第74回(2001年06月号掲載
やすらぎの道の社寺
―傳香寺―
傳香寺BD
 ある晴れた春の日、有名な「散り椿」を見たいと傳香寺を訪れた。傳香寺は桃山時代作の切妻造り、本瓦葺のどっしりとした門のある立派なお寺だが、その表門は平素は閉ざされているので、なんとなく入りにくい。しかし、寺の北側にある駐車場の料金所でお願いすると、愛想良く通用門を教えてくださった。
【名花 散り椿】
 境内に入って先ず目をひかれたのは、本堂の斜め前(東南)で、あでやかなピンクの大輪の花を、満木につけた椿の大木であった。椿の根方には、時代の付いた半浮き彫りの可愛らしい地蔵尊がまつられており、風もないのに、美しいピンクの花びらが、その頭上や周囲にハラハラと舞い落ちている。
 散り椿の散華を受くる石地蔵
 椿は普通、花の形のままぽとりと落ちることが多いのに、この椿は桜の花のように、花びらが美しいうちに、花弁が一枚ずつ散るので散椿(ちりつばき)と呼ばれ、東大寺開山堂の南側にある、のりこぼし(一名良弁椿)、白毫寺の五色椿と共に、奈良の三名椿とされている。
 椿は、花が落ちる様子が首が落ちるようだとして、一部の人達の間では縁起が悪いとされているが、実際は、古来より椿は霊木として神聖視されていたようだ。平安時代、宮廷で正月の初卯の日に邪気を払う呪具(じゅぐ)として用いられた卯杖(うづえ)や卯槌(うづち)は椿の木で作られたという。また、八百歳の寿命を保ったと伝えられる若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)は、神樹である白玉椿を持って各地を巡歴し、その旅先で実を植えたり、枝をさしたりし、その生育具合で神意を占ったと伝えられる。
 こうした慣習や伝説から、椿は不老長寿、魔除け、破邪顕正、病気平癒、和合円満などの呪力があると信じられ、子供のはしかや災難よけに、椿で作った小さな槌を腰に付けさせる風習も、昔はあったそうだ。
 仏像や大和路の美しさを世界に向かって大きくアピールされた写真家の入江泰吉先生は椿が大好きで、お家の庭にいろいろな種類の椿を植えて楽しんでおられた。そして、色紙の揮毫を頼まれたり、お祝いの席などで寄せ書きが回ってきたりすると「大椿の寿」とか「椿寿」とお書きになった。以上が、ある結婚披露宴で「椿寿 入江泰吉」と達筆にお書きになっているのを、隣の席からけげんそうな顔をして見ていた私に、先生が教えてくださった椿のいわれである。
 傳香寺の散椿は、花が真っ盛りのうちに一枚一枚散るいさぎよさから、武士椿(もののふつばき)とも呼ばれる。傳香寺建立の原因となった筒井順慶法印が働き盛りに惜しくも早逝したことを悼み、その功績をたたえての呼び名であろう。
【傳香寺の由来】
 傳香寺の前身は、鑑真和上と共に来日された思詫律師が天平宝亀年間(七七○〜七八○)、この地に開創された実円寺というお寺であった。それが長年の間に荒廃し、万葉集に詠まれた阿婆野の率川のほとりにたたずむ古刹となり、八百年余り経った天正年間には、おそらく実円寺跡と、名前だけ残っていたのであろう。
 天正十二年(一五八四)八月、戦国乱世の世を、時流を明確に見極めた行動によって乗り切り、大和一円を管領する大大名となった筒井氏の頭領、順慶法印が三十六歳の若さで病没した。順慶法印の慈母、芳秀尼(ほうしゅうに)は、文武に秀でた息子の夭折(ようせつ)を悼み、寝食もとらず嘆き悲しんでいたが、やがて冥福を祈り、追善菩提を念じて、一周忌までに菩提寺を建立することを発願するようになった。
 当時は、豊臣秀吉によって天下は統一されたとはいうものの、興亡つねならぬ時代で、なかなか建立の地が定まらなかった。天正十三年(一五八五)二月二十四日、敷地未定のまま元興寺極楽坊に於ても用材の「手斧始」(ちょうなはじめ)の儀式が行われたそうだ。正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を得て、景勝の率川のほとりにあった実円寺の跡を復興して、香華の絶えないことを願って傳香寺と改名して、筒井家の総菩提寺としたという。
 芳秀尼は山田道安の妹で、教養が高く、椿に対する関心も深かったので、屋敷には沢山の椿が植えられていた。一人息子に先立たれた芳秀尼は、それらの椿の中から、最愛の珍しい椿の木を本堂の前に移し植えて供華としたと伝えられる。芳秀尼が植えた初代の散り椿は、文政四年(一八二一)枯死したので、唐招提寺七十五世の宝静長老によって二代目が植えられたという。その椿も昭和三十六年の本堂の修理の時に枯れたので、現在の散り椿(武士椿)は三代目だそうだ。
【筒井氏の起源と筒井順慶】
 伝説によると、春日大社の第一殿にお祀りされている武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、遠い遠い昔、常陸(ひたち)の国の鹿島から大きな白い鹿に乗って奈良へおいでになったそうだ。それから時が流れて奈良時代のなかば過ぎのある夜、時の帝(みかど)、称徳天皇の夢枕に武甕槌命が立たれて「南向きの神殿を建てて経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と共に祀れ」とお告げになった。そこで御蓋山麓に四棟の神殿を建てて、第二殿に下総の国 香取からお迎えした経津主命を、第三殿には河内の国の枚岡からお迎えした天児屋根命、第四殿にはその比売神(ひめがみ)をお祀りしたのが神護景雲二年(七六八)のことであった。筒井氏は、その御遷座の時、神様のお伴をして、河内から大和へ移り住んだ、筒井大夫藤原順武を家祖としている。筒井氏は代々興福寺の衆徒(僧兵とか法体をした地侍)となって、常に法体僧形(ほったいそうぎょう)であった。当時「衆徒国民」と呼ばれ、興福寺の衆徒と春日大社の国民(中世、春日大社の神人となっていた大和の土豪武士)は、南都の武力組織の中心であった。
 順慶法印は天文十八年(一五四九)三月三日、順昭法印の長男として生まれ、幼名を藤勝丸といった。父、順昭法印は生来の病弱で、天文十九年(一五五○)六月十九日、藤勝丸が初誕生を迎えて間もなく、奈良林小路の外館(しもやかた)で病没した。
 戦乱の世の中で、相続人が乳飲み子同然では、外部からあなどりを受けて攻め込まれては大変と、一族は団結して藤勝丸を補佐し、護ると共に、順昭法印の喪を隠した。外面をつくろうために、角振町に住んでいた琵琶法師の黙阿弥(もくあみ)が順昭法印と容貌がよく似ているのを幸いに、身代わりとして順昭法印の在世を装ったという。後に順昭の喪を発表してからは、筒井氏の頭領を装っていた黙阿弥は、もとの琵琶法師に戻ったので「もとの黙阿弥」ということわざが生まれた。一度に威勢の良い地位についたり、大金持ちになったりした人が、一挙にもとの素寒貧に戻ったいう状態をさすことわざだ。
 永禄二年(一五五九)三好長慶の家老、松永久秀は、かねてから大和の征服を念じていたが、ついに信貴山城に進出、翌年には聖武天皇陵の隣接に多聞城を築いて本拠とし、主家 三好氏から実権を奪って畿内に雄飛した。筒井氏は本拠地の筒井を失い、藤勝丸は母の故郷である東山中の福住や宇陀の奥地、河内などに流寓して辛酸をなめた。筒井氏興亡の危機であった。藤勝丸は成人して藤政を名乗り、さらに永禄九年(一五六六)筒井家の伝統に従って興福寺成就院に於て、得度、剃髪して法名順慶となり、興福寺官符衆徒の頭領として、大和の平和安泰を神仏に祈願した。
 しかし翌年十月十日、松永久秀に対して権力の巻き返しを狙う三好三人衆が大和に攻め込み、東大寺大仏殿に陣を構えて、多聞城の松永久秀に戦いを挑んだ。久秀勢は大仏殿に火を放って炎上させるなど、神仏を恐れぬ暴挙に出て、順慶の願いもむなしく、大和は戦乱の場となった。
 永禄十一年(一五六八)、織田信長が上洛し、三人衆を阿波に追い落とし、久秀も降伏して、大和に平和がよみがえったかに見えた。しかし、久秀は信長から大和一国の支配を安堵されるという恩恵を受けたにもかかわらず、将軍足利義昭と共謀して反乱をおこした。筒井順慶は信長の旗下に入り、明智光秀と共に、信貴山城にたてこもって抗戦する松永久秀軍に猛攻を加えた。その結果、天正五年(一五七七)十月十日、久秀親子は信貴山城と共に滅び、大和の戦乱は治まって、再び平和が到来した。
 信長から大和の守護職を任じられた順慶は、筒井氏歴代の居城であった筒井城より、大和平野を一望できる郡山の地に、天守閣を備えた本格的な近世的城郭を築いて、城下町を形成した。
 天正八年(一五八○)十一月、信長は順慶に「大和一円筒井存知」の知行を与えた。筒井氏歴代の当主が熱望した、大和の統一を順慶が実現して、畿内唯一の大大名になった訳である。
 さらに同年、春日若宮祭の願主人(施主)をつとめた功で権律師に任じられ、僧綱(上級学侶)に列して、翌年には若宮祭の田楽頭に選任されて、法印僧都に昇った。順慶法印は、大和守護職より、興福寺官符衆徒の頭領たる、法印僧都の身分を筒井氏の誇りにしたという。
 天正九年(一五八一)六月二日、順慶法印は信長の征西軍に従うべく、早暁京都に向かった。途中、明智光秀の本能寺の変を聞いて、急いで郡山城に引き返した。光秀の使者が加勢の援軍を何度も求めて来たが、順慶法印は郡山城を動かず、国衆を集めて妄動をいましめた。京都の政変による大和国衆の混乱を抑えて、大和の平和を維持することに努める一方、豊臣秀吉に誓紙を送った。秀吉は山崎の合戦で光秀を破り、天下の大勢が決した。
 後に「洞ヶ峠をきめこむ」ということわざになって、形勢をうかがっていて、どちらか優勢になった方につこうと日和見(ひよりみ)している態度をさすようになった。このことわざの語源は、本能寺の変の直後、秀吉は交戦中だった毛利氏と和睦し、兵を返して山崎で明智光秀と対戦した。この時、筒井順慶は山城と河内の境にある洞ヶ峠で戦況をうかがい、秀吉側が有利になるのを見極めてから秀吉に加勢したというのである。これはとんだぬれぎぬで、順慶は秀吉が中国地方から京都に引き返す途中に、既に順慶から秀吉のもとに誓紙が届いていたという。第一、洞ヶ峠は自然の要害の地ではあるが、山崎の合戦を観望できるような地ではない。このことわざは、順慶法印にとって不名誉きわまる冤罪であると、傳香寺の西山明彦住職は力説される。
 秀吉の大阪城築城にともない、順慶法印も大阪に屋敷を構えた。この屋敷のあった辺りが、今も順慶町と呼ばれ、大阪商人の町となっている。
 天正十二年(一五八四)六月、小牧の戦いに出陣した順慶法印は、その地で発病し、帰郷して八月十一日、郡山城に於て没した。享年三十六歳という若さであった。
 順慶法印は学を好み、唯識学に通じ、和歌や茶道にも熟達した文人であり、荒廃した社寺の保護、神事法要の復興に努めた。また、戦国乱世の時代、機を見るに敏で、慎重な判断でいち早く大和に平和を取り戻した、大和の大恩人であった。
 順慶法印には実子がなかったので、甥の定次が家督を相続して、順慶法印の葬儀が盛大に行われ、一周忌には傳香寺の落慶大法要も荘厳に挙行された。
 この一周忌法要の盛儀が終わって間もなく、筒井定次は伊賀上野に国替を命じられ、郡山城には秀吉の異母弟の羽柴秀長が、大和・和泉・紀伊三国の大守として入城した。その後、徳川家康によって、大坂冬の陣の折り、豊臣方に内通したと疑われ改易された。大名筒井氏の嫡流は絶えたが、順慶の養子、紀伊守順斎(定次の弟分に当たる)は、関ヶ原の合戦の戦功で、山辺郡福住で五千石を給わり、その子孫は旗本に取り立てられ、順慶の木像と厨子を筒井村の寿福院に安置したり、天保二年(一八三一)には順慶二百五十年忌を勤修したりして、菩提を弔っておられたようだ。(長島福太郎先生の著書より)
 私の小学校から女学校まで一緒だった友人に筒井芙沙さんという方がおられた。代々名医で有名な矢追家のお嬢さんで、ご兄弟はみな矢追さんとおっしゃるのに、芙沙さんだけが筒井さんというのが、子供心に不思議でしかたなかった。歴史の時間に大和と筒井氏について学んだ時、先生が「これ程立派な業績を持つ名家の名跡が絶えることを惜しんで、一族の子孫の矢追家から、芙沙さんが筒井の姓を継いでいらっしゃるのですよ。」と教えてくださったので、一同、成る程と納得した。
 大和の治安を長年護り続けた名門、筒井家の子孫の方達は、その誇りを持って、筒井氏同族会を結成しておられるそうである。