第57回(2000年01月号掲載)

行基菩薩 その1

 近鉄で奈良を訪れる人の多くが、奈良駅を出て最初に目にされるのは、噴水の上に立っておられる行基さんの像だろう。「○時に行基さんの前で会いましょう。」と待ち合わせの場所にもなって、没後千二百五十年以上の年月を経ても、なお庶民に親しみをこめて呼ばれる行基さんである。
 でも、私は、この行基さんの噴水が出来るまでは、行基様は大仏建立の大勧進をつとめて、大僧正となられた偉い方くらいの認識しかなかった。
 三十年くらいも前になるだろうか、赤膚焼の窯元の大塩正人氏(先代)を訪ねた時、「市長から、奈良の大恩人である行基さんの像と噴水を奈良の玄関口である近鉄奈良駅前に設置したいので、赤膚焼で造ってくれないかとの注文を受けて、構想を練っているところだ。なにしろ、市長が夢に見たお姿と言われるのだが、どんなお姿を夢に見られたのか、思案にくれているところだ。」とおっしゃっていた。
 当時の市長の鍵田忠三郎氏は、信仰心が篤く、福祉にも力を尽くされたユニークな方であった。若い頃(昭和三十六年頃のこと)重い病気にかかって、お医者様が首をかしげるほどの状態であったにもかかわらず、歩いて四国八十八ヶ所の巡礼の旅に出られた。鍵田さんは、血を吐きながらの巡礼の途中でこの夢を見られたそうだ。車でまわってさえ大変な八十八ヶ所を、決死の覚悟で歩き通して生還された氏は、その後、奇跡的に健康を回復されて、昭和四十二年には市長に当選された。激務をこなしながら、般若心経の二百万巻読誦に邁進される等、まさに、仏教説話にでも出てきそうな市長さんである。四十四年の暮には、近鉄奈良駅が地下駅となり、翌年三月には駅ビルの完成にともなって駅前にできた広場に、市長の積年の悲願であった行基さんの噴水が実現したのである。この駅前の行基像のおかげで、歴史という雲の上の人であった行基菩薩が、民衆から行基さんと呼ばれて敬愛される存在に戻ってこられた訳だ。
 行基様は、六六八年、天智天皇が、近江の国大津宮で即位された年に、河内国大鳥郡(現在の高石市から堺市辺り)の蜂田郷でお生まれになった。お父様は高志才智(こしのさいち)、お母様は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)で、行基様はお母様の生家で誕生されたという。
 高志氏の先祖は、五世紀の半ば、応仁天皇の御代に百済から「論語」十巻と「千字文」一巻をたずさえて帰化した王仁博士であると伝えられ、現在の高石市の語源は高志氏にあるとのことである。母方の蜂田氏も百済系渡来氏族で、当時の文化の指導的存在であった。後に行基さんが、日本霊異記で語られるような不思議な能力を持っているとされたり、呪術的な行為があるとして一時禁圧を受けられたのは、道教的な神仙思想を持つ渡来神を崇敬する和泉という環境に育たれたからかも知れない。
 行基さんは天武天皇十一年(六八二)十五才で出家し、得度を受けられた。千田稔先生の説によると「天武天皇十一年八月二十八日に勅を下して、日高皇女(のちの天明天皇。都を奈良に移された天皇である)の病気快癒のため、死刑以下の罪に問われていた男女百九十八人を赦し、翌二十九日には大官大寺で百四十余人を出家させた」と日本書紀にあるので、この時、出家されたのではないかということだ。今でこそ、仏門に入りたいと志をたてて、それ相当の修行をすれば誰でも出家することが出来るが、当時は容易なことではなかった。出家することを許されるのは、貴族か豪族、又は学問や仏教に関係の深い氏族出身者に限られていた。行基さんは、西書(かわちのふみ)氏の分れの高志氏の出で、先祖は王仁博士という知的な役割を果たしてきた氏族の出身だから、その条件は満たしているとしても、そう度々一人づつ勅許が出る訳ではないから、多分その時出家されたのだろう。
 行基さんの宗教活動に大きな影響を与えたと思われる方に、道昭菩薩がある。道昭様は白雉四年(六五三)遣唐僧として入唐された。当時、唐で一番の学僧として、皇帝をはじめ、国を挙げて崇敬されていたのは、六四五年にインドから仏舎利や仏像、あまたの経典を携えて帰国された玄奘三蔵であった。道昭は、この高僧に師事して新知識を日本にもたらしたいと思ったが、「師は忙しいから」と玄奘様の弟子達に阻止されて、面会すら出来なかった。その頃、玄奘様がインドから招来した経典を納めるための大雁塔の工事が、大慈恩寺で行われていた。命を賭して持帰った経典を納めるための塔の工事を、玄奘様自身が指導監督しておられると聞いた道昭様は、身分を隠して土工として、その工事人夫に入り、玄奘様に近づいた。天才は天才を知るで、道昭様の麗質が認められて玄奘様の弟子となり、同室に住むことを許される位気に入られ、法相の教学を学び、数多の経典を携えて、斉明天皇七年(六六一)帰国して、法與寺(飛鳥寺 奈良県高市郡明日香村)に入り、東南の隅に禅院を建てて弟子を教えられた。行基様はここで、瑜伽唯識論を学ばれたのであろう。道昭様は各地をまわって、道の傍らに井戸を掘ったり、海や河の渡し場に船を備え付けたり、橋を架けるなど、多くの民衆のために尽くされた。宇治川に架かる宇治橋も、道昭様が架けられたものだという。後年の行基様の社会福祉事業も、道昭様の他利行から学ばれたものと思う。
 道昭様が住んでおられた法興寺は、飛鳥から奈良への遷都にともない、奈良に移って元興寺となった。今、世界遺産に登録されている元興寺極楽坊の屋根の一部には、行基葺というのが残っている。丸瓦がバチになっていて、下が広くなっている。上の細くなっている所へ、広い方をかぶせながら葺いていく。これは、薬師寺の高田好胤前管長と、インドの八大仏蹟を巡拝した時、お釈迦様のお生まれになったカピラ城跡の付近や、お母様のマヤ夫人の出里のラーマ国の跡近辺の民家の屋根の葺き方を指さされた。前管長様が「この瓦をよく見てごらんなさい。元興寺の行基葺の瓦とよく似ているでしょう。玄奘様がインド遊学の折、釈尊の八大仏蹟も巡っておられます。その時、お釈迦様の故里の屋根等もご覧になって、それを中国に持ち帰り、遣唐僧であった道昭様にお伝えになったのでしょう。道昭様から伝えられた行基様が、法興寺が奈良に移る時、それを指導なさったので、行基葺と言われるようになったのだと思います。」と教えてくださった。千二百五十余年を経て、今なおその瓦が屋根にのっているとは、素晴らしいことだ。
 四、五年前、坂東三十三ヶ所観音霊場を巡拝した時、神奈川県、栃木県、茨城県、千葉県と、各地に行基菩薩開基という寺院があるのに驚いた。大仏建立の大勧進をなさったのだから、喜捨を求めて、こんな遠い所まで来てくださって、そのおかげで大仏様が出来たのだと、感謝の念を新たにした。
 それから三年ばかりたった、平成十年十一月七日、全国にひろがる行基菩薩ゆかりの寺院が東大寺の大仏殿に集まって、行基菩薩の千二百五十年御遠忌を勤修された。
 伶人の道楽吹奏にあわせて進む僧侶の行列は、南大門から大仏殿まで続き、毘盧遮那仏のみそなわすご宝前での法要は、極楽浄土もかくやと思わせるものであった。その立派な法会で、私まで焼香させて頂いたのは、身の震える程の感激であった。更に、その時頂いた記念誌に載っていた行基菩薩ゆかりの寺院というのを見てびっくりした。北は岩手県から南は宮崎県まで及び、その数六百四十四ヶ寺もある。交通機関も報道機関も整わない時代に、これだけの広範囲に、なんらかのゆかりを持つということは、まさに超人だ。
 その超人ぶりが、平安時代の初期に、薬師寺の僧、景戒によって編集された説話集、日本(国現報善悪)霊異集に何編か記されているので、二、三引用させていただく。

【神通の眼力で女の頭に猪の血が塗ってあるのを見て叱った話】
 飛鳥の元興寺の村で、行基大徳をお招きして法会を催し、七日間仏法のお話を聞いた。僧俗男女集まって、皆つつしんで法を聞いていた。聴衆の中の一人の女が、髪に猪の油を塗って法を聞いていた。
 「大変くさい。頭に猪の血を塗っている女を遠くに追い出せ。」と叱った。女は大変恥じて出ていった。凡人の肉眼では油の色にしか見えないのだか、聖人の神通眼は現実に獣肉の血を見たのである。行基大徳は日本の国に於て、菩薩が人の姿となって現れた聖人である。

【蟹と蛙の命を助けて、報いを得た話】
 鯛女(たいめ)は、奈良の登美の尼寺(行基の建てた寺の一つ)の上席の尼、法爾(ほうに)の娘であった。ひたすら仏道を求めて、一度も男と交わらなかった。いつも真心をこめて摘んだ菜を、毎日行基大徳に差し上げていた。
 ある時、山で菜を摘んでいて、ふと見ると、大蛇が大きな蛙を呑込もうとしていた。鯛女は蛇に向かって「私に免じて蛙をゆるしてください。」と頼んだが、蛇は聞かないで、なおも呑んだ。娘はふたたび、「私がお前の妻になるから、どうか許してやってください。」と言った。蛇はこれを聞くと、頭を高くもたげて女の顔をみつめ、蛙を吐き出した。鯛女は蛇に「今日から七日過ぎたら来なさい。」と言った。
 約束の日になって、鯛女は家の戸を閉め、穴をふさいで、家の中でちぢこまっていると、本当に蛇がやって来て、尾で壁をたたいたが、内に入ることは出来なかった。鯛女は恐れて、翌日、当時生駒の山寺に住んでおられた行基大徳を訪ね
て、事の次第を打ち明けた。
 大徳は娘に向かって「お前は逃れることは出来ないだろう。ただ、仏心堅固に戒を受けなさい。」と言った。鯛女は心から三宝に帰依して、五戒を受けて帰ってきた。途中で大蟹を持った見知らぬ老人に会った。「どこのお爺さんですか。どうか蟹を私にください。」と頼んだ。
 老人は「私は摂津国(今の芦屋付近)の者で、画問邇麻呂(えどいのにまろ)と申します。年は七十八才。子供はなく、生活に困っています。難波に行って、たまたまこの蟹を手に入れました。けれども、約束した人がいるので、差し上げられません。」と言った。
 鯛女は衣服を脱いで「これと交換してください。」と頼んだが、老人は聞かなかった。そこで裳(衣服の下にはいたロングスカートのようなもの)まで脱いで与えたところ、老人は蟹を手放した。
 鯛女は蟹を持って引き返し、行基大徳にお願いして、呪文を唱えてもらって、蟹を放してやった。行基は「貴いことだ。良いことをした。」と鯛女をほめてやった。
 八日目の夜、蛇がまたやって来て、屋根に登って草を抜いて、その穴から入ろうとした。鯛女は恐れおののいて、ふるえているばかりだった。その時、床の前で騒がしい音がした。
 翌朝になって見ると、一匹の大蟹がいて、大蛇はズタズタに切られていた。放してやった蟹が恩返しをしたのである。また、戒を受けたおかげである。ことの真相を知ろうと、老人が告げた場所に行って名前を言って探したが、尋ねだすことは出来なかった。老人は聖人の化身であったのだ。不思議なことである。

【行基大徳が、子を連れた女に、前世での敵を教えた話】
 行基大徳は、難波の堀江を切り開いて船着き場を造らせ、仏法を説いて人々を教え導いた。僧も、俗も、身分の高い人も集まって説法を聞いた。
 その時、河内国若江郡川派の里(今の東大阪市布施)に一人の女がいた。子を連れて法会に行ったが、その子はやかましく泣き叫んで説法を聞くことが出来なかった。その子は十才を過ぎても歩くことが出来ず、いつも泣いて、乳を飲み、たえまなく物を食べていた。
 大徳は女に「女よ、お前の子を連れ出して淵に捨てなさい。」と言った。人々はこれを聞いて、ひそひそと話し合った。
「慈悲深い聖人なのに、一体どうしてあんなことを言われるのだろう。」女は我が子可愛さに捨てず、なおも子を抱いて説法を聞いた。
 女は次の日も子を連れて説法を聞きに来た。子はなおも激しく泣き叫ぶので、聴衆はそのやかましさに邪魔されて説法を聞くことが出来なかった。大徳は女に、「その子を淵に投げ捨てよ。」ときびしく言った。女は不思議に思ったが、大徳の言う通り、深い淵に投げ捨てた。
 すると子は水の上に浮かび上がって、足を踏み、手をもみあわせ、目を大きく見張って「なさけなや。あと三年間おまえから取り立てて、食ってやろうとしたのに。」と叫んだ。
 母は不思議に思って法会の席に戻って説法を聞いた。行基大徳が「子を投げ捨てたか。」と聞いたので、女が出来事を詳しく話すと「お前は、前世であの子の物を借りて返さなかった。そこで今、子の姿になって、貸した分を取り上げて食うのだ。あの子は昔の貸主だ。」と言った。ああ恥ずかしいことだ。人から借りた物を返さないで、どうして死ぬことができよう。後世に必ずその報いがあろう。
 出曜経に「他人から銭一文分の塩を借りたので、後世牛に生まれて、塩を背負って使われて、貸主に返すのだ。」と言っているのは、このことである。
 現代の感覚からいくと、少々納得しがたい点もあるが、因果応報を説くのには、お見事。また、行基菩薩の常人ならぬ洞察力を物語っている。