第56回(1999年12月号掲載)
奈良と京都の
県境付近の伝承と昔話
二 昔語り 昔話というのは「むかしむかし、ある所に……」で始まる、時代も場所も特定できないお伽話といったイメージがある。今ここに記そうとしている話は、奈良市写真美術館の専務理事をしておられる村田昌三氏が編纂された「奈良阪町史」に、町の古老から聞き伝えられた「よもやま話」として書かれたもので、時代ははっきりしないが、場所は略特定できるので、昔語りとでも言うべきだろうか。
 現在の青山団地の開発が始まったのが昭和五十八年(一九八三)。二十年足らずで、明るく近代的な住宅団地になったが、百年ほど前までは、この辺りを狼が横行していたり、狸や狐にだまされた話をしても違和感がないほど、自然一杯の所だったという。新旧の対照が面白いので、この中からいくつかを引用させていただく。

▼「狼の恩返し」と狼雑感
 昔、現在の青山団地一帯は狼谷と呼ばれ、狼が沢山いたそうである。夜になると時々山で狼が遠吠えをすると、市坂や梅谷などの村々では「牛がおびえて牛舎で暴れて困った」という話が残っている。
 昔、托鉢巡礼の僧が、奈良から加茂・笠置への道中、狼谷辺りを通りかかると、いつも決まって一匹の狼が出てきた。はぐれ狼か、仲間外れにされた狼だったのだろう。僧は、いつも竹の皮に包んだ弁当の握り飯を取りだして、狼に投げ与えて、恐る恐るその場を逃げるように通り過ぎていた。
 ある日のこと、狼は僧の衣の裾をくわえて放さず、山の中へ僧を連れ込もうとした。僧は逆らえば却って襲われるだろうと思って、こわごわ狼について行くと、小さな洞穴があって、僧はその中に連れ込まれた。
 しばらくすると、周辺にドドーツと山鳴りのような大きなどよめきが起こったかと思うと、狼の大群が洞穴の前を横切って山の中に消えていったそうである。
 僧は生きた心地がしなかった。もし僧がいつものようにこの道を歩いていたら、狼の大群に出くわして餓狼の餌食になっていただろう。狼は、僧に日頃の恩返しをして、その命を救ったのであった。
 百科事典によると、「狼は夏は雌雄一対で暮らし、冬になると群れを作って鹿などの獲物を探す。一日に数十キロも歩き回り、また、何時間も走ることができる。食べ物が少なくなると、数十匹の大群となり、しばしば人畜を襲うことがある。」とある。
 また、北村信昭氏著「奈良いまは昔」には「春日山の狼」と題して、「文久元年(一八八一)四月二十五日、当時春日山
の狼に鹿が盛んに喰われるので、四方から猟師を募り、狼狩りをやらせた。たまたまペアで行動していた久八、久吉の二人が、深夜、鹿道(ろくどう/現在の万葉植物園の入口辺り)に現れた二頭の狼の内、久八が雄狼の方をうち取った」とある。
 この狼の頭から尾際まで二尺九寸五分、尾の長さ一尺三寸五分という大きなもので、その狼の実測図が春日大社の貴重品台帳に記載されて、大切に保管されているそうである。
 これほど日本各地に沢山棲息していた狼も、その餌となる動物の減少にともない、牛、馬、鶏などの家畜に被害を与えるため、それを防ぐための駆除、狂犬病の流行などが原因となって、江戸時代中期以降激減し、明治三十八年(一九〇五)奈良県吉野郡鷲家口で捕獲された雄の一頭を最後にして、日本狼は絶滅した。
 この狼の遺体は、大英博物館の委嘱で、日本の動物の蒐集に来ていた、米国人アンダーソンに買い取られたが、すでにもう剥製にできる状態ではなかったので、頭骨だけを持ち帰り、今も大英博物館に保管されているということだ。
 西洋の童話などで狼は狡る賢い悪者役を演じているようだが、日本では、狼は人の言葉を解し、人の性の善悪を見分けられる山の神の使者という考え方もあつた。民話には、先の話のように、群狼から生命を守ってくれたとか、足のトゲや、ノドに刺さった骨を抜いてやったお礼に、狼が獲った鹿の片足を庭へ置いていったとか、恩義に報いる律義者として、日本各地で登場する。人々に恐れられながらも畏敬されてきた。狼の最後の一頭が奈良県内の山で孤独をかこっていたであろうと思うと、感慨深いものがある。このほど発売された20世紀デザイン切手第2集にも日本狼絶滅が取り上げられている位、怖いなりにも身近な動物だつたのだろう。

▼高座のジャンジャン火(源五郎火)
 高座は青山住宅団地の北方一帯にあたり、奈良と京都の県境に位置する。昔この高座に大きなクヌギの木があって、その辺りに夜な夜なタライほどもある大きな人魂が出たそうである。この人魂を「ジャンジャン火」とも「源五郎火」とも言われた。
 いつの頃か、木津の市坂に源五郎という力持ちの無法者がいて、他人に迷惑ばかりかけていたそうだ。
 米を供出する日の出来事である。米の供出は村ごとに決められた場所に持ち寄ることになっている。村人達が持ち寄った米俵で、この日も若い衆の力比べが始まった。力自慢の若い人達も、源五郎の力に及ぶ者は誰もいなかった。そこで若い衆は相談して、日頃のうっ憤を晴らそうと、源五郎に「腹の上に何俵乗せられるか」と持ちかけた。腕力にも体力にも自信のある源五郎が、やってみろとばかりに大の字に横たわった。源五郎が横になると、腹の上に十三段ハシゴを置き、この時とばかりにその上に皆で一挙に十数俵も乗せた。さすがの源五郎もとうとう内蔵圧迫で死んでしまったそうである。(ここで興味深いのは、もしそういうことがあったとしたら、過失傷害致死で、若者達は取り調べを受けたり、町中大騒ぎになったであろうに、そんなことはさらりと省略しているところが、昔話の面白さであろう)
 これを恨んだ源五郎は、人魂になって、自分の田の近くにある一番高いクヌギの木に現れて、ここを通る若い衆に襲いかかると恐れられていた。
 ある日の夜更け、市坂の若い衆が数人で奈良で飲んでの帰り道、高座まで来ると、東の方の高い木の上に、赤い大きな火の玉があるのを見つけた。酒の勢いで、誰かが「オーイ源五郎火ョー」と叫んだそうである。たちまち大きな火の玉が「ジャンジャン」と大きい音をたてて、若い衆の頭の上までやってきた。若者達は恐れおののいて地に身を伏せて、近くにあった大仏鉄道のトンネルに逃げ込んだ。すると、火の玉は追ってきて、トンネルの両口でジャンジャンと音を立てて出口を塞いだので、出るに出られず、とうとう夜が明けるまでその中で震えていたそうである。
 大仏鉄道といえば、明治三十一年(一八九八)から明治三十九年(一九〇六)まで奈良と加茂間を走っていた短命な鉄道で、それが廃線となってからとしたら、まだ百年もたたない頃の話である。ジャンジャン火が出入口を塞いだというトンネルは、元明・元正天皇の御陵へ行くのに、私も何度か通ったトンネルではないかと思うが、今はドリームランドやゴルフ練習場ができて、夏場は人魂ならぬ、花火が夜空を焦す所と思えば、今昔の感にたえない。
 ジャンジャン火といえば、奈良盆地の南の方にも、これによく似た話が残っている。
 天理市柳本町の東方にある竜王山の山上には、大和の国大名であった十市遠忠が天文年間(十六世紀の中頃)に築いたといわれる十市城の跡がある。十市遠忠は松永久秀に攻められて、この城で憤死したので、その恨みが今も残っていて、妖しい火の玉が出るという。雨が今にも降りそうな重苦しい夏の夜、城跡に向かってホイホイと呼ぶと、火の玉が飛んできてジャンジャンと音をたてて消えうせる。それを見た者は、二、三日熱にうかされるといって恐れられ、この火の玉を、ホイホイ火とか、ジャンジャン火とか呼ばれている。
 また、桜井市巻向の辺りでは、山上に今も残っている遠忠の恨みが、時々火の玉になって現れる。それに向かって、オーイと呼びかけると、火の玉はジャンジャンとうなりながら、焼き殺しに来るといわれている。ジャンジャン火はザンネン火とも呼ばれるらしいから、奈良阪のジャンジャン火も源五郎のザンネン火だったのだろう。

▼狐に化かされた話
 昔、黒髪神社一帯は赤松や雑木が生い茂るうっ蒼とした所であった。道も狭かったが、この道を西に行くと、十八丁谷を経て、法華寺・佐紀を通って、暗がり峠を越える、大阪への近道であった。
 ある日、奈良阪の魚屋さんが、朝早くから家を発って大阪へ仕入れに行った。歩いて大阪まで往復するのであるから、黒髪山辺りまで帰って来ると、夜も更けていた。その日は闇夜で、まっ暗な狭い道を歩いていると、急に道が曲がって見えて、崖に足をとられて転んだ。しかし荷物はしっかりと背負っていたそうである。ふと足を見ると膝から血が出ている。とっさに鉢巻をとって膝をくくり、あわてて家に帰った。家に帰って傷の手当てをしようと膝の手拭を取ったところ、不思議なことに膝には何の傷もなかった。しまった狐にだまされたと、荷物を調べたら、大きなタコが一匹盗まれていたそうである。まる一日、歩き通して持ち帰
った魚屋さんにとっては、さぞ残念なことであったであろう。
 また、十八丁谷辺りは、狐が沢山いるので有名だった。村の人達が十八丁谷の辺りまで来ると、急に道が分からなくなったり、山中で同じ道を歩き廻っていたり、野壷で行水させられたり等々、狐にだまされた話が村中に広まった。
 村の若い衆が怖いもの見たさで「皆で狐にだまされに行こう」と相談がまとまった。彼等は狐の好物といわれる「天ぷらや油揚」と「蚊帳」を用意して十八丁谷まで行って、酒盛りでもしながら、蚊帳の中で一晩過ごして狐の出方を見ようというのである。どんな怖い事があっても、途中で挫折しないと互いに誓い合った。
 宵の内は皆元気がよくて、持ってきた天ぷらなどの包みを、取られないように側の木にくくり付けて、酒を飲みながら見張っていた。夜も更けて皆が眠くなってきた頃、一人の若者の奥さんが「急病人ができたから、すぐに帰ってください。」と呼びに来た。
 若者はしかたなく、皆の許しを得てあわてて家へ帰った。さぞ大騒ぎしているだろうと思った家には、明かりもついてなく、家族は皆寝静まっていた。彼は眠っていた奥さんを揺り起こして、「十八丁谷へ呼びに来なかったか。」と聞いたが、奥さんはそんなことは知らないという。そこで、やっと狐の仕業と分かったが、怖くなって直ぐには十八丁谷へ戻ることはできず、夜の明けるのを待って、急いで行ってみると、皆はまだよく眠っていた。起こして、皆で木にくくり付けておいた天ぷらなどの包みを開いてみると、中には何もなかったそうである。
 この話を読んで、私が子供の頃、黒髪神社にお参りすると、昼なお暗き感じで、気味が悪かったのも、記憶違いではなかったのだなあと、往時を回想した。
 話は変わるが、四、五年前、奈良自動車学校の職員があやめ池から学校への道を走っていたら、犬がクルマにひかれたのか、道の真ん中に横たわっていたそうだ。二度びきされてもいけない、と思って、道のかたわらに寄せようと、クルマから降りて触ってみると、まだ息があるようなので、クルマに乗せて学校まで帰ってきた。明るいところで見ると、犬だと思っていたのは狸で、クルマにひかれてかなりひどい怪我をしていた。幸い、その時の生徒さんに獣医さんがおられて、手当てをしてくださったので、元気になるまで学校で飼っていた。お弁当の残りやドッグフードを貰ってすっかり馴れていたが、寒い時、暖房の効いた部屋に入りたがるのは分かるけれども、夏になって外へ出しておくと、前足で戸をたたいて、クーラーの入った部屋に入れてくれというので、このままでは野生に帰れなくなっては、却って可哀想だというので、田原の方へ連れていって放してやった。ある時、学研都市の開発現場で、狸がよく交通事故にあって死んでいたという話をする方があって、私が自動車学校の狸の話をすると「そうなんですよ。交通事故に遭っているのは、いつも狸ばかりで、不思議と私も狐の事故に遭ったのは見たことがないんです。」とおっしゃった。
 昔話には狐や狸に化かされたという話がよくあるが、どちらかというと、狐より狸の方が愛嬌があって間抜けていることが多い。交通事故でも狐の方が素早しっこく難を逃れているのだろう。それにしても、開発が進んで、狐も狸も棲みにくくなっただろう。日本狼のように、絶滅などしないように、人間も、森や山の動物達も仲良く共存していきたいものだ。