第67回(2000年11月号掲載
佐保路 その1
―平城京と佐保山―
◆磐之姫坂上陵
◆歴史の道 日葉酢媛陵付近
◆隆光大僧正の墓
「奈良へ行くのに、近鉄奈良駅まで電車で行ってしまうのはもったいない。西大寺で降りて、平城宮跡を通り、海竜王寺、法華寺へ詣でて、往古に思いを馳せながら、かっての一条大路である佐保路をゆっくり歩いて奈良に至るのが最高だ。」と言った方があった。私はこの言葉にヒントを得て、朝日カルチャーセンターの「なら散策」を、次のようなコースでご案内したことがある。
 近鉄西大寺駅で皆さんをお迎えして、先ず西大寺へ向かう。西大寺は聖武天皇が建立された東大寺に対し、聖武天皇の皇女である称徳天皇の誓願によって、西の大寺として創建された名刹である。創建当時、三十一町もある広大な寺域に、百五十余もの華麗な堂塔伽藍が建っていたと伝えられる。しかし、都が京都に移ったあと、火災や落雷、台風等の度重なる災害によって、見る影もなく衰退していたようだが、鎌倉時代、叡尊上人(興正菩薩)によって復興された。
 衣文の線が流れるように美しい、ご本尊の清涼寺式釈迦如来立像や、荘厳な美しさをたたえる文殊菩薩と四待者の像、他にも数多くの優れた仏像や寺宝があり、大茶盛や光明真言会等の有名な行事があるにかかわらず、しょっちゅう西大寺駅を電車で通過していながら、この寺を訪れたことがある人は以外と少ない。
 謡曲「百万」にもうたわれた西大寺を一人でも多くの方に知って頂きたいとコースに組み入れたのだが、この話を聞いた知人が「朝五時起きをして芦屋から一番電車で西大寺へ行ったら、ちょうど庭掃除をしておられるところで、箒目の清々しい境内に一番のりでお参りしたのが、身の引き締まる気持ち良さだったので、以来、奈良に来るときは一番電車で来ます」と言っておられた。色々な楽しみ方があるものだ。
 次に平城宮跡へ行って、平成十年に復元された朱雀門をくぐる。奈良時代、朱雀門は、天皇や皇族、高位高官の人しか通れない門だったらしいが、そこは平成の有難さだ。広い平城宮跡を歩くと、なんだか大宮人になったような気分になるのが不思議だ。復元された称徳天皇時代の東院庭園では、かつてここで催されたであろう典雅な宮廷行事や素晴らしい美人であったと伝えられる女帝を偲ぶ。東院庭園のすぐ近くにある宇奈多理坐神社(うなたりにいますじんじゃ)で古代に思いを馳せ、細いながらに風情のある径を通って法華寺に至る。
 法華寺は光明皇后のお父様の藤原不比等の邸宅であった所に建てられた格式高い門跡尼寺。
 ご本尊の十一面観世音菩薩は、ガンダーラの名匠、門答師が、蓮池の周りを散策されている光明皇后のお姿を、生身の観世音として、精魂込めて白檀に刻み上げたもの。千二百余年を経た今も匂うような美しさと、神秘的な威厳を備えておられる。尊いご身分でありながら、常に貧しい人達や病める者へのお心くばりから、現在で言う社会福祉事業のさきがけをされた光明皇后が、自ら千人の垢を洗い流すという誓願を建てられ、千人目に来た病人は阿■(あしゅく)如来の化身であったという伝説を物語る「から風呂」。他にも、滝口入道との恋に破れて法華寺で仏道に入ったという「横笛の紙衣の像」、光明皇后のご臨終の枕もとに掛けられたという「阿弥陀浄土書像」と「二十五菩薩来迎図」等々、このお寺には格調の高い気品と、女らしいやさしさ、そこはかない哀愁が漂っている。
 優美なこのお寺をお護りされるのにふさわしい典雅な久我高照門跡様のお話を聞きながら、ご一緒にお茶を頂いて、カルチャーセンターの受講生の方達は大喜びだった。
 平城宮跡資料館を見学して、ついでに、金貨としては日本で最古だと言われる「開基勝宝」の金貨が三十一枚も出土したので、称徳天皇の離宮跡だとか、鋳銭の跡だろうかと言われている西大寺宝ヶ丘近辺を散策して、西大寺へお送りしたら、ちょうど良い一日コースであった。これはほんの一例で、平城京と外京を結ぶ幹線道路であった佐保路の付近には魅力的な観光スポットがたくさんある。

―佐保山のほとり―
 平城宮跡の北に位置する佐紀山は、大和と山背(城)との境になっている丘のような山で、そのふもとに磐之媛坂上陵・神宮皇后池上陵・日葉酸媛狹木之寺間陵・平城天皇楊梅陵・称徳天皇高野陵ほか沢山の古墳がある。古代の人達は肉体は亡びても霊は永遠に生きているとして、清浄で閑静なこの地を聖地としたのであろうか。
 磐之媛(いわのひめ)は、仁徳天皇の皇后で豪族葛城氏の出身であった。(武内宿禰の孫と言われる。)磐之媛皇后は天皇を愛するあまり、古事記にも「じだんだ踏んで猛烈に嫉妬)をした。」という意味のことが書かれている位、やきもち焼だったと伝えられている。
 古代の天皇は、皇后の他に、何人もの妃を持たれることが、ごく普通のことであった。しかし、磐之媛の場合は違っていた。仁徳天皇が「八田皇女(やたのひめみこ)を妃にしたいが。」と相談されても「絶対駄目です。」とニベなく拒否しておられた。ところが、天皇は皇后が留守の間に八田皇女を宮中に迎え入れてしまわれた。潔癖で気の強い磐之媛は「八田皇女と別れてくださらないのなら、私が出ていきます。」と、仁徳天皇の難波高津宮を出で、山城の筒城宮(つつきのみや)へこもってしまわれた。 天皇は何度も帰ってくるように使いを出されたが、皇后は自分以外の妃が寵愛を受けている宮廷へは、帰ろうとされなかった。しかし万葉集には
君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ(巻二―八五)
かくばかり 恋ひつつあらずば 高山の 磐根し枕きて 死なましものを(巻二―八六)
 この二首の歌が示すように、山を越えて、みずから迎えに行こうかしら、それとも待ちに待とうかしら、と思いなやみ、恋い焦がれながらも誇り高く意地っ張りだった皇后は、それを実行することが出来なかった。
ありつつも 君をば待たむ 打ち摩く わが黒髪に、霜の置くまでに (巻二―八七)
 やっぱり迎えに行かないで、おいでになるまで待っていよう。私のこの黒髪に夜の霜が置くまで、表に出て待っていようというのだろうか。白髪になるまででも待とうと言うのだろうか。
 これ程、純粋に一途に恋いこがれながら、皇后は再び仁徳天皇と睦まじく生活することなく、寓居で亡くなられ、平城宮跡の東北にある水上池の北側の御陵で眠っておられる。さすがに気がとがめられた天皇が指示されたのか、生家の葛城氏の財力で造られたのか、二重に濠をめぐらせた前方後円型の大きな陵で、犬養孝先生のお言葉によると「春は馬酔木やあやめが咲き、夏は水草の花が池面を彩り、秋には紅葉、冬には雪と、いつ訪れても風情のあるたたずまいは、仁徳天皇を待つ磐之姫の女性としてのたしなみのように思えます。」とのことだった。御陵は今も、堺市にある仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)の方を向いて、天皇が来られるのを待っておられるのだろうか。自分の気持に素直で皇后、現代だったら聡明で快活な方として、幸福な一生を送られたであろうのにと思うとお気の毒だ。
 池上陵にまつられている神功皇后は仲哀天皇の皇后で応神天皇のお母様。三韓征伐で有名な方である。長命で、成務・仲哀・応神・仁徳朝の大臣を務め、神宮皇后の三韓征伐を助けたとされる武内宿禰が、先に記した磐之媛のお祖父さんというのも面白い。
 日葉酢媛(ひばすひめ)は垂仁天皇の皇后で、それまでは天皇や貴族が死ぬと、側近のものが殉死していたのを、野見宿禰の献案によって、殉死の代りに埴輪(はにわ)を用いるようになった第一号の陵である。
 水上池の西の方には平城天皇楊梅陵がある。平城天皇も波乱に富んだ生涯を送られた天皇だ。天皇は桓武天皇の皇子として七七四年に誕生された。名は安殿(あて)親王。八○六年、皇太弟 早良(さわら)親王が、藤原種継暗殺に連座したとして、淡路へ流される途中憤死されたので、皇太子となられた。即位して平城天皇となり、父桓武天皇の平安京建設や蝦夷征伐討等の大事業による国家財政の破綻を収拾するために政務につとめられた。しかし、在位僅か四年で、早良親王の怨霊のたたりとされる風病に悩み、八○九年、弟の嵯峨天皇に皇位を譲った。
 平城天皇は病気の療養にと、平城旧京に移り、東宮時代から寵愛していた藤原薬子(くすこ)等に囲まれて暮らしておられた。ところが、その頃から嵯峨天皇の健康がすぐれなくなり、八一○年の朝賀はとりやめになり、川原寺や長岡寺で祈祷が行われたり、伊勢大神宮への病気平癒の奉幣が行われたりした。このような状況の中で、健康を回復した上皇は、薬子やその兄の藤原仲成等とはかって、重祚(ちょうそ/退位した天皇が再び皇位につくこと)されようとした。いわゆる「薬子の変」であるが、失敗し、仲成は射殺され、薬子は毒を飲んで自殺した。上皇は落髪出家して草庵(不退寺と伝えられる)を結び、詩文や和歌を友として余生を送られたという。
 また、上皇の皇子、高岳親王も皇太子であったのを辞し、入道して眞如上人となり、平城天皇の楊梅の宮を寺に改めて住まわれたのが超昇寺だという。上人はその後、仏教の奥義を極めるため中国に渡り、さらにインドに行こうとして、途中で虎におそわれて亡くなられたという。一説には、年をとって身体のおとろえからインドまで行けないことをさとられ、虎に身体を与えて、虎の身体の中に入ってでも、インドの地に至ることを願われたとも伝えられる。釈尊の捨身飼虎の話に、ちょっと似ている。
 上皇のもう一人の皇子、阿保親王(あぼしんのう)の御子が、有名な在原業平である。
 こうした古代の歴史や伝説に思いを馳せながら、豊かな自然の中にひっそり静まる御陵巡りが出来るのも、古都ならではの醍醐味であろう。
 しかも、眞如上人が開かれた超昇寺には、まだ余談がある。江戸時代、徳川綱吉の母、桂昌院の信任を得て、江戸に幕府守護の護持院を建て、一方、大和の長谷寺をはじめ、唐招提寺、法隆寺、東大寺等の復興・再建に力を尽くされた傑僧 隆光大僧正が、綱吉の死後、故郷へ帰って余生を送ったのが、この超昇寺だった。
 隆光さんは、慶安二年(一六四九)現在の佐紀町の河辺家次男として生まれられた。十才で唐招提寺に入り、十二才で剃髪して隆光と名のられた。
 興福寺で唯識、法隆寺で倶舎を学び、長谷寺山内六坊のうち、慈心院の住職に抜擢されるほどの学僧であった。貞享三年(一六一六)幕府から将軍祈祷僧、知足院住職を命じられる。将軍綱吉や母の桂昌院にあつく信頼され、元禄八年(一六九五)には大僧正 総録司に任ぜられる。
 隆光といえば、将軍に「生類憐れみ
の令」を進言して世の中を混乱させた悪僧のように言われるが、この令が発令されたのは一六八五年の二月十二日で、その頃隆光さんは長谷寺の塔頭慈心院の住職になったばかりで、江戸へ呼びだされたのは一年一ヶ月後の一六八六年三月二十八日だったという。大和の名刹を復興させてくださった隆光大僧正のぬれ衣を晴らして潔白を証明したいと、奈良のお坊さんの有志が集まって隆光大僧正を顕彰する会をつくって、名誉回復に努力しておられる。
 隆光さんは七十五才で佐紀の超昇寺で亡くなられたが、その超昇寺も明治の排仏毀釈で取り壊され、今はない。西光院の西村住職の話によると、お墓は市立佐紀幼稚園の裏にあり、訪れる人もなく、ひっそりと眠っておられたが、平成五年の六月七日が、ちょうど隆光さんの二百七十回忌に当るというので、その年から毎年有志が集まって墓前祭をしておられるそうだ。