第62回(2000年06月号掲載)
薬師寺 その4 
玄奘三蔵と薬師寺
 薬師寺では毎月五日の玄奘三蔵のご命日には例祭が行われている。五月は大祭として四日、五日の両日にわたり、法要や記念講演、芸能の奉納等が賑々しく、しかも厳粛に挙行され、夜は万燈供養の灯が幽玄に聖域を照らし出して人々を法悦の世界に導く。なかでもクライマックスは五月五日の法要に続いて奉納される、伎楽「三蔵法師 求法の旅」である。全国から集まった参詣者が玄奘三蔵院の前庭や廻廊を埋めつくしてかたずを呑んで見守る中で、その伎楽は演じられる。伎楽とは聖徳太子の時代(六一二年)に中国から伝わった仮面舞踏劇である。仏の教えを興味深く理解させ、仏法を広めることを目的として「仏生譚」や「釈迦の生涯」、「高僧伝」等が演じられた。
 奈良時代には各大寺が伎楽団を抱えて、大法要の折には仏前で上演したと伝えられる。天平勝宝四年(七五二)の東大寺大仏開眼法要の折は、六十人の伎楽団が四組に分かれて、数々の伎楽を繰り広げて大喝采を浴びたそうである。聖武上皇も光明皇太后も、大仏完成の慶びを心の中で噛みしめながら楽しくご覧になったであろう。その伎楽面や衣裳は正倉院に納められて、往時を物語っている。伎楽は平安時代に入ると、唐楽、高麗楽等、雅楽におされ、鎌倉時代には殆ど上演されることがなくなって、幻の芸能になってしまった。
 それから千年近い歳月が流れた昭和五十五年十月十七日、東大寺大仏殿の昭和大修理落慶法要にあわせて、長い時間をかけた研究の結果再現された伎楽が奉納された。
 薬師寺では、平成三年三月二十日(旧暦二月五日、玄奘三蔵祥月命日)に玄奘三蔵院伽藍落慶法要が行われた。その時の練供養には、威儀を正した沢山の僧侶方の後ろから、伎楽面や衣裳を着けた一行が、身振り手振り面白く練り歩かれたのが印象的であった。翌年の平成四年五月五日の玄奘三蔵会大会からは、新演目として、艱難苦難を重ねて仏の教えを持帰られた「三蔵法師求法の旅」を、薬師寺独特の「伎楽」の形で奉納することを目指して懸命の準備と計画がすすめられた。主役の三蔵法師のみは面をつけず、伎楽面をかぶった伎楽グループとのからみでドラマが展開して行く。物語がわかり易いように、創建以来の薬師寺の声明で、地の文が語られるという、古典芸能に新しい工夫を加え、お寺の伝統を盛り込んだ特筆すべきものである。
 面は正倉院の伎楽面をもとに、「獅子」(砂漠を旅する法師に襲いかかるあばれ獅子)、「酔醐王」(酒で法師を誘惑しようとする遊牧民の王)、「金剛」「力士」(仏の使いとして法師を守る)等の面は桐の木で彫った木彫。「治道」(伎楽の行道の先頭を行く道案内)、「呉公」(西域トルファンの高昌国の王)、「呉女」(高昌国の王后)の面は和紙で乾漆。いずれも正倉院の伎楽面に
もとづいて、当代一流の先生方が製作に当たっておられる。
 衣裳等の染は吉岡幸雄さんを中心とする「染司よしおか」のスタッフが当たられ、「あか」は紅花、茜、蘇芳、ラック(インダス川の流域にだけ生える樫の木に付くえんじ虫の雌の分泌液から作られる)が使い分けられ、「紫」には紫草の根を使う等、すべて古代より伝わる天然の染料が用いられている。染の手法も、板で布を絞めて模様を染め出す來纈や糸で括って染める絞りの纐纈、蝋で模様を描いて染める蝋纈等、正倉院の御物に見られる技法を復元する等、模様にも工夫がこらされている。布の織や小道具類も、それぞれの道に卓越した方々が製作されるという凝りようであった。
 第一回の玄奘三蔵役は俳優の田村高廣さん。押すな押すなの大好評で、その後も毎年趣向を新たにして、山田吾一さん、水谷八重子さん、中村信二郎さん、片岡孝太郎さんが次々とつとめられた。来年は十回目になるので、片岡仁左衛門さんにお願いしようという話も出ているそうである。他の伎楽は常に天理大学雅楽部の方達が受け持っておられる。
 これ程、各界のオーソリティが知と技を結集して実現した伎楽であるにかかわらず、この間、「この頃薬師寺さんでは孫悟空のお芝居をしてはるらしいですな。」という人があった。「孫悟空じゃなく、玄奘三蔵求法の道の伎楽でしょう。」と問い直すと、「孫悟空と一緒に天竺に行った三蔵法師って実在の人ですか。」と聞かれた。どうやら西遊記の読み過ぎのようである。
 玄奘三蔵(六○二〜六六四)が法を求めて天竺に行かれた、西天取経の旅(六二九〜六四五)を記された「大唐西域記」をもとに、明の時代の十六世紀に呉承恩によって、荒唐無稽な娯楽的要素を加えて形成されたのが「西遊記」である。「西遊記」は中国でも明代の四大奇書の一つとしてもてはやされ、日本では江戸時代、一七五八年に刊行されて以来、歌舞伎や人形浄瑠璃ともなり、ことに明治時代以降は児童読物や漫画として親しまれてきた。その為、却って孫悟空(猿)、猪八戒(豚)、沙悟浄(カッパ)等をお供に、道教的な神々や妖怪達の誘惑や妨害を退けて目的を達成したという話の構成が、三蔵法師も架空の人物のように思われるようになったのであろう。
 しかし、玄奘三蔵様は、当時としては幻のように遥かな国、インドに行って法を学び、莫大な量の経典を中国に持帰って、仏法を広め、唐の太宗から絶大な尊敬と信任を得た実在の人物である。しかも、この伎楽が演じられる玄奘三蔵院には、まぎれもない三蔵様のお頂骨の一部が納められているのである。
 三蔵法師は七世紀初めに、中国河南省、洛陽郊外の陳堡村で、代々学問に長じた陳家の四男として誕生された。幼い頃の名前を陳緯といった。
 平成三年、薬師寺の玄奘三蔵院伽藍落慶記念に、信者達が写経した大般若経六百巻を、玄奘様のお墓がある西安郊外の與教寺へ奉納される旅に参加させて頂いた。
 まず洛陽の玄奘の故里を訪ねると、村長さんが出迎えてくださった。村長さんは玄奘様の生家の四十七代目にあたる陳小順氏である。「陳家の井戸」と呼ばれる古井戸は、玄奘様が子供の頃、木から落ちたが、この井戸に落ちたので、あまり怪我もせずに助かったと伝えられる。この水を飲むと頭が良くなるという言い伝えがあるので、近隣から貰いにこられるそうだ。幼い頃通っておられた寺子屋のようなお寺も残っていて、玄奘様の息吹が聞こえる思いであった。薬師寺は、この村の復旧にも力を入れておられるという。
 玄奘様十才の時、お父様が亡くなられたので、二番目のお兄様がお坊さんになって住んでおられた浄土寺に引き取られ、十三才で仏門に入られた。玄奘様は一度講義を聞いただけで、すべてを理解し、師匠に代って再講義をさせても、一言一句間違わなかったというので、十三才の天才少年として名声がとみに高まったという。
 そのうち隋の国が亡び唐の時代となったが、世の中は騒然として乱れに乱れていた。町には殺人強盗が横行し、人々の生活も苦しく、洛陽では落ち着いて修行が出来ないばかりか、生命の危険さえ感じられるようになってきた。そこで、武徳元年(六一八)に兄と共に長安に逃れたが、長安もまだ落ち着いた状態ではなく、時折戦争が起こったりしているので、名僧の多くは蜀の国(成都)に逃げてしまっていた。がっかりした三蔵法師は、ここで空しく時を過ごすよりは勉強したいと、兄と共に蜀の成都に行った。さすが成都は平穏で、物資も豊かであり、名僧も多く講座には数多くの人が集まって盛況を極めていた。玄奘兄弟は寸暇を惜しんで修行し、武徳五年(六二二)この成都で具足戒を受けた。
 成都で学ぶベき事をすべて修得した玄奘様は、更に勉学のために、もう一度長安に行こうと兄にすすめたが、兄はここに留まると言われたので、一人で行くことになった。当時、法律では外に行くことは禁じられていたので、三蔵法師は成都から、秘かに重慶まで行き、そこから舟で三峡を下って長安に行かれたそうだ。長安では、その頃中国で最も有名であった法常と僧弁という高僧から「摂大乗論」の講義を受けたが、一回で理解し、二人の高僧を驚かせた。
 中国ではもう教えを乞う人は誰もいないほど学び、高僧達から「仏門千里の駒」と賞嘆されるようになっても、玄奘様自身は仏教の真髄を腹の底まで究め尽くしていないもどかしさを感じ、翻訳された経典に疑問を抱き、どうしても原典から学びたいと熱望されるようになった。
 インドに行きたいという願望は日に日に高まり、出国の許可を役所に申請したが認められなかった。建国したばかりの唐の国では、逸材が外に出るのを嫌って、法律で出国を禁じていたのである。
 西土求法の欲求やみ難い玄奘様は、国禁を犯して出国、昼は潜伏し、夜歩いて西方を目指したが、涼州(中国甘粛省武威県の城市)で、早くも密出国のかどで捕えられた。しかし求法の志を喜んだ僧慧威の手引きで脱出し、西域の隊商にまぎれて、やっと玉門関を出ることが出来た。伊吾(現在のハミ)で砂が河のように流れる流砂河に、命の綱の水袋を取られてしまった。半死半生でさまよい歩くうち、夢に現れた大男に告げられた通り行ってみると、美しい泉が見つかって命拾いする等、高昌国(現在のトルファン)に達するまでに、すでに大変な苦労をしておられる。
 私も数年前、仏教東漸の道にあこがれ、玄奘様の足蹟を訪ねてウルムチ、トルファン、クチャ、アクスからタクラマカン砂漠を越え、ホータン、カシュガル、クンジェラブ峠を経てガンダーラへと旅をしたことがあるが、飛行機や自動車を使っての旅でも、夏の日中は五十度近くなり、一日に二十度もの温度差を体感した。冬にはマイナス三十度位になるという程気温の変化の激しい所だから、それだけでも大変だったろう。砂漠では、地平の彼方に、泉か大河のような蜃気楼が現れて、喉の渇いた旅人を魅了するかと思えば、龍巻が砂を巻き上げて移動していくのが見える。塩水渓谷では岸辺の地表に白く塩が浮き出ている位だから、脱水症状の人が水にあこがれ、つい谷水を飲んだら、ひどい目にあうことだろう。
 今は自動車の通れる道がついているが、昔は切り立った崖の中腹に細々とついている道を馬で行った。車なら三時間で行ける距離を三日間かかったというのも、そう古くない話だというから、玄奘様の頃のご苦労は想像に難くない。神仏のご加護がなくては到底成しえなかった道中であったろうことを実感した。
 言語に絶する苦労を重ねて、無事インドのナーランダ寺に到着。戒賢論師に師事して、念願の「瑜伽師地論」をはじめ、瑜伽唯識の教学を究め、さらにインド各地に求法と仏跡巡礼の旅をして、多数の仏典や仏像を将来し、十七年ぶりの六四五年に帰国された。太宗皇帝は大層喜ばれて、大慈恩寺に大雁塔を建てて将来の経典を納め、訳経に専念することを勅許された。三蔵法師が二十年間に訳した経論は「大般若波羅蜜多経」六百巻をはじめ、「瑜伽師地論」「倶舎論」等、一三三五巻に達するという。(六五三年に遣唐僧として日本から唐に渡り、玄奘様に師事された道昭様は、師より学んだ法相の教えを最初に日本に伝えた人物として、法相宗第一伝とされている。)
 経論を訳し終えた三蔵様は、六六四年二月五日、眠るように息を引き取り、大往生された。高宗皇帝は法師の死を聞いて「朕は国宝を失った。」と慟哭されたそうだ。四月十四日、法師を慕う数多くの人達に送られて、長安城の東十五里の白鹿原に埋葬された。しかし、皇帝が町の近郊では近くを通る度に法師を思い出して悲しみが募るというので、五年後に勅を下して、法師の遺体を長安の南五十里、樊川の北原に改葬して堂塔を建てるように命じた。これが今日の與教寺で、今も玄奘三蔵塔と、玄奘様のお弟子で法相宗の宗祖となった慈恩大師の塔が並んで立っている。
 一九九一年十月一日、薬師寺の高田前管長始め多くの僧侶や信者達六百三十人が與教寺に参拝した。その時、沢山の人達が二部づつ写経した「大般若経」六百巻を、一部は玄奘三蔵院へ、一部は與教寺へ奉納された。(大般若経は一巻が般若心経の二十五巻分に当り、全部で四八○万文字ある。)そして、納経供養料として奉納された釈尊の涅槃像と、涅槃堂の落慶開眼法要も行われて、日中の親善を深めた。一九九四年には再び皆で写経した大般若経を大慈恩寺に奉納するに当り、山田吾一さんを三蔵役とする伎楽団一同が渡中、ご宝前で「求法の旅」を熱演し、居合わせた日中の人々の喝采を浴びた。
 話は戻るが、昭和十七年十二月二十三日、当時、南京に駐屯していた岐阜の高森部隊が、南京の丘にお稲荷さんを造ろうと土を掘っていたところ、石棺が発見された。石棺には玄奘三蔵のお頂骨で、戦乱を逃れるため演化大師とその弟子達によって長安から南京に運ばれたと記されていた。
 お頂骨は一切の副葬品と共に時の南京政府に返還された。南京政府は非常に感激して、南京郊外の玄武山の上に塔を建設してお祀りした。その落慶法要の時、中国側から日本に分骨の提案があり、お頂骨の一部が日本に贈られた。お頂骨は上野の寛永寺で盛大な法要をした後、埼玉県の慈恩寺に十三重の石塔を建てて、大切に祀られた。
 法相宗大本山である薬師寺から、慈恩寺と全日本仏教会に「是非ご分骨を」とお願いして快諾が得られたので、玄奘三蔵院伽藍を建て、お祀りした落慶法要が、先に記した平成三年三月二十日である。ちなみに、埼玉県の慈恩寺でも五月五日は毎年盛大な玄奘三蔵会が催れている。日中心を併せて、この大聖人を顕彰し、仏の光で明るい社会を築きたいものだ。