第64回(2000年08月号掲載)
唐招提寺 その2
天平の甍(いらか)
 唐招提寺へは、中国、王義之風の見事な文字で「唐招提寺」と刻まれた、孝謙天皇勅額の複製が掲げられた南大門から入る。この南大門から望む唐招提寺の景観は、まさに圧巻である。
 緑したたる松林の間を、まっすぐに延びる白砂を敷き詰めた広い道の正面に、重量感のある金堂が堂々と建っている。
 桁行(けたゆき/桁の通っている方向の長さ。この場合、正面間口)七間、梁行(奥行)四間の単層寄棟造りの金堂は、鑑真和上入寂後、弟子如宝師によって、宝亀七年(七七六)頃から建設を創められた正真正銘の天平建築である。
 奈良だから天平の建物が沢山残っていて、あたりまえだと思われる方もあるだろうけれど、治承四年(一一八○年)の平氏による南都焼打や、松永久秀と三好三人衆の争いで一五六七年に炎上した大仏殿、土一揆や落雷による出火などでの焼失、地震による倒壊、加えて明治の廃仏毀釈の破壊運動などにより、オリジナルの天平建築は意外と少ない。
 唐招提寺には、その天平建築が、金堂、講堂、宝蔵、経堂など寄り添うように遺っていて、往古の夢を語りかけてくれる。門を入って先ず目に付くのは、金堂の大棟の左右で、おおらかに天にむかって跳ね返っている鴟尾(しび)である。二つの鴟尾のうち、向かって左側(西)の鴟尾は、この堂が創建されて以来、千二百余年の雨露風雪に耐えてきた「天平の甍」である。右側(東)のものは、鎌倉時代の大修理の時復元されたもので、元亨三年(一三二三)六月に補作した旨の銘文があるそうだ。
 井上靖先生が、日本の仏教史上に大きな足跡を遺した鑑真和上という唐の高僧の姿を、日本からの遣唐僧の目を通して書かれた「天平の甍」という題名も、天空にそびえ立つような鑑真様のご偉業もさることながら、先生がここへ立って鴟尾を眺められた時の息をのむような感動から、名付けられたのではないかと思うのは、私の偏見だろうか。
 さらに目をひくのは、正面の八本の堂々とした丸柱である。一間通りは、壁や扉を付けず、吹き放ちにしてあるのが、堂に一層の幽雅さを加えている。円柱はかすかなエンタシス(ふくらみ)を持っている。そして七つの柱間は、一見気がつかない程度に、正面が一番広く(十五尺)、左右に広がるにつれて、十四尺、十三尺と狭くなっている。この行き届いた配慮による設計が、この大建築を正面から見た時、しっかりとした安定感をもたらしてくれる。エンタシスというと、すぐギリシャのパルテノン神殿を連想する。以前ギリシャへ行った時、パルテノン神殿は、すべての柱をわずかに内側に傾斜させることによって、視覚的な安定感を得ていると聞いた。この柱間を少しづつ変えて、離れた所から見た場合のバランスを保つという考え方に、似たものがあるように思う。
 ギリシャの神殿建築の技法が伝わったかどうかは分からないが、紀元前六世紀頃に、ギリシャ彫刻によく用いられたアルカイック・スマイルに似た微笑が、飛鳥時代の仏像、法隆寺の百済観音や救世観音、中宮寺や広隆寺の弥勒菩薩に見られることを考え併せると、あるいはギリシャ文化の流れがあるのかも知れない。
 唐招提寺では、毎年仲秋名月の夜、観月讃仏会が催される。金堂の仏様方にもにも観月を楽しんでいただこうと、扉を開け放ち、仏様達もライトアップされる。萩の花が咲き誇るお庭から拝する諸仏は、昼間よりひときわ神々しく崇高に感じられる。
 大屋根を仰ぐと、天平の甍が月光に輝き、まるで天平の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。境内にたっている、会津八一先生の歌碑に刻まれた、
おおてらの まろきはしらのつきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ
の歌を彷彿させる光景である。
 金堂のご本尊は、三千大千世界を照らし、みそなわす盧舎那仏で、須弥山の中央に鎮座しておられる。三千大千世界とは、須弥壇を中心に、日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界とし、それを千個合わせたものを小千世界、それを千個合わせたものを中千世界、さらにそれを千個合わせたものを大千世界とする。小・中・大と千が三つ重なるので、三千大千世界というのだそうだ。
 まさに大宇宙を法の光で照らし出す太陽神だ。このような広大無辺の仏教世界の中心となる教主の姿を形に表したのが盧舎那仏だという。二六○○年も前に、大宇宙を考えておられたお釈迦様は、やっぱりスゴイなあと思う。
 ご即位以来、飢饉、天然痘の大流行、大地震、最愛の皇太子の夭折、藤原広嗣の乱と、次々に襲いかかる災難に遭遇された聖武天皇が、華厳経や梵網経に説かれた盧舎那仏を建立して、その広大なご慈悲で国家安泰、国民豊楽を願われたのも、もっともだと思われるおかげさまで奈良には、東大寺の大仏様、当金堂のご本尊と、大きな盧舎那仏が東西にいらっしゃるので、盧舎那仏というお名前には馴染みが深いが、日本でも盧舎那仏をお祀りしているお寺は少ないようだ。
 ご本尊、盧舎那仏は脱活乾漆造りで、像高三○四・五センチ。高さ二メートル余りの八重蓮華座の上に、ゆったりと結跏趺坐(けっかふざ)しておられる。丈六仏にふさわしく、五メートルを超す二重円相の光背には、千体の釈迦像を配した壮大なものである。
 天平美人のように、ふっくらとした豊満なお顔と、太く短い頸からがっしりとした肩につながる体型には安定感があって、見るからに頼もしい、気魄のこもった厳粛な表情は、参詣者に衿を正さしめるものがある。
 本尊に向かって右には、木心乾漆造りの薬師如来が六重蓮華座の上に立っておられる。後世の薬師如来のように、薬壺は持っておられず、右手は臂をまげて掌を前に見せ、人々の心から畏怖の念を取り除き安心を与える施無畏印を結び、左手は下ろして、慈しみを与える与願印を結んでおられる。昭和四十七年にこの像の修理が行われた時、左掌の丸いくぼみから三枚の古銭が発見された。和銅元年(七○八)より発行された和同開珎、天平宝字四年(七六○)より発行された万年通宝、延暦十五年(七九六)に鋳造された隆平永宝の三種で、三枚崩れることなく重ねて埋め込まれていたそうだ。
 延暦十五年といえば、平安遷都後二年、桓武天皇の時代で、平安初期になるが、七五九年に始まったこの寺の造営は、着々と進められていたのであろう。向かって左には、これも木心乾漆のお身丈五三五・七センチの、文字通り丈六の千手観音菩薩が立っておられる。千手観音は千手千眼観自在菩薩とも言い、千の手には一つづつ目があって、悲しんだり苦しんだりしている人々を見つけては、慈悲深い救いの手を差し伸べて下さるという。千という数字は無限の数を表しているそうだ。 千手観音は、普通一本の手が二十五本の役割を果たすとして、四十二臂又は四十臂で造られている場合が多いが、この像は四十二臂の正大手と、九百十一臂の小脇手が複雑に組み合わせられている。当初は文字通り千臂であったのが、いつの間にか失われて、現在は九百五十三本になっているようだ。千本近くの手が、大観音のまわりに、放射線状に広がっているのは、まるで翼を広げているように見える。おそらく、日本の千手観音としては、最古、最大のものであろう。
 とにかく、ここにお祀りされている仏様は、経文のお教えに忠実に従って、盧舎那仏の光背には千体のお釈迦様を配し、千手観音には千本の手を付けて造形されたようだ。しかし、盧舎那仏の脇侍に薬師如来と千手観音を配する形は、経典にも見当たらないので、おそらく、個々に独立した意義内容を持って制作されたものと考えられるが、真相は謎に包まれている。
 また、護法神として、本尊の手前左右に等身大の梵天、帝釈天、檀上四面に四天王がお祀りされている。いずれも木造・乾漆併用で八世紀の作、それぞれ国宝に指定された立派な像である。一八八センチ位というから、やや大柄な等身大なのだけれど、丈六の仏様のまわりに立たれると小さく感じられる。それが又絶妙のバランスで、拝する人の心を、仏様の世界へと導いて下さるようだ。
 金堂のすぐ北側に講堂がある。講堂は金堂よりさらに大きく、桁行九間、梁間四間、単層入母屋造りの天平建築である。もと平城京の東朝集殿だったものを、鑑真和上がこの寺を創建されるにあたって、朝廷から賜って講堂とされたもの。天平時代の宮廷建築を残す唯一の貴重なものであるが、鎌倉時代の大修理の時に、組物や扉などを、鎌倉様式に改められたので、外観が中世建築っぽくなったのが残念だと、前長老様がおっしゃっていた。
 講堂のご本尊は、創建当初は、鑑真和上と共に来日した軍法力の作であったと伝えられるが、今は、鎌倉時代作の木造弥勒如来坐像で、同じく木造の持国天と増長天が左右を護っておられる。弥勒様は菩薩として造られることが多いが、釈迦入滅後、五十六億七千万年の後に、如来としてこの世に下降し、釈迦に代って衆生を済度して下さるとして、末世的な不安から、平安後期から鎌倉時代にかけて盛んとなった弥勒待望の思いをこめて、如来として彫られたものであろう。光背には、迦陵頻伽や飛天が透かし彫りになっていて美しい。
 講堂は、仏典の講義を行い、寺僧がそれを聴聞した堂である。ご本尊の前の左右に、講師台、読師台が設けられている。講師が学僧の代表である読師に口頭で講義し、質問して、読師がそれに答える、論議、問答の形式で進められていた。講師も読師も高い台の上に座が設けてあったので、現在も寄席で「高座にのぼる」というのは、ここからきているそうだ。
 講師台も読師台も畳半畳敷であったところから、他人の言動に対して、やじったりすることを「半畳を入れる」と言う語源になったという。なにしろ私たちが日常なにげなく使っている言葉の中にも、仏教用語を語源としているものが少なくないようだ。それだけ知らず知らずのうちに、神仏の慈悲に護られ、冥加を頂いている証(あかし)だろうか。