第69回(2001年01月号掲載
佐保路 その3
―不退寺と在原業平―
◆不退寺 多宝塔
◆不退寺 本堂
 佐保路(一条通り)に奈良市立一条高校がある。この運動場の拡張工事の折、柱跡や溝状の遺構が発見され、緑釉の瓦などが出土したというのも、この辺り一帯に貴族の邸宅が建ち並んでいたことを物語っている。
 日本最初の公開図書館とされる芸亭(うんてい)も、この辺りにあったのではないかと推定される。奈良時代末期の有名な文人の、大納言 石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)は、天応元年(七八一)に、自宅を改造して阿寺(あしゅくじ)とし、寺の南東の隅に書庫を設けて、芸亭と名付け、好学者に自由に閲覧をゆるしたという。
 芸亭の芸は、芸能などにつかわれている芸とは違う意味で、虫よけの成分を含んだ香草のことで、虫害を防ぐために書籍に入れていたので、書籍全般を表す意味で用いられていた。阿寺は、平城京二条にあったと言うから、この辺りには石上家の広大なお邸があったのだろう。国道二十四号線を渡って少し東へ行くと、不退寺に向かう道がある。昔は田んぼの中をまっすぐ北に延びる白い細い道だったので、遠くからでもよくわかったが、今は両側に家が建っているので、一条通りをうっかり車で走っていると見過ごしてしまう。
 しかし、静かな住宅地を二百メートルばかり北に進んで、寺の山門が見える頃になると、急に森厳の気がただよい、学校に通っていた頃よく訪れた不退寺にタイムスリップしたような気分になってくる。鬱蒼とした木立の落ち葉を掃除しておられたご住職に声をかけると、もう夕方だったのに、気持ち良く案内してくださった。
 山門は鎌倉時代(正和六年《一三一七》の銘がある)の建築で、どっしりとした築地塀を左右に控えて、この寺の格式を物語る堂々たるものだ。
 第五十一代、平城天皇(へいぜいてんのう)は桓武天皇の皇子で安殿(あて)親王と呼ばれていた。七八五年、皇太弟 早良(さわら)親王が、藤原種継暗殺に連座したとして、皇位継承を廃されたため皇太子となり、大同元年(八○六)即位して天皇となられた。律令制の官司を大幅に整理し、地方の民情視察のために観察使を創設するなど、積極的に政務を務められた。しかし、憤死された早良親王の怨霊のたたりとされる風病(不良の気に当たってかかったとされる病)にかかって、八○九年、弟の嵯峨天皇に譲位された。平城上皇はなつかしい平城旧都にかえり、療養に努められた結果、すっかり健康を取り戻された。
 その頃、嵯峨天皇は健康をそこなわれ、病気平癒の祈祷が行われたりするようになった。そこで、上皇は愛人の藤原薬子やその兄の藤原仲成などとはかって、重祚(ちょうそ/退位した天皇が再び皇位につく)されようとした。世に言う「薬子の変」である。しかし失敗に終わり、上皇はこの地に萱葺きの殿舎を建てて、詩や和歌を友として隠棲されたので「萱の御所」と呼ばれるようになった。その後、この「萱の御所」には上皇の皇子 阿保(あぼ)親王、又、その子の在原業平(ありわらのなりひら)が住んだ。
 業平は、承和十四年(八四七)、自作の聖観音像を祀り、萱の御所を寺として、不退転法輪寺と称したのが、現在の不退寺のはじまりという。また、別名「業平寺」と呼ばれる由縁でもある。
 山門を入ると左に生垣をめぐらせた庫裏(くり)がある。ご住職が「この奥に石棺がありますから、見てください。」とおっしゃるので庫裏の北側にまわると、立派な石棺が置かれている。業平卿でも入っておられた石棺かと思って驚いたが、この石棺は寺の境内から出土したものでなく、この近くの古墳から出土したものだそうだ。
 この辺は佐紀盾列古墳群に近く、古来から、清浄で閑静な聖地と考えられていたので、古墳も多いのだろう。それにしても、これだけの石棺に納まった方といえば、王侯貴族か高位高官の方であったであろうに、そのご遺体は完全に土に還っておられたのだろうか。秋風がひとしお身にしみる思いだ。
 本堂には、在原業平自作と伝えられる聖観音立像がお祀りされている。桜材の一本造りで、像高一九一・五センチという、堂々とした重量感のある像で、これが貴族の御曹司の作とは信じ難い程、装飾性に富む、美しい観音様だ。眉は遠山のようになだらかで、切れ長な目、鼻筋が通っていて、豊かな唇には朱の色が暖かく残っている。衣文には翔波式の名残のある端正なお姿だ。周囲を平安時代作の五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が護っておられる。いずれも重要文化財に指定されている、力強い像である。向かって左側の別の壇には、業平のお父様の阿保親王の束帯姿の座像が祀られている。
 阿保親王は平城天皇の第一皇子であった。弘仁元年(八一○)、父上皇をめぐって起こった薬子の変によって太宰府に流された。親王十九才の時の出来事で、許されて帰京したのは、十四年後の天長元年(八二四)であった。父、上皇はすでに崩御されていた。

 こうした非運にかかわらず、親王の像は、何ともいえない円満で穏やかな表情をしておられる。やはり、持って生まれた気品というものであろうか。在原業平といえば、今でも女性によくもてる、恰好の良い好男子のことを「業平のような美男だ。」とか「今業平だ。」とか、美男子の代名詞のようにいわれ、自由奔放に生きた幸せな貴公子と思われがちだ。しかし、実際は鬱積した思いを、恋と和歌に託して生きた方のようだ。
 業平(八二五〜八八○)は平城天皇の皇子「阿保親王」の五男として産まれた。お母様は桓武天皇の皇女 伊都内親王。伊都内親王は阿保親王の叔母に当るので、現代の感覚だと叔母と甥が結婚するのは奇異に感じられるが、当時、皇族や貴族の間では珍しいことではなく、当然のことのように考えられていた。むしろ由緒正しき純血性を保つと受け取られていたようだ。
 八二六年、阿保親王の申請によって、その子、仲平、行平、業平などに、在原の姓が下された。業平は五男であったところから、在五と呼ばれたり、権中将となってからは、在五中将とも呼ばれていた。
 業平は六歌仙(在原業平、僧正遍昭、文屋康秀《ぶんやのやすひで》、喜撰法師、小野小町、大伴黒主)の一人としても名高い。古今和歌集の序に、「万葉集」の後、和歌の道は、まったく衰えていたが、その時期に「いにしえの事をも 歌をも知れる人、よむ人多からず。……近き世にその名きこえたる人」として高く評価されている。
 八八七年に即位された宇多天皇の命によって、清和・陽成・光孝の三天皇の御代(八五八〜八八七)の出来事を編纂された史書「三代実録」には、業平のことが次のように記されている。
 「体貌閑麗、放逸不拘にして才学無く、善く倭歌を作る。」(なかなかの美男ではあるが、勝手気ままで、官人として必要な漢詩文の学識を持たず、当時、女性のたしなみであり、恋のやりとりの手段のように思われていた和歌にうつつを抜かしている。)と、きびしい評価を受けている。
 この頃は藤原氏一族が栄華を極めていた時代で、業平は由緒正しい皇室の流れを汲む貴族でありながら、何事も意の如くならなかったのであろう。
 思うこと 云はでぞただに 止みぬべき われにひとしき ひとしなければ
 と、自らを余計者として、思うままにふるまいながらも、世をすねて暮らしたようで、伊達男の女性遍歴も、満たされぬ思いの、はけ口だったかも知れない。
 伊勢物語は、平安前期の和歌を中心とした物語で、在原業平と思われる人物の元服してから死ぬまでが、一代記風に綴られている。物語の作者には諸説があるが、業平らしき男をめぐる、様々な女性との恋が全編に登場する。業平の女性関係は、都にあっては、后妃候補の藤原高子との恋、斎宮へのあこがれ、東下りの折は、その土地の女性と……、ときりが無いが、有名な能楽「井筒」のもととなった、伊勢物語二十三段の概要のみを記す。
 幼い頃から井戸の周りで遊んでいた男の子と女の子が、二人の姿を井戸の水面に映し幼い愛を誓いあい、やがて成人して夫婦となる。面倒を見てもらっていた女の親が亡くなり、生活に困って稼ぎに出かけた男は、河内国高安に好きな女ができて、そこに通いだす。しかし、妻は嫌な顔一つしないで、いつも綺麗にお化粧をして、気持ち良く夫を送りだす。あまりにも嫉妬しないので、さては好きな男でも出来たのかと、うたがった夫は、ある日、河内に行くふりをして庭の植え込みに隠れて様子をうかがっていた。すると、夫を見送った妻は、物思いに沈んで、
  風吹けば 沖つ白波立田山 夜半にや君が ひとり越ゆらん
 と立田山を夜更けに一人越える夫の身をひたすら案じていた。妻の真心に感じ入り、いじらしくなった夫は河内通いをやめた。とは言うものの、河内の女のことも気になるので、夫は、また高安まで出かけ、そっと女の家を覗いてみると、女はしゃもじを持って自ら飯をよそっていた。貴族の女には考えられない、はしたない行為に興ざめした夫は、それ以降ついに、女の家に足を運ばなくなった。
 伝説の井筒は、業平と妻の紀有常(きのありつね)の娘が住んでいた、天理市櫟本(いちのもと)の住居跡に建てられた在原寺跡にある。寺は明治の排仏毀釈の時に廃され、今は業平と阿保親王を祀る在原神社になっている。
 以前、春日野で催された芝能で「井筒」を見たことがある。在原寺へやってきた諸国行脚の僧が、業平夫婦のことを偲んでいると、女が現れて井戸の水を汲み、かたわらの塚に手向けていた。僧が尋ねると、これは業平の塚だという。女は、業平と紀有常の娘の在りし日々を語り、自分がその女であると告げると姿を消した。
 やがて業平の形見の衣裳を身に着けて僧の前に再び姿を現した女は「さながら見えし 昔男の 冠直衣は 女とも見えず 男なりけり 業平の面影 見ればなつかしや」と、井筒に姿を映しては懐かしがっていたが、明け方と共に僧の夢は覚めた。
 月光に映える幽婉な若い女の面(おもて)、豪華な能衣装の直衣(なおし)、まるで王朝時代の夢を見ているようで、能が終わって帰る道すがらも、なんだか雲の上を歩いているような感じがした。
 それにしても、在原神社から高安までは約十里(四○キロ)近くあるだろう。山越えの道は険しく馬で通ったとしても大変なことだ。色男というのも楽じゃないと思う。生前、東奔西走だった業平公も、今は、一名、花の寺とも呼ばれる不退寺で、椿、連翹(れんぎょう)、杜若(かきつばた)、美男かずら、コスモスと、住職の丹精により、四季咲き続く花を見ながら、心やすらかに休んでおられることだろう。