第61回(2000年05月号掲載)
薬師寺 その3 
東院堂の聖観音菩薩
 金堂の東にある廻廊の東門を出ると、美しい木立の林がある。この辺りは参拝者がかなり歩いている時でも、不思議と静寂の気が漂っていて、小鳥がやさしく語りかけてくれる。
 元明天皇の皇女で、長屋王の妃であった吉備内親王が、元明天皇の病気平癒を祈って発願されたと伝えられる東院堂は、この林の奥にひっそりと建っている。元明天皇は残念ながら東院堂完成前年の十二月に崩御されたので、養老五年(七二一)落成した時には、心をこめて天皇の菩提を祈られたのであろう。創建当時の堂は南西向きに建てられていたようだが、火事で焼け、現在の堂は弘安八年(一二八五)に、西向きに建て替えられた、七間四間の入母屋造り、本瓦葺きの建築である。
 御本尊は聖観音菩薩で、東院堂の須弥壇の上の黒漆塗りの大きな厨子の中に安置された華麗な装飾を施された蓮華座の上に立っておられる。像高一八八・九センチの、ギリシャ彫刻を思わすような均整のとれたお姿で、一般的な聖観音とは逆に、左手を上げて右手を下げられており、聖観音のシンボルと思われている蓮の花や水瓶は持っていらっしゃらない。
 なだらかな遠山のような眉の間から、すっきりと通った鼻筋、豊かな唇には飛鳥仏の特徴である謎の微笑、アルカイックスマイルの名残がうかがえる。上瞼は直線に、下瞼は弧を描き、耳が大きく肩の辺までゆったり垂れている。頭髪はひと握りづつ束ねるように梳いて、髻を高く結い上げ、左右に美しい唐草模様の飾りをつけている。宝髻の正面には阿弥陀如来の化仏がついていたと思われるが、長い歳月に失われて、今はない。
 首には、珠形と管玉を連ねたネックレス、胸には果房状の飾りのついた華やかな胸飾り、腕には腕釧をつけ、腰帯からは、珠玉と花紋をつらねた瓔珞を放射状に垂らした、華やかな装いである。
 胸や腰の肉付きは豊かで、下半身を覆う軽やかな裳を透して清らかな下肢がうかがわれる。引き締まった若々しい体躯は貴公子を連想させる。金堂の薬師三尊と同じく、艶々とした深い光沢の黒褐色のお肌をしておられるが、薬師如来様が満月のような円満なお顔をしておられるからか、三尊にはおおらかな明るさを感じるのに対し、東院堂の聖観音様には、三日月のような幽玄さと、そこはかとなく哀愁がただよう。
 そのせいか、この観音様には、はっきりとした根拠はないのだが、悲劇のヒロインである有間皇子、または大津皇子のお姿をうつしたものであろうと、言われている。有間皇子は孝徳天皇の皇子で、お母様は左大臣阿部倉橋麻呂の娘の小足媛。有間の名は、お父上がまだ皇子時代、有馬の湯にいた時に生まれたからだと伝えられるから、有馬も随分古い歴史をもつ温泉だなと思う。
 孝徳天皇は大化改新の時に即位されたが、政治の実権を握るのは大化改新の原動力となった皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)であったので、次第に天皇との間に軋轢が生じていった。孝徳天皇は人心を一新するため難波に遷都されておられたが、難波に移って九年目、中大兄皇子は「やはり政治は飛鳥でなければ都合が悪いから飛鳥に戻りましょう」と勧めたが、天皇はお聞き入れにならなかった。すると中大兄皇子は孝徳天皇を難波に置き去りにして、政治の中枢と共に飛鳥に移ってしまわれた。天皇はその翌年、失意のうちに難波で亡くなられた。
 中大兄皇子はすぐには天皇とならず、お母様の斉明天皇(もとの皇極天皇)が即位されたが、依然として実権は握っておられた。中大兄皇子は大化改新でも推し量れるように、豪胆で積極的な方であったので、天皇家の威力を天下に示そうと、斉明天皇初年には、未だかつてなかったような大土木事業をおこされた。
 香久山の西側に運河を造って舟二百艘をもって石を運んだという位なので、全国から人夫が徴発された。最近、飛鳥地方の発掘が進んで、酒船石の周囲に斉明紀二年の石山丘かと思われる、山城のような石垣を巡らす遺構が発掘されたり、二十世紀最後の大発見かと騒がれた亀形石造物が発見されたり、斉明朝のことがよく話題に上がるようになったのも興味深い。なにわともあれ、こうした大工事に要する資材や労力に不満を持つ人達の間から、有間皇子を支持する気運がおこってきた。有間皇子を次の天皇にとの声が高くなってくると、頭の良い皇子は身の危険を感じ、斉明天皇の二・三年頃は、精神を病まれたふりをしておられた。斉明天皇の三年(六五七)十月、有間皇子は牟婁の湯(和歌山県白浜町湯崎)へ静養に行かれた。帰ってきた時、中大兄皇子に「牟婁の湯は大変景色の良い素晴らしい所で、具合が悪かったのも治りました。」と報告された。
 翌年の五月、斉明天皇は可愛い孫の
建皇子を亡くして、すっかり落胆されておられた。そこで中大兄皇子は天皇に牟婁の湯で傷心を癒すことをお勧めし、留守首を蘇我赤兄に頼んで、ご自分も天皇に同行された。
 その留守中、有間皇子は蘇我赤兄にそそのかされて「中大兄皇子に反旗をひるがえそう」と言ってしまう。するとその夜、蘇我赤兄は物部朴井連鮪という者をやって、有間皇子を謀反の現行犯として捕えさせた。逮捕されて、牟婁の湯におられる斉明天皇と中大兄皇子のもとに連行される途中、磐代(和歌山県南部町岩代)で、磐代の地霊に祈って詠まれた二首の歌が万葉集に残っている。
  磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む
 牟婁へ着いたら死を賜ることになるであろうが、もし幸いに無事で帰ることが出来たら、この松を見よう。そうなればいいがなあ、との願いが、常磐の松の枝にこめられている。
  家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
 戦争中、この歌は教科書に載っていて、家にいる時はご飯は食器に盛って食べていたのに、旅の途中であるから、手近にあった椎の葉にご飯を乗せて食べるという、旅の哀愁を歌ったものだと習ったように思う。犬養孝先生の説によると「今でも岩代の方では、赤ちゃんが生まれて一ヶ月たつと、樫の葉に米の団子を乗せて神様にお供えする風習が残っているから、これも神様にお供えしたのではないだろうか」とおっしゃっていた。この歌の前書に「有間皇子自ら傷みて松が枝を結べる歌二首」とあるから、どちらもお祈りをした時の歌だとのことだ。それにしても「旅にしあれば…」には、蘇我赤兄の口車にさえ乗らなかったらな、という悔しい思いがにじみ出ているようだ。有間皇子はこの歌を詠まれた二日後の六五八年十一月十一日に亡くなられた。御年十九才であった。
 私が子供の頃は、有間皇子の歌が教科書に出ていたせいか、薬師寺東院堂の聖観音様は有間皇子のお姿をうつしていると聞いていたが、この頃は大津皇子をモデルにしているという人が多い。
 大津皇子は天武天皇と、持統皇后のお姉様である大田皇女の間に生まれられた。皇子は文学的な才能に秀で、弁舌さわやかで、武力にも優れたたくましい人物であった。天武天皇は、その才能を高く評価しておられたという。それに対して、持統皇后との間に生まれられた草壁皇子は、まだ幼かったうえに、病弱だったようだ。持統皇后は甥とはいえ、わが子草壁皇子より人望の高い大津皇子に対し、皇位継承者として警戒を強めておられたようだ。天武十年(六八一)草壁皇子が皇太子に任じられて、皇位をめぐる争いも、一応解決したかのように見えた。ところが、朱鳥元年(六八六)九月九日に天武天皇がお亡くなりになった。皇后は夫の死を悲しみその山をふり放け見つつ 夕されば
 あやに悲しび 明けくれば  うらさび暮し あらたへの 衣の袖は 乾る時もなし
 と歌って、喪服の袖が乾く間もない程、涙に明け暮れて嘆いておられた。
 こうした時、大津皇子のもとに行心という新羅僧が現れた。人の骨相をよく見るという行心は、大津皇子を見て「あなたは大変な方だ。天皇にならなくては、この世に生きていられないでしょう。」と言ったそうだ。天皇にならなくては生きていられないという暗示を与えられた大津皇子は、謀反を起こそうかと思うと、親友で天智天皇の皇子である川島皇子に打あけて相談された。川島皇子は十月二日、そのことを天皇側に密告したので大津皇子は行心等と共にただちに逮捕されて、翌日に死刑を執行される。長引くと人望の厚い皇子のことだから、助命運動が起こったりしては面倒だと思われたのであろう。
 刑場となった「訳語田の宮」に連行される途中、道筋の磐余の池で鴨が鳴いているのを見て
 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 と、今日を限りに死んでいく物悲しい心境を歌っておられる。「懐風藻」にある辞世の詩は
 金烏西舎に臨らひ 鼓声短命を催す泉路賓主なし 此の夕家を離りて向う
 夕陽は西に傾いて家々を照らす。鼓の音は自分の僅かな余命をせき立てているようだ。死出の路には、客も主人もいなくて一人だけである。今宵家を離れて黄泉路へ向かうのである。美丈夫の大津皇子は、父帝が亡くなられて一月足らず、まだ悲しみさめやらぬ間に、二十四才の多彩な生涯を閉じられた。
 皇子の死を知った妃の山辺皇女は、裸足のまま、長い髪を振り乱して駆けつけ、殉死されたという。皇子の屍は二上山の雄岳に葬られた。
 有間・大津両皇子は秀れた才能と端麗な容姿を持ちながら、その卓越さ故に、若い花の命を散らされた。皇子の悲劇を悼み追慕する人達の目に、端正な貴公子を思わす聖観音様のお姿は、有間皇子とも大津皇子とも写ったのであろう。両皇子のみ魂が観音様の慈悲に抱かれて、安らかに眠っておられる証かも知れない。
 聖観音様のお厨子を取り囲むように、激しい忿怒相の四天王が邪鬼を踏みつけて立っておられる。鎌倉時代独特のリアルな表現で、衣を風にひるがえし、身体の隅々まで力をみなぎらせ、玉眼を輝かせて仏法を護っておられる。
 平成八年、高田好胤前管長様を大導師とする薬師寺のインド八大仏蹟巡礼の旅に連れて行って頂いた折、仏像発祥の地であるマトゥーラに立寄った。
 インドでは釈尊が涅槃に入られてから数百年は、仏を人間的な姿では表現せず、菩提樹、蓮華の台座、法輪、仏足石等、間接表現で仏陀の存在をあらわしてきた。マトゥーラは仏陀不表現の伝統を破って、一世紀末頃から仏像の彫刻を始めた所である。期せずして、ガンダーラ地方でも同じ頃から仏像が作り始められるが、ガンダーラ仏がギリシャ彫刻の影響を強く受けているのに対し、マトゥラーは肉体の力を強調した、インド古来の伝統に基づくものである。
 好胤前管長様は「マトゥーラの彫刻は、白鳳時代の彫刻に非常によく似ています。薄い衣を透してお肌が少しすけて見える感じがする繊細な技法は、薬師寺の東院堂にお祀りしてある聖観音様そっくりです。仏様のおみ足の裏の模様も仏足石のものとよく似ています。」とおっしゃっていた。
 マトゥーラ博物館には金堂のご本尊様の台座にある葡萄唐草によく似た文様をつけた壺もある。クペラという蛮人の絵は、台座の腰の部分にある華頭窓から覗いている半裸の異形像に似ている。東院堂の聖観音様にそっくりな如来立像は、気品のある慈愛にみちたお顔の表情、襞が流れるような美しさを見せる薄い衣の下からは、おみ足がすけて見える。インド的な肉体表現に西方的なものを取り入れた、五世紀グブタ朝の最高傑作の一つである。「マトゥーラ最盛期のグブタ朝時代のものとしたら、玄奘三蔵様のおかげで意外に早くこの文化が日本に到着したのですね。」と前管長様が感慨深げにおっしゃっていたのも、今となると懐かしい。
 なにしろ奈良は、インドや中国を通じてシルクロードの文化の終着点であり、国内各地への発信地であった。