第59回(2000年03月号掲載)

薬師寺 その1

 奈良町は田舎町ではあるが、町家が建てこんでいるので、のどかな田園風景は見られない。寒さがやわらいで、春光が射しはじめると、奈良町の人たちの心のなかに、自然への憧憬がふくらんでくる。そこで日帰りの行楽地として好まれたのが、西の京や斑鳩の地であった。朝に夕に五重塔を仰いで暮す奈良町の人々にとって、田園風景や雑木林のむこうに塔が見える風景が望ましかったのであろう。
 私たちの親の代位までの人たちは、あまり外出するということがなかったので、西の京まで行くだけでも、何日も前から楽しみにしていて、当日は朝早くから蒔絵の重箱に弁当を詰めたり、大変なはしゃぎようであった。もっともその頃は、手軽に食べられる店も少なかったからだろうが、レンゲソウやタンポポの咲く野辺に敷物を敷いて、蝶が遊ぶ菜の花畑の彼方にかすむ塔を見ながら食べる弁当の味は格別だった。
 薬師寺、唐招提寺に詣で、赤膚焼の窯元まで足をのばした人たちは、土産に買ってきた茶碗でお茶を飲みながら、春野の美しかったことや、鑑真和上のご苦労話などを語り合い「こうして元気にお詣りさせて頂けるのも、お薬師様のおかげやで」と、感謝を捧げたものだった。
 薬師寺は天武天皇と6野皇后(後の持統天皇)との夫婦愛の結晶のようなお寺である。6野讃良(うののささら)皇女は大化元年(六四五)、大化の改新が始まった年に中大兄皇子(後の天智天皇)の皇女として生れ、十三歳で父の弟の大海人皇子(後の天武天皇)と結婚された。叔父と姪の結婚なんて、現代では到底考えられないことだが、当時はさして珍しいことではなかったようだ。
 この時代、国内では中大兄皇子を中心に律令体制が整いつつあり、一応安定していたが、海外では増大した唐の勢力が、朝鮮半島にまで及び、新羅と連合して、日本と友好関係にあった百済を攻撃してきた。
 百済から救援を求められた日本は、軍を派遣することとなり、その指揮のため斉明天皇は六六一年、筑紫の行宮(博多湾付近)に赴かれた。大海人皇子も6野妃と共にこの軍に従われ、妃は六六二年、筑紫の那津で草壁皇子をお産みになった。身重な身体を陣営で過ごし、鄙離る土地での出産は、それだけでも大変なご苦労であっただろう。
 斉明天皇も行在所で崩御され、百済への救援軍は白村江で大敗した。中大兄皇子は天智天皇となり、唐の襲来に備えて都を近江に移して、六六八年、正式に即位された。この頃から、天智天皇と大海人皇子の間に、天皇の後継者問題をめぐって不和を生じ、身の危険を感じた大海人皇子は出家すると称して、吉野山に身をかくされた。
 その年(六七一)の十二月三日、天智天皇がお亡くなりになり、お子様の大友皇子が、後を継いで弘文天皇となられた。翌六七二年、壬申の年の六月二十四日、それまで我慢に我慢を重ねていた大海人皇子は、このままでは却って危険と、吉野を出て和射美ヶ原(今の関ヶ原)に陣を構えて近江の宮を攻める、いわゆる壬申の乱をおこされた。
 二十四日に吉野を出られた時は四十人位であったのが、鈴鹿を越え、四日市を通って四日目に和射美ヶ原に着いた時には、日頃から大海人皇子を慕って従軍する人が、行く先々で雪だるま式に増えて数万人になっていたというから、皇子のお人柄が偲ばれる。6野妃は命からがらの吉野逃避行から激しい壬申の乱まで、常に皇子と行動を共にして戦われ、壬申の乱に大勝した大海人皇子が、飛鳥浄御原の宮で即位して天武天皇となられてからは、皇后として政務を助けられた。「日本書紀」に「皇后、始より今に迄るまで、天皇を佐けまつりて、天下を定め給う」とある。天皇にとって皇后は、単に愛する妻というだけではなく、どんな場合でも心を許せる同志であり、良き協力者として生死を共にした、かけがえのないベターハーフであった。
 その大切な皇后が、天武九年(六八○)に、重い病に伏せられたので、天皇はその平癒を願って薬師寺の造営を発願されたという。天皇の熱意が叶えられて、皇后の病気は奇蹟的に早く快復されて、恩赦が行われた。ところが、こんどは天皇が発病されたが、百僧の得度が行われて、これも快癒され、翌年の二月二十五日には、天皇・皇后お揃いで、大極殿に出御されて、浄御原律令編纂の開始を宣せられたという。
 この時、造営を始められた薬師寺は、現在の地ではなく、後の藤原京の右京八条三坊(今の橿原市木殿のあたり)の地で、今も金堂、東塔、西塔の礎石が残っていて、本薬師寺址と呼ばれている。藤原京といえば、持統天皇になってからと思うが、藤原京跡から出土する木簡に、天武十一年〜十三年のものが発見されたというから、天武天皇ご在世の頃から、藤原京造都の計画があったようだ。
 天武天皇は、まだ薬師寺が完成しない朱鳥元年(六八六)の九月九日、国をあげての祈りもむなしく崩御された。皇后は、その後を継いで即位され、第四十一代、持統天皇となられた。持統天皇は先帝の遺志をついで、薬師寺の発願から十八年後の文武二年(六八九)に立派に完成させられた。
 天皇はその時既に文武天皇に譲位して、持統太上天皇なっておられたが、東西の塔を備えた金堂を見上げながら、夫婦結晶の寺として夫を追慕し、感涙にむせばれたことだろう。まさに愛のリレーのゴールインである。この愛は、天皇ご夫妻だけにとどまらず、ひろく国民全体にお薬師様のご利益を蒙らせてやろうとの大きなご慈愛であったと思う。
 私は薬師寺創建の由来を考える度に、愛とは人から与えられることを待つばかりではなく、相手が今何を必要としているかを考え、それに対応できる努力をするべきであると思う。これは一家庭、一国家にとどまらず、人類愛・地球愛にまで言えるのではないだろうか。
 薬師寺は養老二年(七一八)藤原京から平城右京六条二坊の現在地に移された。言い伝えによると、その頃、この土地は低地であったそうだ。地上げをするために近くにあった龍王山の土を取って埋め立てたが、まだ足りないのでどんどん土を取ったのが七条大池になったという。七条大池は「万葉集」に詠まれた「勝間田池」であると言われている。
 この大池の西畔から見る風景は素晴らしい。若草山のなだらかな稜線や大仏殿の大屋根を遠景として、池の彼方に薬師寺の金堂や東塔・西塔などが一望できる。「凍れる音楽」とフェノロサを感嘆させた創建以来の東塔、薬師寺一山の総力を結集して再建された諸伽藍が池の水面に映る姿は、龍宮城を見ているようである。
 龍宮城といえば、薬師寺の塔には次のような伝説がある。昔、ある工匠の夢に、天竺から渡ってきた薬師如来が現れて、塔の建立を命じられた。それから工匠は、毎日図面を引いて苦心したが、どうしてもうまくいかなかった。そんなある夜、また薬師如来の夢のお告げで、龍宮城内にある立派な塔を見ることが出来た。工匠はただちにその姿を写し取って、遂に完成したのがこの東塔だということだ。
 この塔は一見六重の塔に見えるが、各層に裳階がついた三重の塔である。各層の堂々たる屋根と、それよりもやや小さく繊細な、裳階とのリズミカルな美しさが「凍れる音楽」と評されたのであろう。
 塔上の相輪上部の水煙には、飛天が透かし彫にされている。一番上部の天女は蓮華を持って天から降下する姿、中の天女は散華供養をしながら飛翔する。下の天女は横笛を吹いて天上の楽を奏する。澄み渡った秋空の中を、爽風に天衣をひるがえして花を散らし、音楽を奏でる天女の姿を、会津八一氏は、
すいえんの あまつをとめがころもでの ひまにもすめる あきのそらかな
と詠い、境内にはその歌碑がたっている。また、歌人の佐々木信綱氏が、
逝く秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲
 とうたわれているように、天平二年(七三○)に建てられ、天禄四年(九七三)の大火にも焼けず、享禄元年(一五二八)の筒井順興の乱でも焼け残って、創建時代の面影を残すこの塔は、薬師寺のシンボルであると同時に、古都奈良を代表する風景の一つであった。
 今の薬師寺は若々しい活気に満ちて、白鳳伽藍の復興に邁進するエネルギッシュなお寺である。しかし、昭和四十年代位までは、滅びの美学を感じさせる静寂なお寺であった。西塔は礎石だけが残っていて、その心礎にたまった雨水に写る東塔の姿が美しいと言われていた。
 金堂は享禄元年の兵火で焼失した直後から再建されたものであったが、四百年余りの歳月にはかなりの傷みが目立っていた。しかし、シルクロードの文化を結集したような薬師三尊の威厳は、東方にあるという瑠璃光に満ちた浄瑠璃世界の主佛にふさわしいものがあった。かつては金色に輝いておられたのであろうが、兵火にかかり、千二百年余る歳月を経て、つやつやとした深い光沢のある黒褐色に変わられたお姿は、拝する者を魅了せずにはおかない、荘重な美しさを持っておられる。豊満なお顔に、整った鼻筋、切れ長な目、やさしく語りかけて下さりそうな唇。流麗な衣文を描く薄い法衣を召されて、ゆったりと両足を組まれた豊満なお姿は、一切衆生の病気を治すとか、飢えている人に食事を与えるなど、十二の誓願を持つ仏様にふさわしい雄渾さだ。見逃してはならないのは、薬師如来がお坐りになっている台座だ。台座は宣字形(上部と下部が左右に長く中間部が細い)で、上框の側面には西域から伝わった葡萄唐草が刻まれている。私がシルクロードを旅した時、葡萄の木が多いのに驚いたが、インドで一番早く仏像が制作され始めたマトゥラーの博物館にも、これとそっくりな葡萄唐草が描かれた壺が
あった。ギリシャ辺りから仏教東漸の道を通って、到達した文様だろう。堅框にはペルシャ風の蓮華文、四方の鐘板の風字形の枠内には裸形のユーモラスな鬼人が浮き彫りされている。これもマトゥラー博物館にあったクペラという蛮人の絵によく似ているから、インドから来たものだろう。下框の四面の中央には、東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武と、中国思想の四神が刻まれている。まさにシルクロードの文化を網羅した異国の香り漂うデザインで、シルクロードの終点は奈良といわれる由縁である。
 本尊に向かって右には日光菩薩、左には月光菩薩が脇侍として立っておられる。どちらも本尊に向かって内側の足をしっかり立て、外側の足を少し遊ばせて、腰をひねり重心を本尊側にかけた優婉な姿である。豊満な胸、ウエストの深いくびれ、張りの有る腰部はギリシャ彫刻のようにリアルでいて、荘厳さを備えている。宝冠をつけ豪華な蓮華文の胸飾や花文の瓔珞で装われた菩薩様や本尊様も旧金堂の時は雨曳りのするお堂で風雪に耐えて来られたようだが、昭和五十一年に白鳳の面影の金堂が復興して、満足気に納まっておられる。
 毎年、三月三十日から四月五日までは、薬師三尊を色とりどりの花で荘厳する薬師悔過の修二会花会式である嘉承二年(一一○七)、堀河天皇が薬師如来に皇后の病気平癒を祈願され、本復された皇后が宮中の采女たちと共に、造花を作って献華されたのが始まりと伝えられる、薬草で染めて作られた、梅、桃、桜、藤、椿、百合、杜若、山吹、牡丹、菊の十種の造花が、十二の瓶に生けて荘厳される。現在この花は、明治時代に薬師寺から帰俗した奈良市菩提山町の橋本家と、寺侍の家柄であった西の京の増田家によって造られているそうだ。花会式は「薬師悔過」の法要なので、練行衆のお坊様たちは法要の七日間、俗塵を断ってきびしい修行に明け暮れ、すべての罪けがれを払い、国家繁栄、万民豊楽、天下泰平、五穀豊穰、仏法興隆を祈願する、不眠不休の荒行を行う。
 しかし参拝者にとっては、金堂が最も華やいで美しく、舞楽や、お献茶、お献香、お献華や百華能が奉納されたり、境内には野点席もあって、柴燈大護摩や、締めくくりの鬼追式など、見どころいっぱいの楽しい春の法要絵巻である。