第63回(2000年07月号掲載)
唐招提寺 その3 
開基 鑑真大和上
 薬師寺の北門を出て、鄙びた風情が残る、緑の美しい道を北に歩くと、間もなく唐招提寺の南大門に到着する。昭和三十年代前半までは、創建当初の南大門の礎石の上に、江戸様式の高麗門が建っていたが、開創千二百年の記念事業として、昭和三十五年四月に竣工したのがこの門で、高野山の桧を使って、忠実に天平の様式に基づいて再建されたものだという。門の正面に掲っている門額は、宝蔵に保管されている、孝謙天皇の勅額を模刻したもので、この寺の格式の高さを物語っている。
 唐招提寺は、その名が示す通り、唐から招聘された鑑真和上が、天平宝字三年(七五九)八月三日に創建されたお寺である。鑑真和上は、唐の則天武后の時代、垂拱四年(六八八、我国では持統天皇の二年)に、中国の揚州(現在の江蘓省江陽県)で生まれた。ここで則天武后の時代と明記するのは、後に武后を真似て、中宗の皇后、韋后が政治の実権を握ろうとして混乱を招いたので、後世まで「武韋の禍」として語りつがれ非難されて、希代の悪女の一人とされているが、武后にも長所が一つあった。仏教に深く帰依し、仏教の振興を図られたことである。
 武后は、幼い頃から美貌の誉れ高く、十四歳の時、太后の後宮に入られた。太宗の死後、尼となって感業寺に入ったが、六五三年、太宗の息子の高宗に見そめられて、その後宮に入って高宗の寵愛を受けた。
それまで高宗の寵を競っていた皇后王氏と蕭妃を失脚させて、六五五年に皇后となった。ここまでの経歴でも相当なものだが、親子二代の寵をほしいままにした位だから、絶世の美人で、しかも人の心をつかむのに敏で、利口な人であったようだ。これだけだったら、権力者の愛欲のために数奇な運命をたどった女性とも言えるのだろうけれど、その後、権力に執着して、中宗や睿宗を廃したり、反対する貴族達を殺して自ら帝位につき、聖神皇帝と称し、国号まで周と改める等、横暴を極めた。
長い中国史上で、女で皇帝となったのは彼女だけである。権謀術策をめぐらせて権力を手に入れた武后であったが、さすがに気がとがめたのか、仏教を篤く信仰し、保護した。
 当時、中国社会全般に広く盛り上がってきた仏教ムードを巧みに利用して、武后の即位が仏の意志によるものであると宣伝するためであるとも言われるが、則天皇帝(武后)は、首都を洛陽に移して、首都をはじめ、全国諸州に大雲寺を設けた。日本でも全国に国分寺が設立されたのは、この大雲寺にならったものだと言われている。
 当時首都であった洛陽の郊外(南方12km)にある竜門の石窟には、北魏から唐の玄宗の時代に至る二百五十年余にわたって彫られたおびただしい数の石窟や仏像がある。その中で、唐の高宗の勅令によって六七二〜六七五年に造られたという奉先寺の本尊の盧舎那仏は、則天武后をモデルにしたと伝えられる。遠山のような眉、切れ長の目、すっきり通った鼻筋、ふっくらしながらきりっとした唇、唐美人らしいふくよかなお顔の輪郭、優美ななかにあたりを払う威厳。本当に美しい大仏様である。この大仏様のお膝下に法筵をのべ、高田好胤薬師寺前管長を大導師としての法要に参加したことがある。この美しいお顔を仰ぎながら読経していると、武后もそれ程、悪い人でもなかったのに、側近の讒許に押し流されて猜疑心ばかりが強まり、権力の座にしがみついていた孤独な女性ではなかったのかとすら思えてきた。武后は、自分の皇子を玄奘三蔵の弟子にしたそうだが、ご本尊の左の阿難様のお姿は、三蔵様を連想させるものがある。
 一説には、聖武天皇は帰国した遣唐使から盧舎那仏の話を聞かれて、国家安泰、万民豊楽のために、我国にも大仏を建立することを発願されたとも伝えられる。
 鑑真和上はこうした時代に生をうけ、十四歳の時、父が帰依する大雲寺に詣でて感激し、同寺の智満禅師のもとで出家した。中国の南山律宗の開祖道宜の高弟、道岸より菩薩戒を、長安の実察寺で、弘景から具足戒を受けて比丘となった。その後、諸宗を学び、各地で戒律の講議や授戒を行い、古寺の修理や、一切経の写経を行うなど、諸州屈指の伝戒師として信望があつかった。唐の国では、登壇受戒して、具足戒を受けなければ僧尼とは認められず、受戒は出家として出発する重要な門であった。
 一方日本では平城京遷都以来、仏教の隆盛にともなって、僧尼令に違反する僧尼や、許可を得ず勝手に僧尼となる私度僧が続出するようになって、政府としても唐の受戒制度や戒律の必要性を痛感するようになった。
 そこで、聖武天皇からしかるべき受戒の導師を中国から招聘するよう勅命を帯びた、大安寺の栄叡師と興福寺の普照師は、天平五年(七三三)四月三日遣唐使の官船に便乗して難波津から船出した。両師は十年近く伝戒の師を各地に探し求めたあげく、ようやく揚州の大明寺で鑑真和上にお目にかかることが出来た。
 和上はその時、五十五歳になっておられたが、栄叡、普照の懇願を聞き入れて、仏縁の深い日本に渡ることを決意して下さった。その頃の航海事情は極めて悪く、外洋の高波を航行するだけでも大変なのに、まして嵐になったり、海賊が横行する東シナ海を渡って来日するのは、命がけの仕事であった。
 しかし、和上の決心は固く、早速揚州で出航の準備をはじめたが、師の出国を阻止しようとする人達によって、政府に誣告されて、折角造った船も没収され、一行は捕えられてしまった。鑑真一行の渡航は五回企てられたが、嵐で難破したり、漂流したりで成功せず、この間、栄叡や最も身近で和上のお世話をしていた弟子の祥彦も病死し、重なる労苦で和上は視力を失ってしまわれた。
 それでも伝戒の素志をひるがえすことなく、和上は藤原清河を大使に、大伴古麻呂を副使とする遣唐使の帰国に際し、副大使が乗った第二船にひそかに便乗して、第六回目の船出をされた。この時も暴風に見舞われ、第一船の大使藤原清河が乗った船は漂流して、ついに帰国出来なかったが、和上が乗られた第三船は種子島、屋久島を経て、天平勝宝五年(七五三)十二月、やっと薩摩国秋妻屋浦(鹿児島県川辺郡坊津町秋目)にたどりつかれた。
 勅令を拝した栄叡・普照が唐へ旅立たれてから、実に二十年の歳月を要している。若し、妨害や嵐に遭遇されなかったら、天平勝宝四年の東大寺大仏開眼の盛儀にも重要な役割を果たされたことであったであろうに。
(余談であるが、奈良自動車学校の校長室に千五百年位の年輪をもつ屋久杉の輪切りをテーブルにしたものがある。私はこれを見る度に、鑑真和上が、暴風に流されて漂着されたのか、あるいは水や食糧を積むために寄港されたのか、いずれにしても屋久島に立ち寄られた時、この杉は既に三百年位(屋久杉が伐採禁止になってからでもかなりの年月が経つので)の大樹になっていて、森の小鳥から和上の船が港に入っていることを聞いていたのかもしれないなと、和上の苦節二十年にわたる辛苦をしのんで感謝を捧げ、鑑真和上の像を思い浮かべる。) 翌年の天平勝宝六年の二月には、待望の平城京に入り、東大寺の大仏を拝し、東大寺客坊に止宿された。
日本では、前後六回にわたる苦難の航海で来日された和上の来日を大歓迎し、高官、高僧等は自ら、又は使者を送って労をねぎらった。天皇は吉備真備を勅使としてつかわし「今より以降、受戒伝律はもっぱら大和上にまかす。」という口勅を伝えられた。
 四月には、大仏殿前に戒壇を築いて、聖武天皇がまず、菩薩戒を受けられ、次に光明皇太后・孝謙天皇も菩薩戒を受けられた。ついで、多くの沙弥や僧が、鑑真とその弟子達による、三師七証の十僧を具えた妙法正式の受戒を受けた。
 翌年十月には、大仏殿の西に常設の戒壇をもつ戒壇院が落慶して、登壇受戒の制が整い、和上達は、戒壇院に付属した唐禅院に住んで、戒律思想を全国に広げられた。
 天平勝宝八年(七五六)には良弁とともに大僧都に任じられ、仏教界を統べる僧綱の重職にあったが老齢になってこられた鑑真大僧都のお身体を心配された孝謙天皇は、、僧綱の重責を解き、大和上の号を賜った。大和上は、東大寺戒壇院から隠退されるについて、私寺を建てる土地を物色しておられた。その時、現在の唐招提寺の近くの「尼ケ辻」という辺りの土を舐めてみると、唐の清官戒壇の土と同じように甘かったので、ここに寺を建立することに決め、その土地は、「甘土」と呼ばれ、「尼ケ辻」になったという伝説がある。大和上は失明しておられたから、土を味わって決められたという発想だろう。
 唐招提寺は、平城京右京五条二坊にあった、天武天皇の皇子、故新田部親王の邸を賜って建設されたものだという。唐招提寺は、最初「唐律招提」という戒律を学ぶ僧侶達の私立の学問所として創立された。招提とは、インドから中国へ仏教が伝来した時に建てられた「招提寺」という名前からきたもので、み仏のもとに、修業する人達が各地から集まって、律を心ゆくまで学べる伽藍を造ろうとされたのであろう。大和上がここに住み始められた頃は、新田部親王の旧宅の一部が残っていたのを改造して使われていたと伝えられる。
 そして、戒律修学のための道場として大切な講堂は、平城宮の朝堂院(大内裏の正庁)の東朝集殿(大礼の時、百官が参集して控えた殿堂)が移築された。移築の際、切り妻造りから、入母屋造りに改造されている。鎌倉時代に大修理されているが、現在に伝わる天平時代唯一の宮廷建築である。「唐律招提」は、のちに孝謙天皇ご宸筆と伝えられる勅願を賜り、官寺として認められて「唐招提寺」となった。
 鑑真和上は、日本での十年のうち、五年間を東大寺で過ごし、入寂までの五年間を唐招提寺で暮らされた。
 天平宝字七年(七六三)の春、和上は健康のすぐれない日が続いた。そんな折、弟子の忍基は、講堂の梁が折れる夢を見た。中国では、寺の棟や梁が折れる夢は高僧が入寂する前ぶれだと言われていた。そこで、弟子達は、間もなく師のこの世でのお姿を見ることが出来なくなると思って、一心不乱に師の肖像を造った。これが今も伝わる国宝、鑑真和上坐像である。
 同年、五月六日鑑真和上は、宿坊で西に向って結跏趺坐のまま、波瀾に富んだ生涯を閉じられた。御年、七十七歳であった。