第72回(2001年04月号掲載
平城京極大路(京街道)
―般若寺―
◆般若寺十三重塔
◆般若寺楼門
 般若坂(奈良坂)を登りきって平坦な道になったあたりの右側に、あまり大きくないのに、どっしりとした威厳を持つ国宝の般若寺楼門があり、その奥に十三重の石塔が聳えている。
 私がまだ学校に通っている頃、先生に連れられてお参りに来た頃、この門は、かなり傷んでいたけれど、門をくぐって入ったと思うのに、山門は閉ざされていて木の柵まであって入れない。折角来たのに休みかなと思ったが、とにかく駐車場まで行こうと三十メートル程北へ行くと駐車場の横に入口があった。横道に沿って素朴な石仏が並んでいる。西国三十三ヶ所の観音石仏で、元禄十六年に、山城の方が病気平癒のお礼に奉納して、身体の不自由な方も、ここで三十三霊場の観音様にお参りできるよう便宜をはかられたそうだ。子供の頃来た時と違って境内は美しく整えられていて、名物のコスモスや山吹の時期ではなかったが、水仙や山茶花があちこちに咲いている。本堂に上がって先ず目につくのは、中央の春日厨子の中の文殊菩薩様。宝相華を透し彫にした美しい光背を背に、金色の蓮華座に座って獅子に乗っておられる。智恵の仏様というだけに、キリっとした知性にあふれる表情で唇の朱が暖かい慈悲を感じさせる。
 その前後両脇には可愛い善財童子、優填王(うてんおう)、仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう)、最勝老人、の四侍者が控えておられる。これは文殊菩薩が四侍者を従えて、海を渡って日本に来られるという発想だそうだ。厨子の四方を四天王が力強く護っておられる。
 私が学校に行っていた戦争中は天皇制に関する教育が盛んで、南北朝の南朝が正統であると教えられていた。それで学校から般若寺に来たのも、護良(もりなが)親王が幕府の専横を憎み、天皇の親政にかえそうと、討幕運動をしておられる時、一時般若寺に身を寄せておられたことがあった。それを聞きつけた敵が般若寺に攻め込んできたので、とっさに仏殿にあった大般若経の唐櫃(からびつ)に隠れられた。唐櫃は三つあって、二つはふたをしたまま、一つは読みかけで、お経を半分程取りだしてふたもしていなかったので、その中に入って身を縮め経を引き被っておられた。そこに入ってきた敵兵は、ほうぼう探し、ついにふたの閉まっている唐櫃からお経を取り出して調べたがおられないのであきらめて出ていった。親王は兵が引き返してくるかも知れないと、今度はふたの閉められていた唐櫃に移って隠れておられた。案の定、兵士が戻ってきて、先程は調べなかった唐櫃を探し、居られなかったので高笑いしながら帰っていった。親王はこれも仏のご加護と感涙にむせばれたと伝えられる。この唐櫃は今も本堂に安置されているが、なんだか子供の頃見たより、小さく感じられる。追憶はその位にして、この寺の歴史を考えてみよう。
 この地は飛鳥と奈良を結ぶ上っ道の延長線が、大和と山城の境をなす奈良山の東端を越える重要な地点にあるので、般若寺の創建は随分と古いらしく諸説がある。そのうち主なものを古い順に並べると@聖徳太子が建てられたとする説。
1.慧灌説。慧灌(えかん)は高句麗の高僧で推古天皇の御代(六二五年)に来日、法興寺(後の元興寺)に入った。欽明天皇元年(六二九)に、慧灌は天皇から飛鳥の豊浦寺に建てる塔の形を描くように命じられ、思案に余って池のほとりで祈っていると、一本の茎に二つの花を咲かせている珍しい蓮の花が見つかった。その花を見つめている内に、塔の形が頭の中でまとまり、立派な完成予想図を描くことができた。慧灌は感謝の心をこめて、この池を「般若池」と名付け、近くに精舎を建てて文殊菩薩を祀り「般若台」と呼んだのが始まりだという。
2.蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)説。白雉五年(六五四)孝徳天皇のご病気の全快を祈り蘇我日向臣が建てたという説。
3.伴寺跡地説。大伴氏の氏寺である伴寺が養老五年(七二一)若草山の方に移されて、その跡に建ったという。これは私の想像だが、年代から見て、平城京の鬼門鎮めの寺を建立するため、移転を要請されたのではないだろうか。伴寺はその後廃されて、東大寺墓所となったが、今も「伴墓」と呼ばれている。東大寺長老故清水公照師と、越中の大伴家持の史蹟を訪ねた時、この伴墓の話を聞いたことをなつかしく思い出す。
 等々、どれが本当だという確証がないとは言うものの、日本に仏教が伝来して間もない頃から、この地に何らかの仏教施設があったと伝えられるのは、交通の要路であると同時に霊気ただよう聖地であったのだろう。
[聖武天皇の御代]
 天平七年(七三五)に聖武天皇はこの地に行幸され、国家安泰、万民豊楽を祈って七堂伽藍を造営され、奈良の都の鬼門鎮護とされたと伝えられる。金堂に丈六の文殊菩薩を祀り、十三重の石塔を建立された。この塔の基底に天皇ご宸筆の大般若経を納められたことから、寺号も「般若寺」と改まったという。そして初代住職は行基菩薩が務められ、般若寺千坊と呼ばれるほど隆盛を極めた。般若寺僧正とも呼ばれた観賢(かんげん)僧正が住職をされていた延喜の頃(九○一〜九ニ五)には、その徳を慕って集まった学僧が千人以上に達したということだ。
[平重衡の奈良焼打]
 平安時代末期、栄華と専横を極めた平家に対し、治承四年(一一八○)以仁王(もちひとおう)の令旨を受けた源氏の挙兵が各地でおこった。平家にとって南都北嶺の寺社勢力も目の上のこぶの強敵であった。度重なる南都僧兵の活躍に業を煮やした平清盛は、治承四年の十二月、遂に南都攻撃を命じた。清盛の息子、平重衡を総大将とする平家軍は、四万余騎の軍勢をひきいて南都に向った。
 迎える南都勢は七千余人。奈良坂・般若寺の二ヶ所で路を切断して掘を作り、逆茂木(さかもぎ。敵の侵入を防ぐために鹿の角のようになった茨の枝を逆立てて垣に結びつけた防衛物)を設けて待ちうけた。
 平家は軍勢を二手に分けて、この二ヶ所の砦に攻め込んだ。豪勇をもって知られる南都の僧兵達は「仏敵ござんなれ」と迎えうった。朝に始まったいくさが夜に入ると、さすがに勇猛な南都大衆(だいしゅう)にも疲れの色が見え始めた。味方の六倍にも達する敵方の人馬に攻め立てられて、砦も破られた頃、「火をかけよ」という重衡の命令で、配下の者達が民家に火をつけて廻った。各所から燃え上がった火の手は、折からの激しい北風にあおられて、たちまち燃えひろがり、南都の寺々におそいかかった。年も暮の十二月二十八日のことであった。この火事で興福寺、東大寺をはじめ、南都の名刹のほとんどが灰燼(かいじん)に帰してしまった。
 聖武天皇が国家安泰、万民豊楽を願って、国を挙げて造営された東大寺大仏殿も焼け落ち、大仏様の御身体は溶けてひと山のかたまりとなり、その横に御頭がころがっていたと言うから、その惨状はすさまじいものであっただろう。平家を迎え撃つ要塞として使われ、主戦場となった般若寺の災害の甚大さは、想像するだけでも恐ろしくなる位だ。
[鎌倉期の復興]
 「平家が滅亡したのは仏罰である。」との世論が高まり、新しく政権を獲得した源頼朝は人心を掌握する意味も込めて、南都の復興に力を尽くした。なかでも再興なった大仏様の開眼法要には、頼朝公自身が、夫人や数万の将兵をひきつれて参列したことは、能や歌舞伎にもとり入れられて有名である。
 しかし、鎌倉幕府の復興の手も般若寺までは届かなかった。鎌倉時代なかばの記述によると「般若寺は聖武天皇がお建てになった観賢僧正の遺跡である。長い年月のうちに仏像も建物も焼けてしまって礎石が残っているだけである。荒れ果てた境内には野狐が棲んでいて古い墓だけが並んでいる。」とある。かつて荘麗な伽藍があったという言い伝えがあるだけで有名無実になってしまっていた。
 こんな時に、「大善巧の人」があらわれて、この有様を悲しみ、懐旧の念にかられて、ついに寺の復興を発願し、まず十三重の石塔の建立にとりかかった。しかし、初重の軸石を支える基石と初重の大石を積んだだけで死んでしまわれた。そのため、巨大な十三重の塔を発願された人の名も、いつの頃着工されたかも記録にはなく、「大善巧の人」と記されているのみである。
 その後、一人の禅僧が塔の近くに住み、遺志を継ぎ善男善女にも勧進して石塔を完成させるが「ただ石塔のみで、いまだ仏殿はあらず」と誌されている。塔に納められていた宋版法華経の箱に建長五年(一二五三)と書かれているところから、その頃に塔が完成したものと思われる。
 七百五十年も経つ現在も、その間の戦乱や火災にもめげず堂々と立っている十三重石塔は、高さ十四メートル余り、総重量は八十八トンもあるそうだ。クレーン等も無い時代、重い石を積み上げるだけでも大変だ。しかも初重軸石には東に薬師如来、南に釈迦如来、西、阿弥陀如来、北、弥勒如来の四方四仏が彫刻された荘厳端麗な見事なものである。
 こんな昔に、これ程のものを誰が施工したのであろうという疑問が湧いてくる。その疑問には、境内にある二基の笠塔婆に残された刻銘が答えてくれる。この笠塔婆は伊行吉(いぎょうきつ)によって、父伊行末(いぎょうまつ)の追善の為に一基、母の息災延命を祈って一基を建てられたものだ。
 その銘文から推察すると伊行末は、南宋国明州(中国浙江省寧波)出身の人である。「大仏殿の石壇、四面の廻廊、諸堂の屏垣が皆荒れて壊れていたのを、陳和卿は金銅大仏を鑄、伊行末は殿壇石壇を修造した」とあるから、大仏殿の鎌倉大修復のために宋から招かれた、金工、石工等の技術者の一人だったのだろう。 弘長元年(一二六一)に父の一周忌に行吉が建てた一丈六尺もある供養塔には、般若寺の十三重の大石塔は父行末が石工となって建立したと、はっきり刻まれている。伊行末は東大寺三月堂の前に石燈籠を奉納している。「その銘文に『宿願を果さんが為、石燈籠一基施入し奉する』とあるのは、時期的に見て、般若寺十三重塔の無事完成を不空羂索観世音に祈ったのではないか。」と般若寺の住職は述べておられる。それ程、あの塔を積み上げるのは至難の業だったのだろう。
 名工伊家の子孫は、(祖国南宋が元に滅ぼされたこともあり)帰国せず、日本に住みつかれたようだ。加茂町の浄瑠璃寺の近くには、行末さんの孫の伊末行(いすえゆき)さんが彫ったと伝えられる線彫りの弥勒の摩崖仏(まがいぶつ)や、可愛らしい笑い仏が残されている。
 十三重の石塔のみの般若寺に金堂を建て、丈六の文殊菩薩を納めようと発願したのは、良恵上人(りょうえしょうにん)であった。良恵上人が興正菩薩叡尊の助力を得て、本尊文殊菩薩の開眼法要を行ったのは、文永四年(一二六七)のことであった。「文殊般若経」によると、文殊菩薩は貧窮孤独の衆生に姿を変えて、文殊を供養する行者の前にあらわれると説かれているので、この寺では、貧しい人や病人に食物や薬をほどこす文殊会がしばしば行われたという。ハンセン氏病の人を救済する北山十八間戸も、こうした趣旨から建てられた。
 こうしてよみがえった般若寺も室町時代の一四九○年の火事で本尊の丈六の文殊像も諸堂と共に焼けてしまった。人々の信仰で意外に早く復興をなし遂げたにかかわらず、戦国時代になって、松永久秀と三好三人衆との戦いでふたたび灰燼に帰してしまった。
 江戸時代には幕府から寺領三十石を与えられ、ある程度の修復も出来たようだ。しかし、明治になると排仏毀釈の嵐に見舞われ、度々の災害にも不死鳥のようによみがえった般若寺も荒れ放題のまま終戦を迎えた。
 勿論その間も、修復に努力されたお坊さん方もあるのだろうが、今日のように寺観を整え、花の寺として親しまれるようになったのは、先代住職 工藤良光師と現住職 良任師の苦労の賜物である。