第70回(2001年02月号掲載
佐保路 その4
―興福院から多聞城跡へ―
◆興福院
◆聖武天皇陵
◆若草中学校の「多聞城跡」の碑
 佐紀・佐保は古くから開けていた土地だけに、いろいろな伝説がある。その中から日本霊異記に取り上げられた説話を一つ紹介しよう。日本霊異記は、薬師寺の僧、景戒によって、平安時代の初期にまとめられた、日本最古の説話集である。霊異記には五世紀後半の雄略天皇の御代の話から、八二二年、嵯峨天皇の時代までの各地で起きた奇事や奇話、百十六を集めて、それぞれの因果応報を説き、悪行をいましめ、善いことをすることによって善い結果がうまれる、善行を行って、皆とともに極楽往生しようと呼びかけている。百十六の話は、上・中・下の三巻に分かれていて、中巻のほとんどは聖武天皇の御代の話、上巻はそれ以前、下巻は聖武天皇以降の話と、時代順にまとめられている。
▼日本霊異記 下巻 第十五 乞食の沙弥(しゃみ)を打って 悪死の報いを受けた話
 奈良の都の活目の陵(いくめのみささぎ・垂仁天皇の陵)の北にある佐岐(佐紀)村に犬養宿禰眞老(いぬかいのすくねまおい)という人が住んでいた。生まれつき、よこしまな考えをもっていて、乞食僧に物を与えるのを嫌い、憎んでいた。称徳天皇の御代に、一人の沙弥僧がいた。ある日、その僧は眞老の家の門に立って食物を求めた。眞老は物を与えないで
「お前はどういう坊さんだ。」と詰問した。
 僧は、「私は自度僧です。」と答えた。
 すると、眞度は僧の袈裟を奪って、打ち叩いて放り出したので、僧は恨んで去っていった。
 その日の夕方、眞老は鯉を煮こごりにし、翌朝、寝所に座って、その鯉を口に入れ、酒を手に取り飲もうとしたところ、口から黒い血を吐き、バッタリ倒れ眠るように死んでしまった。
 よこしまな考えは身を斬る鋭い剣であり、怒りの心は災いを招く鬼である。物を惜しむことは、餓鬼道に堕ちるもとであり、欲深さは慈悲の施しを妨げる敵であることがよくわかった。
 施しを求めてくる者があれば、憐れみの心を起こして、顔色を和らげ、仏法を説き、品物を施すがよい。
「物惜しみの心が強い人は、泥でさえ金や玉より大切にし、慈悲の心が多い人は、金や玉も、草木より軽く施す。乞食の人を見て、施す物がない時は、泣き悲しんで涙を流す。」と言われる由縁である。
  この話は、もともと施こしをすることが嫌いな眞老が、正式な官の許可を受けて得度した官度僧でないことを理由に、仏道を志す沙弥を邪慳(じゃけん)にした罰で死んだというのである。
 この話の生まれた奈良時代頃は、僧尼令(そうにりょう)によって、官の許可を得ないで僧になることを堅く禁じていた。しかし僧になると、課役(かえき・税として租[そ・年貢米]庸[よう・労力を提供する]調[ちょう・布や魚など、土地の特産品を納める])を免除されたので、ひそかに僧となる者が後をたたなかった。この勝手に得度した者を私度僧と呼び、見つかると厳罰に処せられた。
 沙弥は、僧に従って雑用を務めながら修行をしている、具足戒を受けるまでの半俗半僧の人たちのことで、この話に出てくる「自度の沙弥」というのは、師主につかないで自ら、剃髪・出家したものを指す。
 しかし乞食同然の私度僧や自度僧の中にも、真剣に仏道の修業に励み、人助けを志す、隠れた聖(ひじり)も少なくなかった。日本霊異記の著者、景戒も、薬師寺の僧になるまでは沙弥であった。この経歴からか、未公認の私度僧や自度僧といえども、地道な修行をしている人たちをあなどったり、冷たくあしらったりすると、悪い報いを受けるといったような話が霊異記の中にはよく出てくる。

▼静寂な聖地、興福院
 昔は大宮人が行き交ったであろう佐保路に面して建つ「春日野荘」の東横の道を北に進むと、佐保山の麓に、両側に土塀を持つ興福院の落ち着いた門が見えてくる。
 円照寺、法華寺、中宮寺の大和三門跡寺につぐ格式高い尼寺で、ご住職の日野西徳明様は、中宮寺門跡、日野西光尊様のご親戚にあたる。最近まで、信濃の善光寺の副住職も兼ねておられた明朗闊達な方である。現在、浄土宗尼僧の会である吉水会の会長として活躍しておられる。
 この寺の由来には諸説があって、一説には天平勝宝の頃、和気清麻呂が聖武天皇の御学問所を移して弘文院と称したのが始まりだとも言われるが、光明皇后のお兄様の藤原百川が、宝亀元年(七七○)に伏見の里に建立したものを、徳川家光が増築、改修し、四代将軍、家綱の時、佐保山の中腹の現在地に移築されたという説が有力だ。門を入ると、外とは別世界のような静寂の気が漂っていて、訪れる人の衿を正させる。佐保丘陵のやさしい起伏に寄り添うように、石畳と石段がのび、その両側は深々とした濃緑の苔に埋めつくされている。いつかこの寺を訪れた時、塵一つ無く掃き清められた石畳や苔の上に、真っ赤な紅葉が二三葉散っていたのが、思わず息をのむ程の美しさだった。
 ご本尊は天平時代作の阿弥陀三尊像(重文)。美しい彫刻を施された光背の前に、転法輪印(説法印)を結んで坐っておられる阿弥陀様、脇侍の観音様(右)勢至菩薩様は、それぞれ外側になる左右の片足を踏み下げて柔軟な姿勢をとっておられる。木心乾漆の暖かみのある豊麗なお姿である。
 桃山風の華やかなおもむきを残した客殿と庭園は小堀遠州作と伝えられる。桃山時代から江戸時代初めにかけてのお茶人、長闇堂(ちょうあんどう)久保利世ゆかりの長闇堂茶室が、中門を入った東側にある。東大寺俊乗坊御影堂の古材を用いて建てられた茶室をこちらに移し、昭和二年(一九二七)に古図によって復元したという。よくお茶会が開かれる、誠に優雅で清麗な名刹である。

▼聖武天皇と光明皇后の御陵
 奈良の都に、多くの大輪の仏教美術の華を爛漫と開花させ、日本中に国分寺を建てて仏教を人々の心に浸透させられた、聖武天皇と光明皇后は、興福院から約七百メートル程東へ進んだ佐保川のほとりで、仲良く眠っておられる。その名も聖武天皇佐保山南陵、仁正(光明)皇后東陵と呼ばれている。
 佐保路が佐保川を渡る橋のたもとにある低い鉄の門を押して入ると、白い玉砂利を敷き詰めた清楚な参道になっている。真っすぐ北へ進めば正面に天皇の、右の方に皇后の陵がある。
 私の通っていた学校は、この陵のすぐ南、奈良奉行所の跡に建っていた。近いからという訳ではないだろうけれど、五月二日の聖武天皇祭には、全校生徒揃って、この御陵にお参りに来たものだ。
 光明皇后の御歌に
 我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉からまし(万葉集 巻八 一六一五)
 光明皇后が聖武天皇にたてまつられた御歌と伝えられる。
 大正六年に奈良の女高師を卒業された小倉遊亀先生が、百歳の時書かれたこの歌の歌碑が、奈良市に万葉歌碑を建てる会によって、平成七年五月に東大寺の境内に建てられた。お二人力を併せて造営された大仏殿が見える場所に建てられたのは、誠にふさわしいと感激したものだ。お二人は今も仲良く、ここで月雪花の四季の移ろい、変わりゆく奈良の有様を見ておられることだろう。

▼多門町のこと

 御陵と佐保川の間の東北一帯を多門町という。永禄三年(一五六○)、前年から大和に入った松永久秀が「京街道を眼下に見下ろす要地である。」として、佐保丘陵の南東に当るこの地に築城を開始した。
 多数の塔(櫓だろうか)やとりでが建ち並び、白壁の重層の城が建てられた。御殿内は彫刻や壁画、金地で飾られた豪華なものだったようだ。当時、日本に来ていたポルトガルの宣教師ルイス・アルメイダが「世界中に、これ程善美をつくした城はないと思われる。」と本国への報告書に書いたというから、大したものだったのだろう。松永久秀は多聞天を篤く信仰していたので、この城を多聞城と名付けたとも、城の周囲に長屋門をいくつも作ったから多聞城と呼ばれようになったとも伝えられる。この城にちなんで町名も多聞となり、多門町となったのは江戸時代の初めという。久秀は天正元年(一五七五)織田信長に破れ城を明け渡した。翌年、大和は筒井順慶に与えられたが、順慶は多聞城には入らず、この城をこわしはじめた。立派な城だっただけに、破却にも随分年月がかかったそうだ。石垣の石まで筒井城の築城に運んだという。
 今は城跡に、奈良市立若草中学校が建っている。現在の多門町は、もと一条院門跡の土地だったが、江戸時代になって、奈良奉行がおかれるにあたり、奈良奉行所の与力、同心の屋敷町となった。明治維新で奈良奉行が廃止されてからは、高級住宅地となったが、今も江戸時代の与力や同心の屋敷が数軒残っている。
 祖母がよく「昔は多門町へ入る橋を渡って多門の殿様のところへ逃げ込むと、捕手が勝手につかまえに行くことが出来ず、どんな悪いことをした人間でも、殿様が『窮鳥懐に入れば猟師もこれを打たず。』と言って、かくまわれたら、誰も手出しは出来なかったそうや。」と言っていたので、多門の殿様って大変な威力の持主だったんだなあと思ったことがあったが、それは奈良奉行を指すのか、与力を指すのか、まさか松永久秀ほど昔じゃないと思うけれど、今も疑問に思っている。