てられた頃は、率川添いの景勝の地だったという。町の名前も小川町というのに、今はその辺に川らしいものは見当たらない。しかし、私が子供の頃は傳香寺さんの前にかなり大きな石橋がかかっていたような気がすると思っていたら、思いがけない所でその記憶が実証された。
 平成十年(一九九八)二月一日、奈良市は市制百周年を迎えた。百周年記念に、ならまちセンターの市民ホールに於て、青山茂先生をコーディネーターとして、「ならまち幻影」と題するパネルディスカッションが催された。パネリストには、写真家の井上博道先生、映画監督でカンヌ映画祭でカメラドール賞を受賞された河瀬直美さんと私がつとめた。静止した映像で奈良の美しさを表現される井上先生、動く映像で奈良を紹介する河瀬さんに対して、私は奈良町に生まれ育ったというだけに過ぎないのだが、満席でホールに入りきれない方達はホールでテレビで見ておられるのに、パネルディスカッションに先だって行われた、旭堂南左衛門さん解説の「写真で見るならまち100年」を間近で見せて頂けたのは幸だった。
 その写真の中に、大正十三年の傳香寺前の石橋の竣工式の写真があったのだ。
この橋も老人会の方達が造られたとのことで、紋付姿で威儀を正した関係者らしい方達が橋の上に三、四十人座っておられたから、かなりしっかりした橋だったようだ。
 しかし、この橋も昭和三十五年から始まった道路拡張工事でとりこわされて、川は暗渠(あんきょ)となって、昭和三十七年にやすらぎの道が完成した頃には、昔は川が流れていたという、小川町にも細川町にも率川のほとりに柳が生えていたところから柳町という名がついたという柳町にも、地上を流れる川の姿はみられなくなった。
 傳香寺前の石橋の、名前を書かれたらんかんの石は、記念に正門の内側に立てられ、他の石は石段や土止め等に使って、寄進して下さった方達の志を生かしておられる。
 道路拡張工事のために道や川を掘り返されると、あちこちから石仏が出てきたそうだ。お寺側は一つ一つ境内に運んで供養したいと、人夫をやとって、墓石や石仏を運ぶ用意をされたが、工事を急ぐ道路工事側の人達とうまく調整がつかなくて、数多くの石仏が道路の下に埋ってしまったのは残念だと住職さんはおっしゃる。
 それでも、青龍の一部と思われる彫刻のある石を溝から上げること出来て、仏師の故太田古朴さんは、「この石は、片袖地蔵と同じく奈良時代によく使われた石だから、思託律師が創建された実円寺の仏像の台座に使われていた石の一部ではないか。」と言っておられたとのことだ。十輪院の古木に、「砂糖傳」と家の看板を彫って下さった太田古朴さんの名前が住職さんのお口から出たのがなんだかなつかしい思いだった。
 もう一つ素晴らしいものが出たのはお寺の南側へ流れていた川からであった。川や周辺を掘り起こして工事をしていると、不思議な形の木製品が出てきたといってお寺へ持ち込まれたそうだ。大きな長いV字形の木製品で、当時は何に使われたものかわからず、倉庫の隅に長い間置かれていたそうだ。それを唐招提寺の森本長老がご覧になって、「面白いものだな。要らないのならくれ。」とおっしゃったので唐招提寺へ運んだ。有名なお茶人で、目の利く長老様はそれで机を作らせたところ、長年川床のキメの細かい泥を吸い込んだ木を磨き上げて作った机は素晴らしいものが出来上がったそうだ。
 昭和五十三年(一九七八)、大阪府藤井寺市道明寺の仲津媛陵の南にある三っ塚古墳の堀の底から、アカガシ材の二またを使った修羅が出土してから、古代大きな土木工事には、運搬具として、こんな修羅を用いたのだということで一躍有名になったが、当時は誰もこれが修羅だとは知らなかったということだ。傳香寺で出土した修羅は、平城時代、実円寺の建設に使われたものか、桃山時代に傳香寺の建立に使われたものか知らないが、どちらにしても大変な工事だったのであろう。