第66回(2000年10月号掲載
五条山(赤膚山) 
―赤膚焼の由来と思出―
古瀬窯
菅原神社
鳴紗山を描いた皿
 昭和の初め頃の奈良町、殊に元興寺近辺はほとんど商家であった。その商家の旦那さんたちは、大体還暦の祝いが済むと、仕事を息子にゆずって、神社やお寺の世話方をしたり、盆栽や小鳥の手入れといった悠々自適の暮らしをする人が多かった。私の祖父なども、春にはそれぞれ自慢の鶯やカナリアを持ち寄って鳴き比べをさせているかと思えば、夏は大輪の朝顔の鉢を店先に並べて、道を行く人たちに見て貰う。秋には丹精こめた菊を公会堂で展示し、冬には万年青(おもと)や、松・梅等の盆栽を楽しむ。そして、同好の人達を訪ねあっては、茶飲み話をするのが日課であった。
 こんな時、しばしば登場するのが赤膚焼の茶器である。
「これ、この間薬師寺へ参った時、赤膚へまわって買って来ましてん。」「良い色してまんな。このまったりした手ざわり、なんとも言えまへんな。」といった会話が取り交わされる。
 でも幼い私は、赤膚と言えば赤い焼物かと思っていた。奈良絵でもついていれば、成程、赤い着物を着てるなと思ったのだろうが、多くの場合、温かみのある白か、淡い青磁色かグレーの釉薬(うわぐすり)がかかっているだけなので、なぜ、赤膚とよばれるのか不思議でならなかった。
「赤膚焼というのは、釉薬によって赤く焼き上げられたものでなく、五条山近辺の赤い陶土を使って焼くため、釉薬のかかっていない素肌の部分(茶碗だったら高台の辺り)に、温かみのある仄かな赤みを指すところから、柳沢尭山(保光)公によって赤膚焼と名付けられた。」と教わったのは、かなり大きくなってからの事である。
 五条山の土が陶土として用いられるようになった歴史は古く、第十一代垂仁天皇の御代にさかのぼる。当時は皇族や貴族が亡くなられると、死者を悼み、死後も身の回りに不自由がないようにと、側近の従者や、あるいは子弟、妃妾等が命を絶って死者に殉じる殉死の風習があった。
 日本書紀によると、垂仁天皇の二十八年に、倭彦命を葬った時、その陵域に近習の人たちが生きたまま埋められたのが、あまりにも悲惨であったので、慈悲深い天皇は、大層御心を痛めておられた。そんな折、垂仁三十二年に皇后日葉酢媛がお亡くなりになった。かねてから天皇のお心を察していた野見宿禰(のみのすくね)は、従来の殉死の風を改めて、土で埴輪(はにわ)を造って、これに代えることを献策した。天皇はこの案を嘉納されたので、野見宿禰は故郷の出雲より土部(はにべ)百人を呼び寄せ、みずから宰領して埴(はに)で、人や馬など、いろいろな形の埴輪を造って天皇に献上し、天皇はこれを日葉酢媛命の陸墓に埋められた。以来、殉死は禁止され、陵墓には埴輪を用いることになった。
 野見宿禰は、その功により鍛地(かたしところ)を賜り、土師職(はじつかさ)に任じられた。これによって、本姓も土師臣(はじのおむ)と改めたという。土師氏は、現在の菅原町に居をかまえ、五条山の埴(質の緻密な黄赤色の粘土)を使って、ここで埴輪を制作していたと伝えられる。それを物語るように、菅原町には野見宿禰と菅原道真をお祀りした菅原神社がある。土師氏は奈良朝の末期、光仁天皇の天應元年(七八一)に、天皇より菅原の姓を賜り、以後、菅原と称したという。

野見宿禰と当麻蹶速(たいまのけはや)
 野見宿禰は多能な人で相撲の祖ともいわれている。
 垂仁天皇の御代、大和の当麻に蹶速という力持ちがいて、天下に並び無き強力士と豪語していた。彼は、その力を誇示する余り、乱暴者と思われていたようだ。
 天皇はこのうわさをお聞きになって、全国にふれを出して蹶速に匹敵する力士を求められたところ、出雲に野見宿禰という力持ちがいると言うので召し出された。垂仁天皇七年七月七日に宿禰と蹶速の御前試合が行われて、野見宿禰が圧勝して、宿禰は宮廷に仕えることになった。これが、古代宮廷の年中行事として、七月七日に行われていた相撲節会の始まりと伝えられている。

 垂仁天皇の御代、瓦などを焼く土は各地で採取されたようだが、この五条山の土だけは土質が良くて優雅な焼き上がりになるとのことで、神器を焼くのに用いられたという。
 室町時代から、この地で風炉が焼かれるようになったのが赤膚焼きの素地になったと思われる。奈良風炉はのちに京都でも焼かれるようになり、茶の湯に適した風炉の形が整えられていった。
 天正二年(一五七四)豊臣秀吉の弟、秀長が、大和大納言として大和郡山の城主となった。秀長の家来には、後に茶道遠州流の祖となった小堀遠州(政一)の父、小堀正次がいた位なので、茶器にも明るかったのであろう。五条山の土の優秀さを知ると、常滑から「与九郎」という陶工を招いて窯を開かせたのが、赤膚焼の起源となっている。神器や奈良風炉を焼いていた五条山一帯の陶工たちも、城主の命によって、御用窯としての技術の向上に邁進出来たのである。
 享保九年(一七二四)郡山藩は、柳沢吉保の子吉里が藩主として転封してきた。五条山の焼物は柳沢藩からも手厚く保護されていたが、まだ正式には赤膚焼と呼ばれていなかったそうである。寛政年間に郡山藩主であった柳沢保光は尭山と号する有名な風流人であった。この尭山公が五条山の焼物に「赤膚山」又は「赤ハタ」の刻印を捺させて「赤膚焼」と命名された。
 古歌に
 衣だに二つありせば 赤膚の  山に一つは 貸さましきものを
 と歌われている程、四百年程前の五条山は赤土が一帯に露出し、盛んに陶土が掘り出されていたようだ。 赤膚焼は@山城宇治の朝日窯/A摂津の古曽部窯/B近江の膳所窯/C小堀遠州を中興とする遠江の志戸呂窯/豊前の上野窯/E筑前の高取窯と共に遠州七窯の一つに数えられている。
 小堀遠州は、古田織部について茶道を究め、将軍家茶道師範と呼ばれる大名茶人であっただけでなく、建築・土木・造園にも造詣が深く、仙洞御所・大坂城本丸・二条城二の丸・江戸城西の丸の普請奉行を務めたり、各地の名刹の造園を手掛けたスーパーマンである。この遠州が若い時、郡山に住んで、赤膚の茶陶を見守っていた訳だ。
 以前、薬師寺さんの大般若経奉納の旅で、小堀遠州から十二代目の小堀宗慶宗匠と、中国へご一緒したことがある。南京・成都・洛陽・竜門・西安・大同・北京と廻って、各地で法要の時、お家元が堂々たるお手前でお献茶された。お家元なんだから当たり前と言えばそれまでだが、さすがに大名で、しかも才気万能だった方のご子息だけのことはあると、感心した。天保年間には、柏屋武兵衛(陶名・木白)という名工があらわれて赤膚に新風を吹き込み、赤膚焼の名を一層高められた。赤膚焼は良き先達に恵まれて、たゆまぬ精進を続け、今日の繁栄をみておられるのは、誠におめでたいことである。
 私も赤膚焼大好き人間なので、その作品や窯元さんたちの思い出は限りなくあるが、その二、三を綴ってみよう。
 昭和三十三年(一九五八)十一月、皇太子殿下(現天皇)と正田美智子様のご婚約が発表されて、国中が奉祝気分にわきたった。戦中戦後の混乱から、やっと立ち直って力強く歩み始めようとしている時、開かれた皇室として民間からお妃をお迎えになるというニュースは、前途の明るさを約束されたように人々の心を和ませ喜ばせた。
 当時、美智子様のお父様は日清製粉株式会社の社長をされていたので、日清製粉の特約店をしている関係で、主人も時々お目にかかったこともあり、こんな素晴らしいご婚約に何かお慶びのしるしだけでも差し上げたいと思った。しかし、ご婚約先が先だけに品物を選ぶのがむつかしい。そこで、奈良の特産の赤膚焼をと思って、先代の大塩正人先生(七代目)を訪ねた。
 正人先生が「ちょうど良い物がある。」と言って出して来られたのが「土あわせの茶碗」だった。「赤膚の土と、まったく性質の違う土を練り合わせて焼くと、含有成分の違いから焼き上がりの色が異なって、墨流しのような面白い、雅味のある模様が出来ると思って何度も試みたのだが、土の収縮率が違うのでヒビが入ったりしてうまくゆかず、さんざん苦労して出来上がった第一号の作品だ。」とおっしゃった。皇室の土と民間の土とが和合して新しい美しさをかもし出すというのは良い発想だと思って、早速わけて頂いた。正人先生は「土あわせ和合茶碗」と達筆で箱書をしてくださった。さあ、これをどうしてお届けしようかな、と思っていると、丁度その時、私共が経営する奈良自動車学校へ、正田家のご親戚で、若い頃、義宮様のご養育係をしておられた方が教習に来ておられて「正田様にお祝いに行くので、三日間休ませてほしい」と、欠席届を出しに来られた。これぞ幸便と思って、お祝い状を添えて持って行って頂いたのは忘れ難い思い出だ。
 それからしばらくして、尾西楽斎先生が自動車学校に入校された。教習が終わって雑談している時、「知事さんが皇太子殿下のご成婚のお祝いに、私が焼いた白雪茶碗を持っていかれた。」という話が出た。私が、美智子様に正人先生の土あわせの茶碗をお届けした話をすると「丁度良い対になりましたなあ。」と喜んで、次に来られた時、同じ形だというお茶碗を持って来てくださった。本当に白雪がふんわり積もったように、たっぷり釉薬のかかった、温かな和みを感じさせるお茶碗だった。
 白といえば、古瀬尭三先生が焼かれる白い汲み出し茶碗や銘々皿も大好きだ。私が初めて赤膚山へ行ったのは、お茶の先生に連れられて古瀬窯を訪れた時だった。先代の尭三先生から「土濾し」から「菊ひねり」「ロクロ」「登り窯」を見学させて頂いて、赤膚焼のイロハを教わった。帰りには鈴虫や松虫が草の間から涼やかな声を聞かせてくれて、これも五条山の魅力だなと思った。仕事に疲れた時、赤膚焼の滑らかで柔らか味のあるお茶碗を掌にのせて、内から伝わって来るお茶の温みを受け止めながらゆっくりと飲むと、疲れが抜けていくような感じがする。
 以前、法華寺門跡の久我高照様がインドに行かれた時、尼蓮禅河の砂を持ち帰り、それを信楽の土と混ぜて、菩提樹の葉を型押しした銘々皿を焼かれた。帰国記念のお茶会の時、各自がお菓子を頂いたその銘々皿を記念に頂戴した。良いアイディアだなと感心して、私も敦煌に行った時、鳴沙山の砂を持って帰った。
 正人先生に、これを赤膚の土に混ぜて、大きな飾り皿を焼いてほしいとお願いした。先生は「信楽の土なら、少し砂が混ざっていても、それが却って野趣を増して面白いが、赤膚は何度も土濾しをして、砂が一粒も混ざらないようにしている。その土に砂を混ぜるのはしのびないから駄目だ。」と断られた。私がどうしても、とお願いしたら「それでは鳴沙山の写真を持っていらっしゃい。」と言われた。大皿に鳴沙山の景色を描き、山の部分にその砂を叩き込んでから焼くことにされたのだ。「しかし、砂と土とでは収縮率が違うし、まして、そんな遠いところの砂と赤膚の土とでは相性が悪くて割れてしまう公算が大きいな。」と言いながらも引き受けてくださった。案の定、せっかく製作された皿は、素焼きの段階で何度も割れてしまい、その都度砂を丁寧にこそげ落としては、又製作にかかられた。
「又、駄目だった。」と電話がかかって来たので行って見ると、こそげ落とした砂の入ったビニール袋に「重要」と赤字で書いて置いてあって、砂を落した山と空の間にくっきり割れ目の出た素焼きの皿が側に置かれている。「砂は残さずみんな取ってあるやろ。」と確認してからその皿をこわされる。「この砂、どなたがこそげ落されるのですか。」と聞くと「そりゃわしやがな。弟子にやらせて、もし誤ってこぼした時、その辺の砂を混ぜてカサを増やしたりされたとしてみなさい。何百年もたってから何かの拍子に、これは本当に敦煌の砂かどうか調査されて『なんや、赤膚の砂やないか』ということになったら、死んでからでも恥をかくのはわしや。敦煌鳴沙山の砂として預かったからには、責任は私にある。」とおっしゃった。どんな小さなこともゆるがせにしない陶工魂にふれた思いで粛然とした。そんなことが何度もあって、気の毒になって辞退しようかと思った頃、遂に焼き上げてくださった。
 先生が八十歳を越えてから、手ひねりで大きな辰砂の壺を焼き上げられた。「もう私の体力では、こんなものをひねることはむつかしいから、最後の大作やと思ってるねん。」と言って大切にしておられた。それが、亡くなられる少し前に「わしが死んでも家族中の人がわしの顔を知っていてくれる人の家に置いて貰いたいから、お宅で引き取ってくれないか。」と言って持って来られた。
 今、家の座敷には、鳴沙山の皿と、その辰砂の壺が並べて置かれてある。それを見る度に、近所がいくら開発されても、不思議と、大名窯であった頃の古き良き時代の面影を残す赤膚山のたたずまいや、各窯元のお顔やお声が浮かんでくる。
 奈良の発展のために、ますます良い作品を作ってくださるよう祈っている。