第60回(2000年04月号掲載)

薬師寺 その2

 近鉄西の京駅で降りて少し東へ行くと、すぐ右に金堂への入口があるので、電車で訪れた人達の多くは、北から薬師寺へ入ってしまう。
 しかし「天子南面す」という言葉の通り、平城京は北端の中央に宮城があり、それを起点として条里が敷かれていたので、奈良の古寺のほとんどが、南側を正面として建てられている。従って仏様も南を向いておられるので、背後から、言い換えれば裏口から出入りしていることになる。私も子供の頃から北から入って、講堂から金堂、東院堂とお参りして東塔を仰ぎ、西塔の心礎を見て、たしか近くにあった仏石堂を拝んで引き返していたので、南大門があることさえ知らなかった。
 戦後の復興と日本経済の成長にともない、観光バスや乗用車での参拝客が多くなったので、昭和五十八年、薬師寺の南方に、六千坪(進入路部分を入れると七千坪)もある大駐車場が造成された。おかげで、人々は、平城の都の六条大路に面していたという、南大門からお参り出来るようになった。
 駐車場で車を降りて、少し北へ歩くと、右側に薬師寺の鎮守の「休みが岡八幡宮」がある。休みが岡と呼ばれるのは、聖武天皇の御代に、宇佐八幡の神が、東大寺の鎮守として勧請された時、ここで休まれたからと伝えられる。寛平年間(八八九〜八九七)に薬師寺の鎮守として八幡神が勧請された時、ゆかりのあるこの地に八幡宮が建立されたという。その後、火事や地震等の災害を受け、現在の社殿は、慶長八年(一六○三)豊臣秀頼によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 中央のご本殿には、八幡宮がこの地に勧請された時の造像とされる、平安初期の特色を備えた木造彩色の国宝八幡三神像が安置されていたが、今は奈良国立博物館に寄託されている。三神像とは僧形八幡神と、神功皇后、仲津姫命の神像で
ある。私は昔、この三神像を博物館で拝観して、なぜ八幡様と神功皇后と仲津姫命が三神なんだろうと疑問をもって調べてみたところ、八幡神の本性については諸説があるが、応神天皇とされているということだ。それで、お母様の神功皇后と、お后様の仲津姫が三神としてお祀りされているのかと、納得した。(神社によっては、仲津姫の代りにお父様の仲哀天皇とで三神としてお祀りしている所もあるそうだ。)
 そんなに大きな像ではないのに、重量感のある堂々とした彩色の美しいお姿のなかに、神功皇后は身重な体でありながら三韓に出陣されたという強靱さを感じさせる。また、八幡神と比売神は胎内にありながら神の恩恵を受けて産まれ、天皇として天下を統率しながらも、神仏への崇敬の念を深め、神となられた応神帝とその皇后という夫妻の歴史を思い起こさせるような像であった。
 それにしても、薬師寺発願の天武天皇と皇后であった持統天皇と、鎮守の八幡宮のご祭神との運命が似ているのにびっくりした。
 神功皇后は三韓遠征の帰路、筑紫で皇子(応神天皇)を産まれたという。大海人皇子(天武天皇)も6野妃(持統天皇)と共に、百済救済のために出兵するお母様の斉明天皇に従って筑紫に下られ、妃は筑紫で草壁皇子(文武・元明天皇の父)をお産みになった。
 一説には、斉明天皇の新羅出兵をモデルとして神功天皇の三韓征伐の物語が出来たのであろうとも言われるが、戦争中に歴史を習い、後に応神天皇になられたという皇子を抱いた武内宿禰の一刀彫の像等を見て育った私は、やはり、神功皇后という傑出した女性の指導者がおられたと信じたい。
 薬師寺南門と八幡宮の間に孫太郎稲荷社がある。伝承によると、この孫太郎稲荷は姫路にあって、姫路城の守護神であったという。ある時、凶作で城下の人達が食料不足で困っていると、孫太郎稲荷が城の蔵から米を持ち出して人々を救ったので、庶民には喜ばれたが、ついに城から追い出されたと伝えられる。今は薬師寺の鎮守として大切に祀られ、現在も姫路の方がお参りに来られるそうだ。
 創建当時の南大門は、六条大路に面した現在の南門と同じ位置にあり、正面五間で長さ八丈六尺という壮大なものであったらしいが、天禄四年(九七三)の火災で焼失し、再建された門も文安三年(一四四五)大風で倒れて長く再建されなかったようだ。慶安三年(一六五○)西院の西門を移建したのが、現在の南門だという。
 南門を入ると、唐時代の長安の都をおもわす中門と回廊が目に入る。年間百万人を超える参詣者を迎えるのに、今の南門ではあまりに貧弱である。しかし、当初の南大門を復興するには、周辺の道路や民家の情況で無理があるところから、一山の思いをこめて復興された中門である。昭和五十九年十月八日に落慶し、三日後の十月十一日、薬師寺に行幸された昭和天皇が「通り初め」をされた門である。中門に立つ仁王様は色鮮やかな極彩色で、最初見た時は、中国の古都に迷い込んだのではないかと目を見張った。
 塑像のように見えるこの像は、元美術院の辻本千也氏による木彫で、彩色は中国美術に造詣の深い平山郁夫先生とその一門に依頼されたそうだ。平山先生はスタッフ一同を連れて、隋唐時代の作品の多い敦煌に行って、参考になる紋様を一枚一枚模写してこられたそうだ。一つ一つの紋様に原点があるという、先生の快心の作のようだ。
 中門の北端に立って眺めると、東塔と西塔の中央奥にどっしりと建つ金堂の姿が美しい。昭和五十一年四月に金堂が落慶して以来、昭和五十六年四月に西塔が落慶するまでの間は、創建以来千二百五十余年の風雪に耐えながら世の中の移り変わりを見てきた東塔と、数知れぬ多くの人達の信仰に支えられて、たくましく逆転飛翔して白鳳の面影を再現した金堂の姿とが、なんとなくアンバランスに感じられたが、西塔が再興されて、白鳳を彷彿させる景観が見事に整った。白鳳時代からの唯一の生証人の東塔も、この若々しいエネルギー溢れる伽藍復興を楽しんで見守っているようだ。
 私はこの光景を見ていると、薬師寺管長松久保秀胤師の晋山式でのご挨拶の一節を思い出す。
 「……今私が立っております所から見えます堂塔のうちで、昔からそのまま建っておりますのは東塔だけで、あとは金堂も西塔も中門も皆、先代住職の時、お写経勧進によりまして、多くの方々の真心に支えられて復興したものでございます。先代の住職の晋山式の時は、これ程多くの方達においで頂けなかったのに、今日数多くのご参集を得て晋山式を挙行できましたのも、先代の高田好胤師が、ご法話やお写経勧進等で、仏心の種まきをして来られたおかげだと、今更ながら尊敬と感謝の念を新たにすると同時に、それを受け継ぐ責任の重大さを痛感いたしております。……」(管長さんは聴衆がホロリとする程、上手に話されたのだが、うまく書けなくて申し訳ない。)
 このご挨拶を聞いていると、西塔の前でメガホンを持って修学旅行生にお話をされる若き日の高田好胤前管長様のお姿が目に浮かぶ。仏さんとか、お経といえば拒否反応をおこしかねない、生意気盛りの子供達にむかって、飽きさせないように、分かりやすく、しかも大切なことはしっかりと頭に入るように、ユーモアを交えながらお話されるのは、大変なご苦労であったと思う。しかし世間ではそれを賞賛する人も多い一方「メガホン坊主」「子供達に安易な説法をする」等と、実態を知らないままに悪口を言う人も少なくなかった。
 でも、東京の中学生が帰京して、修学旅行の感想を一行ずつ書けと言われて「寺は金閣、庭は竜安、坊主は薬師寺ベリーグッド」と書いた生徒さんがおられたそうだ。「薬師寺に行ったら、坊さんが出てきて話をしてくださったのが面白かった」と言った生徒さんもあったとか。こうした毀誉褒貶を受けながらも、信念を持って続けられた“心への仏心の種まき”の成果が目に見えて現れたのは、昭和四十二年、高田好胤師の晋山式の舞台の上で、金堂復興の発願を宣誓されて以来である。
 高田管長は企業からのまとまった寄付でなく、一巻千円の写経で広く大衆の心を結集して、その資金で復興する計画をたてられた。「一巻千円の写経でお堂を建てる?そんなことは不可能だ。第一、それ程たくさんの人が写経するものか」と言った人もあった。
 しかし「少数の富豪に頼るのではなく、百万の人の力を借りて、それで人々の幸せを願うところに仏教の真髄がある」という管長様の決意は固く、一山が固く団結してお写経復興に邁進された。到底不可能だろうと思われた百万巻写経は、昭
和四十三年七月一日に第一巻の写経勧進を始められてから、七年五ヶ月目の昭和五十年に十一月二十九日に百万巻に達し、現在も尚一層、お写経衆の輪を拡げ、諸堂の復興に取り組んでおられる。
 最初、お写経の話を聞いた時“字の下手な私はお写経なんて到底縁が無い”と思った。でも、お手本と写経用紙がセットになっていて、お手本を写してもよいということなので、恐る恐る写経を始めて、おかげで、二百十六巻の記念に頂ける肩布も頂戴した。字の下手な人も参加できる工夫をしてくださったおかげで、仏縁にあやからせて頂いたと感謝している。
 息子が学生時代に重い病気にかかって入院した時、私は「入院している間、時間があるのだからこれを読んで修養しなさい」と言って般若心経の本を渡しておいた。ベッドで寝たままでは写経はできないと思って、写経の用紙は持っていかなかったのだか、息子は便箋にボールペンで九巻の写経をした。ベッドの上で書いた便箋への写経、こんなの納めてくださるかなと思ってお願いしたら、快く納めてくださった。形式にこだわらないで心を受けてくださったのに感謝した。おかげさまで全快した息子は、今も元気で働かせて頂いている。
 お写経勧進による伽藍復興工事は、昭和五十一年四月金堂落慶、同五十一年西僧坊完成、同五十六年東僧坊完成、同年四月西塔落慶、平成三年四月玄奘三蔵院(新築)落慶、平成五年伽藍回廊第一期完成と着々と進み、薬師寺には、はつらつとした活気が満ちあふれた。
 平成八年三月三十日、遂に懸案の大講堂の起工式が盛大に挙行された。起工法要の表白の一節に、
「(前略)お写経勧進、昭和四十三年発願爾来 垂々た三十歳の旅。我れ既に老ひたり。と雖も。解意一たび生ぜんか使ち是れ自棄自暴ならんや。衰ひて猶ほ、伏櫪の老驥、千里の志を奮意せん。我が僧伽に若々たる、青々壯壯たる緇侶のあり。其の意気に寄依す。(後略)」
 若々しくお元気に見える管長様が「我れ既に老ひたり」とおっしゃったのには、聞いていた者たちが戸惑った。そして法要後口々に
「管長さん、頑張って大講堂の落慶法要の大導師もつとめてくださいね」と声をかけた。管長様はにこやかに「うん。うん。」とうなづいておられたが、その年の晩秋に病に倒れられて、入退院の後、平成十年六月二十二日甍去されてしまった。しかし、表白の通り、優秀な一山の方達が一丸となってその志をつぎ、白鳳伽藍復興に取り組んでおられる。
 故高田好胤猊下は、薬師寺中興の祖であり、志を立てて、真剣な努力を積み重ねれば、不可能を可能に出来ることを身をもって示された偉大な方である。今も境内で、若い坊様たちが爽やかな口調で参詣者を魅了して、仏心の種まきをしておられるのを、天上からにこやかに眺めておられるだろう。