第58回(2000年02月号掲載)

行基菩薩 その2

 行基菩薩は正規の手続きを経て得度した官寺の僧であった。ここであえて、正規の僧というのは、当時律令によって、官許を得ないで出家する私度僧を厳重に禁じていたからだ。
 僧尼令によると、すべての僧尼は静かに寺の中にいて、仏の教えを受け、仏の道を伝え、国家の安泰を祈念すべきであるとされていて、民衆教化を禁止していた。従って、僧尼が呪術を介して民衆と接触することを最も警戒していた。山林での修業や乞食でさえ、届出を義務づけていた。
 一方民衆は、度重なる遷都による都の造営のために、疲れ果て貧苦にあえいでいた。こうした時代に行基様は、保護され恵まれた環境にある官寺を出て、野に下って、僧尼令違反の弾圧を受けながら、民衆に対して仏の教えを説き、社会福祉事業を行って民衆の救済を図られた偉大な僧である。
 行基様は民間伝道と並行して、池・溝・樋・堤など、潅漑施設を造営して農業の振興に努められた。狭山池をはじめ、菰池・大島池・昆陽池など、手がけられた池の改修十五のうち八つが和泉の国に集中しているが、これは、行基様自身の出身地であるからという理由ではない。この地が須恵器の生産地であったため大量の薪木を必要とし、山林を伐採したため山の貯水量が減じ、大雨が降れば水害をおこし、雨が少なければ水不足に悩んでいたのだ。したがって、和泉国における池の修築は、潅漑用水の確保と災害防止に大きな役割を果たした。更に行基様は、豊かな土木に関する知識を駆使して溝を掘り堤を築き、川を整備して水利と水害対策を図られたので、農民達は新しい田畑を拓いたりして、生活が安定した。喜んだ人達は、行基様が何かを計画されると、こぞって労力を提供したり、地方豪族は資金や物資の協力を申し出たので、仕事は日ならずにして成るといわれ、群衆は行基様のお説法を心の底から受け入れて仏道に帰依した。
 行基様のこうした事業は、今なら上下をあげて賞賛される善行なのだけれど、当時は、養老元年(七一七)四月一日に発せられた詔により、僧尼令に違反するとして禁圧を受けておられた。しかし、あまりにも大きい成果と、民衆の信仰ぶりを認められたのか、天平三年(七三一)八月七日には、「行基法師に随逐する優婆塞、優娑夷(正式な僧ではないが、仏教を信仰し修業する男女)らの、男の年六十一以上、女の年五十五以上は入道をゆるす」と
いう詔を出しておられる。働き盛りで、最も多く調・庸の物納税を負担する人達は、政府の貢納力確保のために除外されているが、それまでの禁圧に比べると、大きな譲歩である。
 奈良時代は、朝廷のご威光が、北海道と沖縄を除く、ほぼ日本全国に及んでいた。従って各地から都への使節も多いのだが、道中の河に橋が無いため、大水の時などは何日も河を渡ることができず、難渋していた。そこで行基様は、泉川(木津川)に泉大橋、木津川、宇治川、桂川が合流する山崎に山崎大橋、淀川に高瀬大橋(守口市のあたり)など、六つの橋を架け、道や船着場の整備をして、交通の便も図られた。

 大宝律令によると、庶民の税負担は物納で、租・庸・調が課せられた。
【租】いわゆる年貢米である。六歳以上の男子は、口分田二段(女子は三分二)を貸与され、段当り租稲二束二把を納める。(標準収穫は段当り五十束位)国衙(国司の役所。国司は知事のようなものであるから、県庁にあたる)は収租の大部分を、その地方の行政費に充当し、一部を都に運ばせて、政府官人の食料に供した。
【庸】正丁(男二十一〜六十歳)、老丁(男六十一〜六十五歳)、少丁(男十七〜二十歳)が、庸・調を課せられた。正丁が年に十日間、都で宮殿の造営などに働くのが建前であるが、実際には往復だけでも大変なので、庸布と言って、正丁一人につき、長さ八尺五寸、幅二尺二寸の布を代納した。ただし、都と畿内の民は不課とされ、代わりに臨時にしばしば召し出されて働いた。
【調】絹・あしぎぬ糸・麻布・鉄・鍬・塩・魚など、その土地の特産品が、産出に応じて課せられた。
 当時、調として都に運ばれた食料を貴族の食膳から推定しても、常陸の若布、安房のあわび、武蔵の味噌・ふな、伊豆の鰹、駿河の鮫、尾張の塩、志摩の若布、河内の酒、備前の醤(ひしお)、阿波の若布、讃岐の塩、伊予の鯖、備前の米、周防の塩、肥後の米、筑後の鮎、長門の海草、出雲の海苔、但馬の赤米、丹後の赤米、近江の乳製品(蘇など)、越前の大豆などがあるという。(奈良パークホテルの「天平の宴」の栞より)

 これらの租や調は、すべて人力によって運ばなければならない。運搬夫に充分の食糧を持参させると、税物の運搬量を少なくしなければならない。すこしでも税物の量を増やそうと、持参する食糧を少なくすると餓死者が出る。庸として都に出向いた人も、運搬夫も、帰郷の際に飢餓のために倒れるものが多く、重大な社会問題になっていた。例えば、和銅五年(七一二)正月十日の詔に「役民は、郷に還る日、食糧は絶乏し、多く道路に餓え、溝壑(溝や谷)に転び填ること、その例少なからず。国司らは宜しく勤めて撫養を加え、賑恤を量るべし。」とある。天皇のお耳にまで達するのであるから、働き盛りの頑健な人達が、沢山餓えて死んだのであろう。一般住民も、自分達が食べるのが精一杯で、救いの手をさしのべる余裕さえなかったのだろう。
 行基様は道の要所要所に布施屋を造って、困窮する人々を宿泊させ、食事や、病人には薬を与えて救済しておられる。布施屋は山城国に二ヶ所、摂津の国に三ヶ所、河内国二ヶ所、和泉国二ヶ所の九ヶ所に及び、その人達から生き佛様と尊ばれた。
 行基様はご自分の生誕の地に建てられた家原寺を始めとして、造営された施設の傍らには、それを管理したり、伝導したりする寺院を建てられたので、生涯に四十九の院を創建されたと伝えられる。
 四十九という数には、仏教的な意味が込められている。ひとつは、兜率天の内院には中央に弥勒菩薩が説法しておられる魔尼宮殿があり、その四周に各々十二院が置かれ、合計すると四十九院になるということだ。もう一つは、「薬師如来本願経」に、重病の人が死に面して、閻魔王の使者が死人の魂を抜いて閻魔王の前に置き、生前の罪福に従って処分されようとする時、その死者のために昼夜六時に薬師如来を礼拝供養し、「薬師経」を四十九遍読み、四十九燈を燃やし、四十九天の五色の彩幡を造るならば、死人の魂はもとに戻り、命をつなぐことが出来ると説かれている。
 行基様の没後に、弥勒信仰や薬師信仰が高まり、前記の四十九という数をあてはめて、四十九院と呼ぶようになったものと思われる。行基年譜によると、行基建立の寺院は五十三ヶ寺もあるそうだ。
 それにしても記録に残っている寺院は、大和・山城・河内・和泉・摂津の五畿内で、私が坂東三十三ヶ所巡礼の時、寺伝で行基菩薩創建とされていた、神奈川・栃木・茨城・千葉各県にあった、寺院の名前は見当たらない。まして、岩手県から宮城県に至る六百四十四ヶ寺もある、行基菩薩ゆかりの寺院全部にまでは足を伸ばしておられないだろうけれど、高野聖が布教や勧進のために諸国に出向いたように、行基様の信者集団の人達が、なんらかの足蹟を残しておられるのではないかと推測される。
 とにかく行基様は度重なる弾圧にもめげず、今、人々が何で悩んでいるのか、社会は何を求めているのかに真剣に取り組み、それを解決するべく社会福祉事業をおこし、その地に布教のための道場を建てていくうちに、民衆の絶大な信頼と、豪族の強固な支持を得るようになった。
 天平十五年(七四三)十月十五日、聖武天皇は仏教の興隆によって、鎮護国家、万民の平安を願って、巨大な盧遮那仏(大仏)造立の詔勅を出された。前代未聞の国を挙げての大事業である。この大事業を完遂させる為には、どうしても畿内に大きな組織を持つ行基大徳の協力が必要であった。行基大徳は、その時七十六歳になっていたが、自ら弟子達をひきいて積極的に勧進におもむき、大勧進の役を果たされた。聖武天皇は大僧正の位を贈って、その功に報いられた。以降も最後まで大仏建立に尽力を惜しまなかったが、大仏開眼会を待たず、天平二十一年(七四九)二月二日、行基大僧正は平城京右京の菅原寺(現在の喜光寺)で大往生を遂げられた。享年八十二歳であった。遺言により、遺体は生駒山の東方の丘で火葬され、遺骨は北方四百メートルの丘に埋葬された。
 千田稔先生の著書によると、行基菩薩の入寂から五百年近くたった文暦二年に(一二三五)その墓所が掘られた。その理由は、天福二年(一二三四)六月二十四日、行基菩薩が僧慶恩に、次のような託宣を下されたからだ。
「自分が誕生して以来五百六十七年、入滅して四百八十六年、教化した因縁はすでに尽きてしまった。滅度して久しいと言えども、仏法の教えの心はこみあげてくる。世は栄えても、人々は不信感をもち、牛馬は乱暴である。速やかに不浄を除き、崇敬せよ。もしこれに疑いの心をもって自分の教えに従わないのなら、災火が起こり、この地の周辺は不安となろう。…自分の墳墓の上に石塔があり。…舎利二粒を納めている。来る二十六日の辰の刻に開いてみよ。また自分のことについては、和泉国大島郡善光光寺に記したものがある。」
 託宣に従って六月二十六日に石塔を開いてみたところ、託宣の通り舎利二粒があらわれた。それを見た多くの人達は疑念を持って、この石塔は近年建てられたもので、舎利が出てくることは、良くないことが起こるのではないかと、ささやきあった。気味が悪く、恐ろしかったのだろう。その後も何度か託宣や瑞祥があった後、翌文暦二年八月十一日に、また託宣が下りる。
「自分は衆生利益のために人に託宣する。重ねて瑞相が現れた。しかし信ずるものは少ない。今月の二十五日に、自分の墓所を開き、疑念をはらせ。ならば仏法の徳があろう。このことを信じないでおれば、むなしく月日を送り、たちまち災火にあい、近隣の里を焼き尽くしてしまうであろう。」
 墓を掘るということは、土地の人達にも迷いがあり、なかなか決断がつかなかったが、八月二十五日に遂に墓所は掘られた。八角形の石塔が姿を現した時、瑞雲がたちまち天高くのぼり、小雨がわずかに降ってきた。この石塔を開けると、中に二重の銅筒があり、内側の銅筒に「大僧正舎利瓶記」なる銘文が刻まれていた。その銅筒の中に更に銀瓶があり、その蓋には瓔珞がかけられ、瓶の頸につけられた銀の札には「行基菩薩遺身舎利之瓶云々」という銘があったそうだ。これにより、当地が墓所と確認され、行基信仰が高まって、竹林寺が建てられた。寺は明応七年(一四九八)兵火にかかり衰えたが、慶長七年(一六○二)徳川家康から朱印状を受けて復興した。しかし、江戸時代中期にまた衰え、近年まで荒れ果てていたが、行基菩薩千二百五十年御遠忌にあたる平成十年、本堂が復元されて落慶法要が営まれた。奥山往生院は、菩薩火葬の地と伝承され、五輪塔が遺されている。ここでは今も奈良行基会によって、毎年四月二日には法要が営まれている。奈良行基会の会長は、近鉄奈良駅の駅前に行基像を建てた鍵田忠三郎氏のご子息、忠兵衛氏である。
 お水取りの名で親しまれている東大寺修二会で、毎年読み上げられる過去帳には「大伽藍本願聖武皇帝(聖武天皇)」「聖母皇太后宮(光明皇后)」についで、三番目に「行基菩薩」の名が記されている。このことは、大仏建立に行基様がいかに貢献されたかを物語るものである。
 近鉄奈良駅前の噴水の上の行基様の像は、今も大仏殿の方向に向かって立っておられる。