第67回(2000年11月号掲載
佐保路 その2
―海竜王寺と平城山―
◆平城京復元模型
◆海竜王寺 五重の小塔 
北見志保子
【海竜王寺】
 西大寺駅から東へ、平城宮趾を右に眺めながら歩き、突き当たりを右に折れると、右側に海竜王寺がある。奈良時代初期、この地は当時権勢を誇った藤原不比等の大邸宅の東北の隅であった。
 霊亀二年(七一六)、多治比県守(たじひのあがたもり)を押使とし、遣唐大使を大伴山守、副使を藤原宇合(ふじわらのうまかい)とする大規模な遣唐使の一行が任命された。留学僧として玄9、留学生として吉備真備(きびのまきび)や、阿部仲麻呂も同行するという多彩な顔ぶれであった。
 光明子(不比等の三女・後の光明皇后)が、この優秀な逸材達の無事平安を願って、この地に角寺(隅寺)を建て、祈願をこめられたという。しかし、光明子はこの時、御年十六才、皇太子妃になられたばかりの頃のことである。おそらくは、三男の宇合が副使に選ばれたことを喜んだ不比等が、自分の邸の鬼門に寺を建て(災難を防ぐためには鬼門に神仏を祀ると良いと言われる)、一行の海上安全、所願達成の祈願祭を行うのに、光明子も臨席されて、熱意をこめて祈られたのであろう。
 祈りの甲斐あって、無事に唐へ到着した一行は、それぞれ所期の目的に邁進された。殊に玄9は、法相教学の奥義を極め、同じく新知識をたくわえた吉備真備等と共に、在唐十七年の後、次回の遣唐使の帰国に従って帰国の途についた。途中船団は海上で暴風雨に遭遇し、必死に「海竜王経」を読誦していた玄9達や大使を乗せた船だけが、種子島に漂着したそうだ。
 翌年、無事に奈良の都に帰った玄9は、将来した経論五千余巻と仏像等を献上し、読誦して海難をのがれた「海竜王経」は、出発の時、海上安全を祈願した角寺に納められた。以来、四海安穏仏法弘通を願って「海竜王寺」と寺名を改められたという。
 寺封百戸が施入され、一時は光明皇后の写経場の写経場ともなって栄えていたが、永年の間には栄枯盛衰があり、ひとむかし前には、すっかり荒れ果てていたが、今は整備されて、静寂な古刹の風情を漂わせている。
 ご本尊は鎌倉時代の十一面観音菩薩で、知的な美しいお顔をしておられる。あれ程、お寺が傷んでいた時代があったにもかかわらず、保存状態が良くて、お肌の金色も、唇の朱や、髪や天衣の緑青も鮮やかで、写実的な気高いお姿である。
 同じく鎌倉時代作の文殊菩薩は、ややきびしい表情をしておられ、手に持たれた蓮の花の上に経巻が一巻乗っているという珍しい形をしている。知恵を司る菩薩様ということを表しているのだろうか。
 この寺で特に有名なのは、西金堂に納められている五重の小塔(国宝)である。総高四○○センチというから塔としては小さく、模型的な感じがするが、奈良時代には雄大な七重塔が建てられる一方、瓦や斗(ときょう)、柱や垂木等の細部に至るまで、大きな塔と変わりなく造られる小塔も流行ったようだ。元興寺の小塔(国宝)と共に奈良時代の小塔を代表する逸品である。この小塔を納めた西金堂も奈良時代のものということだ。
 森厳な境内にたたずんで、静かに目を閉じると、遥かに藤原家統領屋形のさんざめきが伝わってくるような気がする。そして藤原宇合の長男である広嗣が、時の橘諸兄(もろえ)政権と対立し、大宰少弐に左遷されたのは、玄9と真備のせいであると逆恨みし、二人を除くことを要求して兵をおこし、戦いに敗れ、捕えられて斬られている。数年後、玄9は広嗣の霊にとり殺され、頭や肘をバラバラに奈良の都に撒き散らされ、頭は頭塔に、肘は肘塚に埋められたと、伝説ではなっている。
 また、宇合の八番目の子供の百川(ももかわ)は、自分の娘が夫人となっている山部親王(後の桓武天皇)を皇太子にするため、聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后になった井上皇后と、皇太子であった他戸(おさべ)親王を讒訴して皇后、皇太子位を廃して宇智へ流し死に至らしめたという。そして井上内親王と他戸親王の怨霊によって百川が取り殺されたとして、桓武天皇が御霊神社創建を発願される原因になったと伝えられる。
 王朝文化の華やぎと、権力をめぐる争いの恐ろしさを感じさせてくれるお寺である。

【平城山(ならやま)と大伴家持】
 平城山とは、平城京の北側を、やさしく守護するように連なる、佐紀・佐保一帯のなだらかな山並みの総称で、東は奈良坂から、西は秋篠川のあたりまで続く低い丘陵である。この丘陵地を越えると、泉川(木津川)が流れる山背(やましろ/現在は山城と書く)であった。都に暮す人々にとって、平城山は美しい四季の彩りを楽しみ、季節の移ろいを感じさせる豊かな自然に接することの出来る場所であった。
 自然美を描いた絵巻のような平城山を見はらかす佐保路には、有力貴族達の豪壮な邸が建ち並んで妍を競っていた。大伴家持が住む大伴一族の邸も佐保にあったという。

君に恋ひ いたもすべ無み 平城山の 小松が下に立ち嘆くかも 笠 女郎(巻四―五九三)
 笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った一首である。「あなたが恋しくて、どうするすべもない程、恋しくてたまりません。あなたは、すぐそばに住んでいらっしゃるのに、何故か私には逢ってくださいません。しかたがないので、せめて、あなたの住んでおられるお邸や、お仕事をされている平城宮が見える平城山に登って、小松の下で、あなた恋しさに立ち嘆いています。」身分のある女性が、めったに独り歩きなどしない時代、家持恋しさに、唯一人で平城山に登って泣いていた笠女郎のやるせなさが、惻々と伝わってくる。狹岡神社の境内には「奈良市に万葉歌碑を建てる会」が建てた、この歌の碑が、彼女の切ない乙女心を語りかけている。

朝霧の おほに相見し 人ゆえに 命死ぬべく 恋ひ渡るかも 笠 女郎(巻四―五九九)
 「ほんのちょっとお会いしただけなのに、何故、こんなに死ぬほど好きになってしまったのだろうか」笠女郎は大伴家持に一目惚れしてしまったようだ。万葉集には彼女の歌が二十九首もあり、それがすべて家持に捧げられる恋の歌なのに、家持から彼女への色よい返歌はない。

なかなかに 黙もあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらまくに 大伴 家持(巻四―六一二)
 家持と女郎の家は近かったようだから、家持も女郎の顔位は知っていて、何かの時に気軽に声をかけたのであろう。しかし、

紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる児や誰 作者未詳(巻十二―三一○一)
 のように、名前を聞くだけでもプロポーズになる時代だから、ハンサムな貴公子に声をかけられた女郎は、すっかり恋のとりこになってしまったのであろう。
 「他人のうわさにのぼるのも困るし、あの女は夢中になってつきまとおうとするし、女郎に声などかけなければよかった。どうせ一緒になどなれない人だから。」
 と、あまりに烈しい恋歌が度々贈られてくることを、むしろ迷惑がっていたようだ。

 万葉集におさめられた大伴家持の歌の中で、最初に詠まれた歌は

ふりさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも 大伴 家持(巻六―九九四)
 「ふり仰いで三日月を見ると、ただ一目見た、あの人の三日月型に引いた眉が忘れられない」
 天平五年、家持十六才の時の歌だが、その頃から、天平十八年に越中の国守として赴任して行く時期までが、彼の恋愛遍歴時代と言われている。後に正妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)をはじめ、多くの女性と贈答歌を交わしているのに、死ぬ程恋いこがれていた笠女郎には、一首の返歌も無かったのは、あわれと言うほかない。
 佐保山は墳墓の地でもあった。大伴家持は次のような歌も残している。

佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思い出で 泣かぬ日はなし 大伴 家持(巻三―四七三)
昔こそ 外にも見しか 吾妹子が 奥城と思へば 愛しき佐保山 大伴 家持(巻三―四七四)
 天平十一年(七三九)六月、家持が愛妾を亡くした時の挽歌である。若くして亡くなった妻のなきがらは、佐保山で火葬された。佐保山にかかる霞を見ると、その時のことが思い出されて、妻を思って泣かない日はない。昔は何も思わず見ていたが、吾が妻が眠る山と思えば、佐保山もいとおしく思われる。
 恋いこがれながら、むくわれぬ愛に泣く人、愛されながらはかなく逝った人、愛しい妻に追慕の涙を流す人。爛漫と咲き誇る天平文化の中でも、権力闘争があったり、愛憎があったり、人間模様は複雑だ。平城山の辺りを歩いていると、北見志保子さん(高知県宿毛市出身)作詞の「平城山」の歌がしみじみ思い出される。

人恋うは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ 堪え難かりき

いにしえも 妻に恋いつつ 越えしとう 平城山の路に 涙おとしぬ