第71回(2001年03月号掲載
平城京極大路(京街道)
―転害門から般若坂へ―
◆北山十八間戸
◆夕陽地蔵
 平城京から東にのび、総国分尼寺 法華寺と、総国分寺 東大寺を結んでいる佐保路は、東大寺の西北を護る、転害門で終る。転害門は度重なる兵火や地震の被害をまぬがれた、東大寺で唯一残る天平創建時代の建物である。
 大仏建立という大事業達成のご守護を願うため、天平勝宝元年(七四九)宇佐(大分県)から八幡大神を招請した。八幡大神はこの門から東大寺へ入られる時、「殺生を禁断する。その代わり災害を転じて福を与える。」と、ご神託を下されたので「転害門」と呼ぶようになったという。転害門は平城京の東七坊大路に面して建っていた。平城京は東西には一条(一条通は北一条と南一条があった)から九条の大路が通り、南北には朱雀門から九条大路の羅生門までを真っすぐに結ぶ朱雀大路を中心に、左右に一坊大路から四坊大路が走る、南北四・八キロ、東西四・三キロにおよぶ碁盤の目のように整然とした計画都市であった。そして、左京の東部には、南一条大路から五条大路を延長して、東五坊、東六坊、東七坊大路を設け、その出っ張り部分を外京(げきょう)と呼んでいた。旧奈良市内はほぼ、この外京にあたる。
 東七坊大路は北へ延びて山城に達するので、平城京極大路と呼ばれ、都が京都へ遷ってからは京街道と呼ばれるようになった。佐保路が都大路として、外京の社寺に詣でる天皇や貴族達の鳳輦(ほうれん)牛車(ぎっしゃ)が行き交ったり、桜や紅葉をかざした大宮人が華やかに往来した頃の平城京極大路は、泉河(木津川)を通って泉津(木津)へ陸揚げされた、東大寺や興福寺をはじめ諸寺造営に要する木材や諸物資を満載した荷車が、威勢よく奈良に運び込んでいたことだろう。
 都が京都に遷ってからは、佐保路に代って貴族方の奈良詣の道となったり、興福寺の僧兵が春日大社の神木を奉じて京都の朝廷に強訴に押しかけた道、平重衡が南都焼打に三万の兵を率いた道、この時、ほとんどの堂宇が焼け落ち、見るも無惨な姿になられた大仏様を再興した重源上人を援助した源頼朝公と政子夫人が、数万の将兵を従え落慶法要に参加するために威風堂々と通った道でもある。この時、平家の残党の悪七兵衛景清が、頼朝を討ち果たして平家の恨みをはらそうと、転害門の楼上にかくれて待ち伏せしていたのを、警護の武士に見つかって退散したという古事から、この門を「景清門」とも呼ぶようになった。
 この道は上街道を通じて伊勢街道、初瀬街道にも通じ、東山間への道の入口にもなっているので、古来から長い間、主要道路として栄えた道なので、いろいろな史蹟や物語が残っている。
 転害門のななめ向かいに「いとくゐ餅」という餅菓子屋さんがある。この店の奥さんの話によると、この店は宝暦年間(一七五一〜一七六四)から、この地で餅や赤飯を売っておられたそうだ。
 その頃は、門前の広場は、旅人や商人達の休憩場所になっていたという。人々はその辺に牛や馬をつなぎとめて弁当を食べたり餅や菓子を買って食べたりして疲れをいやし、英気を養った。時間によっては門の前に坐りきれない程いっぱいになるので、そんな時、人々は近くを流れている吉城川の河原で憩いのひとときを過ごしたという。ある時、一人のお坊さんが、この店で買ったお餅を、吉城川畔にある井戸の側で食べておられると、突然、大威徳明王を感得されたそうだ。そこで、そのお坊さんは、この店の屋号を「いとくゐ餅」と命名してくださったと伝えられる。
 転害門の前の道を北へ進み、佐保川にかかる石橋を渡って、旧道の勾配のきつい坂道を登っていくと、般若坂の中腹に、史蹟 北山十八間戸がある。北山十八間戸とは、鎌倉時代に、西大寺や元興寺をはじめ、荒廃していた南都諸寺の復興に力を尽くし、真言律宗の開祖ともなった與正菩薩叡尊(一二○一〜一二九○)の弟子 忍性上人(一二一七〜一三○三)が、奈良の北山にハンセン氏病患者を救済する為に設けた病舎である。
 当時、ハンセン氏病は不治の業病とされ、世間から疎外されて、病に苦しみながら、物乞いなどしてさまよっていた人達を収容し、看護したという。最初は般若寺の北側に建てられていたらしいが、永禄十年(一五六七)三好三人衆と松永久秀との戦いで、般若寺の諸院と共に兵火によって焼失し、江戸時代になって、四、五百メートル南に寄った現在地に再建されたそうだ。
 私が子供の頃、般若寺にお参りするためここを通った時は、こわれかけた馬小屋のような感じで、南向きの細長い室が並んでいるのが外からでも見えたように思う。今は、綺麗に復元されて(史実に基づいて復元されたのだろう。)黒く塗られた建物に白壁も清々しく、十八の病室と仏間があるという。戸は閉じられているが、なかなかしっかりとした建物だ。旧奈良市内を一望できる高台にあるので、大仏殿や五重塔がよく見える。昔はもっともっと堂塔伽藍がたくさん見えただろう。病み疲れて、心も体もボロボロになった人達が、この施設に入れて貰って、朝晩、緑に囲まれた極楽浄土のような社寺の風景を見ていたら、きっと心もやすらいで、欣求浄土(ごんぐじょうど)の気持ちになったことだろう。前庭の奥まった所に数基の供養塔があったので、ここで亡くなられたであろう多くの方達の冥福を祈って合掌する。
 北山十八間戸のすぐ北側には「夕日地蔵」という大きなお地蔵さんがあったはずだとあたりを見渡すが見当たらない。般若寺の方に向かって、ほんの少し行くと、いらっしゃった、いらっしゃった。背の高い建物と建物の間が少し空き地になっていて、そこに道行く人に微笑みかけるような、おだやかな表情で立っておられる。お背丈二メートル余りある大きなお地蔵様だが、両側に高い建物があるので、あまり大きく感じなくなった。
 かたわらに、
ならさかの いしのほとけの おとかひに こさめなかるる はるはきにけり
 という會津八一さんの歌を記した標が立っている。このお地蔵様は、お顔に夕陽があたると、いちだんと柔和で慈悲深い表情をされるというので夕日地蔵の名があり、地元の人たちに親しまれている。
 昭和三十年代に出版されてベストセラーになった吉川英治著の「宮本武蔵」によると、武蔵が宝蔵院流の槍術と手合わせしたいと訪れた頃の奈良は、関ヶ原の戦いに敗れた浪人や浮浪者が沢山流れ込んできて、風紀が乱れ、悪い夜遊びがはやったり、窃盗やゆすり、たかりが横行し、人々は困り果てていた。幕府でも奈良奉行を任命し、取り締まりに当たっていたが、新任の奉行も取り締まりようがないような有り様だった。この本では宝蔵院は油坂にあったとなっているが、宝蔵院は、現在、国立博物館が建っている辺りにあったということだから、昔は登大路辺りの坂も油坂と呼んだのだろうか。
 武蔵は「奥蔵院」というお寺の坊さんに宝蔵院へ行く道をたずねた。すると坊さんは「この寺と背中合わせの寺だから、当寺の境内を通って裏へ抜けて行くと近い。」と教えてくれた。教えられた通り境内を歩いていると、奥蔵院の裏手に畑があって一人の老僧が耕していた。武蔵は挨拶をしようと思ったが、あまりにも一生懸命、畑仕事をしているので声をかけるのがはばかられた。そっと側を通ろうとすると、老僧の身体から、今にも雲を破って撃たんとする雷気のような、すさまじい気が感じられて、武蔵は思わず九尺ほど飛んで通った。二間程先から振り返ってみると、老僧は何事もなかったように畑仕事を続けていた。何者だろうかと畏敬の念を抱きつつ宝蔵院に向かい、手合わせを申し込んだ。宝蔵院流槍術二代目の胤舜は留守であったが、その高弟の一人である阿巌(あごん)に、武蔵は一撃の下に打ち勝った。そこへ先程の老僧が挨拶に現れた。老僧は奥蔵院の住職、日観で「宝蔵院流槍術の創始者 胤栄とは若い頃からの友人で、一緒に槍術を学んだが、今は槍を手に取らんことにしている。」とのことだった。
 日観は武蔵に「おん身は強すぎる。余りにも強い。その強さを少したわめぬといかんのう。」と言った。「はあ?」といぶかる武蔵に日観は「わしがさっき、畑で菜を作っていると、お手前は九尺も飛んで通られたじゃろう。なんであんな振舞をする。」「あなたの鍬が、私の両足に向かって、いつ横ざまに薙ぎ付けて来るかわからないように思えたからです。あなたの眼気が、私の全身を観、私の隙を恐ろしい殺気で探しておられたからです。」と答えると、日観は「あべこべじゃよ。」と笑って「おん身が歩いてくると、十間も先から殺気を鍬先にぴりっと感じていた。それ程、おん身の一歩一歩に争気がある。当然わしもそれに対して心に武装を持ったのじゃ。もしあの時、側を通ったのがただの百姓かなんかだったら、わしはただ、鍬を持って菜を作っているだけの老いぼれに過ぎなかっただろう。あの殺気は、つまり影法師じゃよ。自分の影法師に驚いて自分で跳び退いたわけになる。」武蔵は、初対面の言葉を交わす前から、すでに、この老僧に負けている自分を見いだしていた。
 武芸者に対するふるまいとして出された茶漬けと、瓜の中に紫蘇と唐辛子を漬け込んだ宝蔵院漬も、味がわからなかった程、武蔵は「敗けた、おれは敗けた。」と思ったそうだ。
 武蔵と阿巌の仕合を見ていた浪人者が武蔵を宿にたずね「春日野に小屋を掛けて賭試合をやらないか。」と誘う。武蔵は「わしは、やせても枯れても剣人をもって任じているのだ。木剣では飯は食わない。」と断ると、浪人達は「忘れるな。」と捨てぜりふを残して帰って行った。
 何日かして、武蔵が奈良を発とうとしていると、宿の者が「大変です。あなたが今朝ここを発つのを知って、宝蔵院のお坊様方が、槍を持って十人余り連れたって般若坂の方へ行かれました。宮本という男が宝蔵院の悪口を言ったり、人を使って町の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っていて、今日奈良を離れるらしいから、途中で待ち受けるのだと言ってました。町の要所には浪人達がかたまっていて、今日は宮本を捕まえて宝蔵院へ渡すのだと息巻いているそうです。」と出発を止めようとした。武蔵は悪口を言ったり落首を貼ったりなど、身に覚えのないことだし、敵に後ろを見せるのもいやなので、皆が待ち受けているという般若坂に向かって歩みを進めた。
 案の定、先般宿へ来て、捨てぜりふを残して帰った浪人が途中で待っていて、武蔵を宝蔵院の僧達が焚火をしながら待っている般若坂の方に誘う。
 しかし、結果は宝蔵院の僧達は武蔵と浪人達が争うのを傍観しているだけで、逆に逃げ出そうとする無頼者達をやっつけてしまう。それを待っていたように、老僧 日観と奉行所の役人達がってきて「後片づけは役所でいたします。」やと告げ、経過を説明する。「宝蔵院の悪口を言いふらしたり落首をはったりしているのは、奈良の町のダニのような存在の無法者達なので、奈良奉行所とも相談して、この際、だまされたようなふりをして彼等の話に乗り、協力して武蔵を打ち取ろうと悪い仲間達を集めさせて、押し借り、強盗、賭試合、ゆすり、たかり等をして、奈良の人達を悩ましている連中の大掃除をしたのだ。」ということであった。
 日観老僧は拾い集めさせた小石にお題目を書いて、死骸がころがっている般若野の四方に投げ、法衣の袖をあわせて誦経した後、奈良へ、武蔵は柳生へと袂(たもと)を分かったという。
 武蔵はきっと「お前さんは強過ぎる。その強さを自負していくと三十歳までは生きられまい。わしの先輩の柳生石舟斎様、その又先輩の上泉伊勢守殿等の歩いた通を、これからお身も、ちと歩いてみるとわかる。」という日観の言葉を心の中でかみしめながら、柳生への道をたどったであろう。
 それにしても、人馬の往来がはげしく、宿や日用品を売る店が建ち並んでいたであろう町筋を、ちょっと通り過ぎると追い剥ぎが出たり、こんな刃物三昧の騒ぎがあっても、周囲に迷惑をかけないような場所だったのだろう。