第73回(2001年05月号掲載
やすらぎの道の社寺
―漢国神社と率川神社―
◆漢国神社
◆率川神社 三枝祭り
 阪奈道路からまっすぐ、近鉄奈良駅と県庁の前を通って奈良公園に至る大宮通りと、やすらぎの道との交差点を南に入ると、同じように車の往来の頻繁な広い通りであるにかかわらず、その名の通り、なんとなくやすらぎを覚えるのは、由緒ある神社やお寺が、民家の間にさりげなく鎮っておられるせいだろうか。

【漢国神社】
 大宮通りを南に折れて、やすらぎの道に入って少し進むと、右側に漢國神社がある。通りに面しては「県社 漢國神社」と「饅頭の祖神 林神社」という二本の石標と石燈籠があるだけなので、うっかりとおしゃべりしながら歩いていたら通り過ぎてしまいそうだが、石標にはさまれた参道を奥に入ると意外に広く、歴史の古さを物語るように森厳の気が漂っている。推古天皇の元年(五九三)に大物主命(おおものぬしのみこと)が祀られ、その後、元正天皇の御代になって、藤原不比等が大己貴命(おおなむらのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を合祀して一殿三座の神社にされたと伝えられる。
(註)大物主命は、大国主命の和魂(にぎみたま)、大己貴命は荒魂(あらみたま)である。和魂は柔和に人々を護り福徳を与えてくださるのに対し、荒魂は勇猛剛健に災害に立ち向かい人々を導いてくださるという。
 率川神社のゆり祭りと同じ六月十七日には、この神社でも鎮華三枝祭(はなしずめさきぐさまつり)が行われ、古式による庖丁式が奉納される。
 境内には、日本で初めて饅頭を作ったという林浄因(りんじょういん)を饅頭の祖神としてお祀りした林神社がある。毎年四月十九日には例大祭〜饅頭祭〜が行われ、「奈良の銘菓即売会」が併催される。林神社は印刷の祖とも言われ、九月十五日には印刷屋さんが集まって顕彰祭が執り行われるという、誠に多才な神様である。
 吉川英治著の「宮本武蔵」のなかに、宝蔵院での武術の試合には勝ったが、老僧 日観との対話で、精神的には「敗けた。おれは敗けた。」と心の中でつぶやきながら帰る途中、猿沢池の近くで饅頭を食べて心身を癒す場面が出てくる。文中では宗因饅頭となっているが「中国からの帰化人で林和靖の後裔が開いた店だ。」とあるから、時代は下っても林浄因さんが始められた饅頭店は、子孫に受け継がれて益々繁盛していたのだろう。「饅頭の皮には『林』の字が焼いてあった」とまで書かれているから、作家というものは、こうした細い言い伝えや史実まで調べた上で物語を構成していかれるのだなと感心した事がある。
(註)林浄因は林和靖の子孫である。
【開化天皇陵】
 漢國神社から少し南に進むと、道は三条通りに交わる。往古は大宮人が雅びやかに行き交ったであろう、平城京の三条大路の名残りである。今も西にJR奈良駅、東に春日大社があるので、観光客や買物客で賑わっている。
 三条通りを少し西に下ったところに、開化天皇の御陵である春日率川坂上陵がある。開化天皇の皇居は「春日率川宮」といわれ、現在の率川神社のあたりに宮殿があったのではないかと伝えられている。
 開化天皇は第九代の天皇であるが、辞書にもその生没年の記入がなく、奈良に都を遷された元明天皇が即位されたのが七○七年で、四十三代の天皇だから、随分昔にも、この地に都があった訳だ。
 開化天皇のお孫さんに狭穂媛(さほひめ)・狭穂彦という兄妹があった。狭穂媛は十一代の垂仁天皇の皇后になっておられた。天皇位を狙って謀反を企てた狭穂彦は、妹に天皇を弑(し)するように命ずるが、天皇を愛していた狭穂媛は殺すことが出来ず、事が発覚する。狭穂彦は稲城(いなぎ・家の周囲に稲を積んで、矢や石を防ぐ防壁としたもの)を築いて頑強に抵抗した。天皇を愛し、天皇の子を身ごもっておられた皇后も、当時のモラルに従って兄の陣営に入られた。皇后を愛していた天皇が攻めあぐんでおられるうちに、皇后は皇子をお産みになった。狭穂媛は天皇方に皇子をお渡しした後に、黒髪を切って山に埋め、いずことなく落ちていかれたと伝えられる。(黒髪山の伝説・1999年11月号掲載)悲劇の狭穂媛も、幼い頃はお祖父様の宮殿で遊ばれたこともあるのだろうか。
【率川神社】
 やすらぎの道に戻って少し南に行くと、開化天皇の宮居の跡といわれる地に、飛鳥時代、推古天皇の元年(五九三)に、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅命によってお祀りしたという率川神社がある。
 御祭神は、神武天皇の皇后となられた媛踏鞴五十鈴命(ひめたたらいすずひめのみこと)を中殿に、向かって左のお社にお父様の狭井大神(さいのおおかみ・大国主命、大物主大神・大己貴命とも呼ばれ同神である。)右のお社にはお母様の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)が、仲良く姫神を護るように並んで、祀られているので、一名、子守明神とも呼ばれ、この神社のある町名も本子守町と呼ぶ。
 伝説よると媛踏鞴五十鈴姫命ご一家は、三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになっていた。お住居の周囲には笹百合の花が美しく咲き乱れて、甘い香りがただよっていた。そんなある日、五十鈴姫が侍女達と共に笹百合を摘んでおられる所へ通りかかられたのが神武天皇であった。
 天皇は姫の薫りたつような美しさと、聡明そうな物腰に魅了されて、お父様の大物主大神に申し入れて、皇后とされたと伝えられる。皇后は賢明で内助の功高く、第二代の綏靖(すいぜい)天皇他、二人のお子様をもうけられたという。
 神武天皇は、天孫降臨された瓊々杵尊(ににぎのみこと)のご子孫である「天津神」(あまつかみ)の子孫に当る。一方、大物主大神は、天孫降臨前に降りてこられた素戔嗚尊(すさのおのみこと)のご子孫で、すでに日本の国を治められていた神々、「国津神」(くにつかみ)そのものである。神武天皇と大物主大神との出会いは、天津神と国津神との平和で固い結びつきであると共に、神話から歴史へと、一歩を踏み出すことになる。
 この故事により、毎年六月十七日には華麗な三枝祭(さいぐさまつり・一名ゆり祭)が厳粛に挙行される。
 黒酒(くろき)、白酒(しろき)を詰めた(そん)、缶(ほとぎ)と呼ばれる酒樽の周囲に、ご祭神の故郷の三輪山で咲き香っていた笹百合が、たつぷり見事に飾り付けられる。優雅な楽の音につれて、御神酒、御神饌が献じられ、巫女による「うま酒みわの舞」が奉納される。タイムスリップして古代を垣間見るような幻想的なお祭りである。
 祭典のあと、七緩女・ゆり姫・稚児の行列が繁華街を練り歩く。五十鈴姫と、その侍女を思わす美しい乙女達、可愛い稚児の手を引くお母さん達の百合の花を染め抜いた浴衣姿が印象的だ。
 境内に率川阿波神社が祀られている。ご祭神は大物主大神のお子様の事代主神(ことしろぬしのかみ)。名前を聞いてもピンと来ないかも知れないが、「えべっさん」として親しまれている福の神、恵美須様のことだ。大物主大神は御存知のように「大黒様」のことだから、恵美須大黒のお目出度い親子神様である。
 社名の率川阿波神社というのは、万葉の頃、この辺りは阿婆の野(あばのの)と呼ばれる野ッ原だったことから、付けられたのではないかと考えられる。
鏡なす 我が見し君を 阿婆の野の 花橘の 珠に拾ひつ(巻七・一四○四)読み人知らず
 鏡のように、美しく輝いていらっしゃるなと、いつもあこがれの目を以って見てきたあなたを、今日は阿婆の野の花橘の玉として拾っている、といった意味だろうか。
 荼毘に付した骨を花橘の実に例えたものか、橘の実を玉(魂)にみたてたのかわよく分からないが、愛する人への挽歌であろう。
 三十三代の推古天皇になって、やっと天皇の生没年が辞書に五五四年〜六二八年、在位五九二年〜六二八年と明記されるようになった位だから、九代の開化天皇の時に皇居があったと言っても、長い間、率川が流れ、野の花が咲き、小鳥や小動物が水を求めてやってくる原野になっていたのだろう。
 今はこの辺りを流れていた川はみんな暗渠になってしまって、広くなった道路を、ひっきりなしに車が通る近代的な町になっている。遠い遠い昔、愛する人を荼毘に付して、そのお骨を拾ったのではないだろうか等と、推測をめぐらせるような阿婆野の面影はまったくない。
 しかし、先に記した漢國神社や率川神社の境内にたたずんで、静かに目を閉じると、なんだか古代の空気が、ここだけには流れているような厳粛さが感じられる。
 来月号には、ここから直ぐ南にある伝香寺について語りたいと思っている。
【訂正】4月号25ページの10〜11行目の欽明天皇元年は、正しくは舒明天皇元年(六二九)です。