第65回(2000年09月号掲載
唐招提寺 その3 
「うちわまき」と「開山忌」
 金堂と講堂との中間の東寄りに建っている鼓楼は、毎年五月十九日、楼上から可愛いハート型の団扇を参詣者に振るまう「うちわまき」の行事で有名である。名刹唐招提寺も、平安時代後期頃からは寺勢が衰徴し、荒れ果てていた。その堂塔伽藍を復興整備し、鑑真和上の遺徳を高揚して、中興の祖と仰がれているのは、鎌倉時代の傑僧、覚盛様(かくじょう 一一九四〜一二四九)である。

◆梵網会(うちわまき)
 その覚盛様が、夏、僧院で修行をしておられると、山内の薮蚊が集まってきて、この高僧を刺そうとした。弟子達が、その蚊を追い払おうとすると、師はそれを制して「蚊に血を与えるのも布施行だ。」とおっしゃったそうだ。常人だったら、チクリと刺された途端、本能的にそこに手が行き、ピシャリと叩いてしまうところを、追い払って殺生しないだけでも、さすがお坊さんだなと思うだろう。覚盛様が、刺された後の執ような痒さを覚悟の上で、血を与えるのも布施と言われたのは、素晴らしいと思う。お釈迦様が、仏教史上最初の僧坊である竹林精舎落慶の時、「随喜善」(良い事をするのは徳を積むことであるが、人の善行を見て、その善事に喜び従うことも、徳積みである。)と、無財の七施について説かれたという。
 1.心慮施(心配りをしてあげる)2.捨身施(献身的に尽くしてあげる)3.和顔施(笑顔で接する)4.愛語施(やさしい言葉をかける)5.慈眼施(いつくしみのあるまなざしで見る)6.坐布施(席をゆずって坐らせてあげる)7.房舎施(泊まらせてあげる)以上、お金はなくても、誰にでもできるお布施であるが、言うは易く、行うは難いことだが、やっぱり、さすがだなと思う。
 覚盛師は、建長元年(一二四九)五月十九日、五十七歳で入寂された。師の受戒の弟子であった法華寺の尼僧達が、せめて師匠の霊前に、蚊を払う団扇をお供えしたいと、可憐なハート形の団扇を心をこめて手作りしてお供えしたのが「うちわまき」の始まりと言われる。今は、山内の人達が、何百本も手作りした団扇を、梵網会の日、講堂にお供えして、法要の後、鼓楼の上から、群がって待っている参詣者の頭上に撒かれる賑やかで華麗な行事である。この団扇は、家内安全、無病息災、農家では苗代の虫除けに霊験があるとして、舞い落ちた団扇を手にした参詣者は大喜びで大切に持帰られる。
 「うちわまき」で有名な鼓楼は、元は覚盛上人が一二四○年に舎利殿として再建されたもので、江戸時代に鼓楼と改名されたが、今も正式には舎利殿である。この殿堂の厨子内には、鑑真和上が来日の時に将来された仏舎利三千粒が大切にお祀りされている。仏舎利は、白瑠璃舎利壺に納められ、亀形台座の上に立つ多宝塔形の舎利容器に安置されているそうだ。私はこの金亀舎利塔は写真でしか拝んだことはないが、亀の背の蓮台にに乗った多宝塔は、精巧な透し彫りをほどこした、荘厳華麗なものである。
 この金の亀には面白いというか、ありがたい伝説がある。鑑真和上が日本を目指して航海中のある日、突然海が大荒れに荒れだし、山のような大波の間から大海蛇が出てきて、和上が大切に捧持する舎利瓶を奪い取ってしまった。これは恐らく龍神のしわざに違いないと思った和上が、一心不乱に龍神にお祈りされると、風波は次第に納まって、燦然と輝く金色の亀が現れた。亀の背には舎利瓶が大切に捧じられていた。
 その金の亀は、ほどなく老翁の姿に変わって「我は輪蓋(りんがい)龍王である。釈尊の滅後、常に舎利を護ってきた。和上はやがて日本に渡って寺を創めるであろうが、その境内に龍王が現れて、舎利と寺域を護るであろう。」と託宣されたという。金亀舎利塔は、この伝説に基づいて、我が国において製作された、日本金工美術史上の傑作だと言われている。こうして将来されたお舎利は、一粒も散失しないよう、歴代の天皇の勅封を受け、唐招提寺の精神的な中核として大切にお祀りされている。
 中興の祖、覚盛様は、そのご功績により、寂後八十一年の元徳二年(一三三○)後醍醐天皇から「大悲菩薩」の号の追贈を受けられた。
 中興の祖といえば、唐招提寺第八十一世長老、森本孝順大僧正も、まさに中興の師だと思う。森本長老様は、明治三十五年、磯城郡多村で生まれ、大正四年三月、唐招提寺で得度され、北川智(ちかい)第八十世長老を師匠として修行に励まれた。
 薬師寺の高田好胤師の誄(しのびこと)によると「それこそ、爪に火をとぼし、生爪を剥ぐが如くに、坪一坪と境内地を取り戻しては木を植え続けられた。御先代北川智長老さま御遷化の後、昭和二十一年六月五日、建初律寺長老に晋山遊ばされました。」とある。明治の廃仏毀釈以来、修理も思うにまかせず、大正末期から昭和初頭の大不況、相次ぐ戦争、農地解放と、一般社会も生きていくのに精一杯の時代だったから、さすがの名刹も、いたみ放題の時期に長老に就任された訳だ。 その後の長老様のご活躍はめざましく、経蔵・宝蔵の解体修理、南大門復興、御影堂の移築、新宝蔵建設、講堂解体修理、戒壇・宝塔安置と、伽藍復興、仏像の保存修理に努められた。昭和五十二年パリに於ける唐招提寺展では、国宝鑑真和上像はじめ、寺宝の名品を出展して、我が国の仏教美術をヨーロッパに紹介し、日本文化理解の促進に寄与された。さらに五十五年には、鑑真大和上生誕の地である中国へ、鑑真和上像の里帰りを実現されて、日中友好の礎を築かれた。宗教を認めていなかった新中国では、それまで迷信扱いされていた仏教が、正式に認められるようになって、中国仏教会復活の原動力となったということである。
 しかも長老様の八面六臂ぶりは、公的な活動のみにとどまらず、誠にキメ細いものであった。長老様は大本山唐招提寺のお仕事をされるかたわら、昭和十五年には、五條市にある律宗講御堂寺の住職に就任しておられる。以来、講御堂を自坊とし唐招提寺の長老になられてからも、ずっと五條から通っておられた。それも専用の自動車は使わず、電車やバスを利用されていたそうだ。講御堂は檀家のあるお寺であるから、檀家詣りもしておられたという。晩年、腰を痛められてからも、杖をついて檀家の月詣りを欠かされなかったとのことだから、その超人ぶりには舌を巻くほかない。
 森本長老様は、平成七年六月十九日、九十四歳で遷化された。余談ではあるが、その頃「奈良市に万葉歌碑を建てる会」では、飛鳥建設の佐野社長に万葉歌碑の建設を依頼していた。ところが、なかなか仕事がはかどらず、除幕式の日が決まらないので、佐野さんに問い合わせたところ「森本長老様がご病気なので、長老の横で寝食を共にさせて頂いて、お世話しております。仕事は長老様が快方に向かわれたらやらせていただきます。」とのことであった。お出入りの石屋さんに、これ程慕われるのも長老のお人柄だし「そうだったら仕方がないな。」と、会の皆が納得するのも、さすがに奈良だなぁと思った。

◆開山忌舎利会(鑑真和上像開扉)
 開山の鑑真和上御忌(ぎょき)法要は六月五日・六日、講堂と御影堂で行われる。和上の亡くなられたのは、旧暦の五月六日だったので、太陽暦になってからは、一月遅れの六月六日とし、その逮夜(たいや)の五日から法要が始まる。
 御影堂では、鑑真和上坐像のお厨子が、五、六、七の三日間開扉されて、お参りすることができる。
 御影堂は、もと興福寺別当一乗院の宸殿が奈良地方裁判所に転用されていたものを、長老様が譲り受けられた。かなり荒れ果てていたが、慶安三年再建当時の姿に復元移築して、昭和三十八年三月、御影堂となったもので、貴族の邸宅らしい格調高い面影がある。それまでは「若葉して おん目の雫 拭はばや」の芭蕉句碑の近くにある旧開山堂にお祀りされていた鑑真和上坐像は、御影堂宸殿に安座されている。
 お座所の周囲には、東山魁夷画伯の筆になる障壁画「山雲」、「涛声」、「暁雲」などが奉納されており、おだやかな表情で瞑目した和上の像は、故国と日本の間に横たわる海の涛声に耳を傾けたり、故郷の薫風や霧、山の霊気を肌に感じておられるような気がする。
 「東征伝」によると、天平宝字七年(七六三)春、弟子の忍基が講堂の梁が折れる夢を見て、これは和上遷化の予兆であるとし、急いで弟子達によって、この肖像を造ったと伝えられる。在世中に製作された肖像のことを「寿像」と言うが、この和上像は我が国最古の「寿像」である。在世中のお姿を写しただけに、生けるが如きお姿をしておられる。
 開山忌にお参りしても、焼香の順番を待つのが大変で、香烟の立ちのぼる中から、どっしりとしたお姿と、包容力の豊かそうな慈顔を拝むのが精一杯だったが、平成十年の春、奈良国立博物館の特別展「天平」で、ゆっくり和上の像を前からも後ろからもおがませて頂いた。がっしりとした肩や胸は、七十七歳であったというお年を感じさせないたくましさで、この方ならこそ、幾多の困難を乗り越えて、当時の中国から見れば夷狄(いてき)の地だと思われていたであろう日本に渡り、我が国の仏教界に律の教えを伝えてくださったのだなと改めて感謝の意を捧げた。度重なる辛苦の旅の結果失明されたというが、閉じた目の辺りには、少しの暗さやかげりもなく、口もとには、かすかな笑みをたたえておられる。和上は生きながらにして菩薩の境地に入っておられたのであろう。和上のお像も「たまには厨子から出て、こうして姿をおがませてやるのも功徳だ。」と思っておられるのかも知れない。
 御影堂の宸殿南庭には、老木の「右近の橘」と「左近の紅梅」がある。私達は、つい「左近の桜」じゃないのと思ってしまうが、これは「左近の桜」以前の古式のもので、この様式は、この御影堂と、京都嵯峨の大覚寺宸殿の南庭位だということだ。
 なにしろ古式ゆかしきお寺である。