第55回(1999年11月号掲載)
奈良と京都の
県境付近の伝承と昔話
一 伝承 奈良と京都の県境近辺は、昔から交通の要路として発展してきただけに、歴史的な裏付けをもつ、伝承や伝説が多い。

【法然上人と高座】
 京都府木津町市坂にある安養寺は、天平八年(七三六)行基菩薩によって創建され、建久七年(一一九六)と延宝元年(一六七三)に再建されたと伝えられる。安養寺に伝わる縁起によると、建久六年(一一九五)、奈良・東大寺大仏殿再建落慶法要の大導師は、大勧進職の俊乗坊重源の恩師、法然上人がつとめられた。源頼朝も参列したという有名な落慶法要の折のことである。大導師の法然上人は、念仏の意義だけを説いて帰路につかれたそうだ。ところが、これでは「教義にふれていない。」と不満をもった僧侶たちが後を追って、大和と山城の国境で追いついて論議をくりひろげた。
 すると、法然上人は、「念仏こそ最大の功徳」との説法をされ、紙に「南無阿弥陀仏」の名号を書いて「名号の功徳は大きく、石より重い」とかたわらの石と天秤にかけて、はかり比べをされた。上人が念仏をとなえられると、不思議にも石は軽々と上り、紙は大地に接した。これを見た僧や村人達は思わず一斉に念仏をとなえたという。今も奈良県と京都府の境界の辺りに、「高座」という地名が残っている。高座とは、高い位置の席、上座の意味で、法然上人がお説教された跡だという。
 上人はその後、二夜三日安養寺に泊まって、参集する人達に説法されたと伝えられる。上人が書かれたという「名号」は表装されて今も本堂に寺宝として大切に納められている。一方、はかりくらべられた石は、それから三百十三年後の永正五年(一五〇八)辰の七月二十八日、突然光明を放って、御名号を慕って、八百米も離れた安養寺の門前に飛んできたと言われ、現在、旧国道24号線沿いの御堂に安置され、「念仏石」として信仰されている。

【城山と舞台】
 県境付近の県道のすぐ西に丘陵地が、「城山」と書いて「ジヤマ」呼ばれている。
 治承四年(一一八〇)平重衡の南都焼打の際には、南都大衆はここに逆茂木(敵の浸入を防ぐため、鹿の角のようになった茨の枝を逆立てて垣に結った防禦物)引き堀をほり、追手捕手の要害としたと伝えられる。
 平重衡によって南都が焼き払われて以来、東大寺や興福寺の復興工事や落慶法要のために、沢山の工人や芸人、職を求める人達、参拝者等が押しよせた。これ等の人達の混乱を防ぐため、この丘に屋城を建てて行人を見張り、検問をしたところから、「城山」とよばれるようになった。奈良阪は重要な交通路に位置しているため、人馬の往来が多く、それにともない金品の動きも繁多であったので、それにともなう山賊や
盗人が出没したという話が、今昔物語や更級日記等に誌されている。そこで、芸人に変装した盗人や進討使等の出入を防ぐために、城山の北麓に舞台を設けて、ここで芸をさせて確認検問をしたそうだ。
 平凡社の大百科事典に、「かつては、奈良の春日大社の祭礼に派遣された勅使が、神事の終了後に、一同形相を乱して逃げ出すというならわしがあり、それは、勅使が帰途に奈良阪で盗賊に襲われて、周章狼狽して逃げ帰るのが常であったのを儀礼化したものであって、後日犯人を検挙したとして、盗品になぞらえた禄物を関係者に分与するという形式をとっていた。」とある。
 春日大社の儀式にまで奈良阪の盗賊が登場するということは、奈良阪も商家が軒を連ねる街道筋を過ぎると山賊が旅人を襲うような寂しい場所もあったのであろうし、追剥や盗人が集まってくる程の物品の往来があって繁昌していたのであろう。
 城山とか舞台の名が残っているこの辺りも、今は県道、木津〜横田線によって分断されて、道の東側は青山住宅団地の一部となり、西側にはゴルフ練習地や、飲食店等ができて、往時の面影はない。
 青山団地といえば、青山団地の南側、現在の公営プールの東一帯を東谷といって、松茸のよく採れる赤松林が連なり、シバ栗やアケビが子供たちを魅了する自然一杯の静かな所だった。その道端に、「弘法井戸」とも「シャク井戸」とも呼ばれる井戸があったそうだ。弘法大師がこの地を通られた時に、そのご指示によって掘ったと伝えられる。少し高台にあるのに、美しい水がよく湧く不思議な井戸で、この水を飲むと、シャックリがなおるとか、杓で汲める程水が豊富だったというので、シャク井戸と呼ばれるようになったという。昭和の初め頃までは、この水で「ミカン水」を作って売っていた店があったそうだが、今は、この井戸も、周辺の住宅開発でなくなってしまった。

【元明天皇奈保山東陵】
 元明天皇は、和銅三年(七一〇)藤原京から奈良へ都を遷し、それまでは、天皇がかわる度に都を新たにしていたのを、本格的な都造りによって、七代七十余年繁栄した平城京の基礎を固めて下さった天皇である。第四十三代元明天皇は、天智天皇の第四皇女で、草壁皇子の妃であった。文武天皇、元正天皇、吉備内親王のお母様で、持統天皇の異母妹にあたられる。
 夫であり、皇太子でもあった草壁皇子は、軽皇子(後の文武天皇)が七才の時に亡くなられ、持統天皇のあとをうけて文武天皇となられた軽皇子も二十四才の若さで薨去されたので、皇位につかれた。
 最近になって富本銭が日本最古の貨幣と認定されるまでは、日本で最初の貨幣と言われていた和同開珎を鋳造し、貨幣による経済を安定普及させるために蓄銭叙位令を発布されたり、「古事記」「風土記」の撰録等、目ざましい業績を残された偉大な女帝である。元明天皇は皇女の元正天皇に皇位をゆずって、太上天皇となられた後、養老五年(七二一)十二月七日薨去された。
 続日本書紀によると、太上天皇は亡くなられる前に次のような 詔 を出しておられる。「朕(私)は、万物の生命には必ず死があると聞いている。これは即ち天地の道理である。どうして、悲しむべきであろうか。葬儀は盛大にして、(人民の)生業を破壊し、服喪の規定を重んじて、生きているもの(の生活)を損なうことは、朕の最もやりたくない事である。朕が崩じた後は、大和国添上郡蔵宝山(佐保山)の雁良岑に竈を築いて火葬せよ。火葬の地をそのまま墓とし、他の場所に改葬してはならない。諡号(死後に賜る名)は簡素に『其国其郡の朝廷に宇馭天皇(あめのしたしろしめしてんのうを』とだけ称し、これを後世まで伝えるように。」
 また、追詔として「轜車(棺を乗せる車)や天皇の乗る車のこしらえには、金玉を刻みちりばめたり、絵具で絵を書き飾ってはならない。すべて彩色しない粗末なものを用い、いやしく控えめにせよ。喪儀の場所も丘を削らず、山に竈を築き、いばらを刈り土地を開いて、そこを喪葬の場所にせよ。またその場所には常緑の樹を植え、文字を刻んだ碑をたてよ。」と仰せられている。
 古代エジプトの王墓や奏の始皇帝陵のように膨大な財宝を墓に納めた後、盗掘を恐れて作業員を殺したり、インドのタージマハールでは、壮麗な墓宮殿造営にあたった技術員が、他でもこの技術を使って大理石と宝石のモザイク宮殿を造らないよう、右手首を切断したと伝えられるのに対して、高邁な慈悲の心と、生命に関する悟りを開かれた立派な方だと感服する。
 私が学校へ行っていた頃は、戦争中だったので、天皇家のというより、国家のご先祖様のお墓である御陵にお参りしたり、清掃奉仕をすることがよくあった。
 聖武天皇の御陵や、開化天皇の御陵は町の内にあって近いのだが、学校から元明・元正天皇の御陵へ行くには、廃線になった大仏鉄道のトンネルをくぐらなければならなかった。トンネルの内は、夏でもヒンヤリ涼しい代り晴天の日でも、冷たい水滴が、頭や首筋にポタポタ落ちてきたりして、気味が悪かった。トンネルを抜けると、そこは別天地のように鄙びた風景で、御陵の近くの桃畑に花が咲いている時など、さすが女帝の眠られている所といった華やぎと、桃源郷のようなおもむきがあった。今、車で走ると、あんなに遠い所だと思っていたのが不思議に思える程近く感じると共に、かつての神秘性が薄らいだ思いがする。
 文武天皇の第一皇子の首親王(後の聖武天皇)は、父君の文武天皇が亡くなられた時、わずか七才であったため、お祖母様の天明天皇が即位された。元明天皇が譲位を決意された時も、首親王はまだ若すぎたので、代って伯母君の元正天皇が中つぎとして未婚のまま即位し、首親王が二十四才で四十五代聖武天皇となられるまで皇位をまもられた。天平文化の大輪の花を咲かされた聖武天皇は、それ程、天皇御一族の期待と希望を担っておられた訳である。
 元正天皇は在位中に、養老律令の編纂、日本書紀の撰進、三世一身法(墾田についての法令)の発令等をされ、母帝の近くの奈保山西陵に静かに眠っておられる。元明・元正両天皇は、奈良に仏教美術の花を咲かせ、更に未来に伝える文化遺産の素地を育てて下さった方だと思う。

【黒髪神社】
 黒髪神社は、かつては木々がうっそうと生い茂った黒髪山の山頂で、緑に囲まれて鎮座しておられた。芒や吾赤紅を踏みわけながら登る山道の傍らには、淀んだような青い水をたたえた沼か池があったような気がする。とにかく私達が学校へ通っている頃の先生方は、先生の鑑のような方達で、「あなた達が大人になって、東京や大阪等、他の土地で暮らすようになるかも知れない。その時、奈良のことを聞かれて、知らないことがあったら恥ずかしいから、一つでも多くの社寺仏蹟をめぐって、知識を身につけ、古代の人達の心をしのんでください。また、奈良に住む人達は、遠近からのお客様をご案内出来るよう、今のうちにしっかり見ておくんですよ。」と口ぐせのように言って、放課後等にあちこちへよく連れて行ってくださった。土曜日の午後や夏休み前の短縮授業のあと等だが、今のようにバス等で楽に行ける時代でないだけに、暑い道を、法華寺や浄瑠璃寺まで歩いて行くのは大変だった。私達はいつも「先生方好きなものだから。ついて行く私達こそ、いい迷惑だわ。」なんて陰口をたたいていた。しかし、今から思えば、先生達だって、暑い日に遠くまで歩くより、早く家へ帰ってくつろいだほうが楽に決まっている。しかも先生のほうが私達より年をとっておられるのだから、お疲れもひとしおであったろうにと、感謝の念を新たにしている。 黒髪山も、学校からの距離はそう遠くないのだけれど、しんどかった思い出の一つだ。しかも、たどりついたお社は昼でも薄暗い木立の中にあり、祠のまわりには、長い黒髪を半紙で束ねたものが、いくつもぶらさげられてあって、その髪の毛には女の執念がこもっているような気がして気味が悪かった。
 古事記や日本書紀によると、「保食の神(うけもちのかみ)」を祀るとされていて、ご祭神は食物を司る、「大宣津比売神(おおけつひめのかみ)」または「豊宇気比売神(とようけひめのかみ)」といい、またの名を「食稲魂神(うかのみたまのかみ)」と誌されている。しかし、明治二十年(一八八七)に、奈良県へ届出された神社明細帳には、「稲荷神社」になっているそうだが、戦争中頃の思い出ではお稲荷さんの雰囲気ではなかったように思う。
 伝説によると、開化天皇の孫に、狹穂彦と狹穂姫という兄妹がおられ、妹の狹穂姫は、第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。天皇位を狙っていた狹穂彦は、妹の狹穂姫に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狹穂姫は天皇を殺すことが出来ず、企てが露見する。天皇は狹穂彦討伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。その時姫はみごもっていた。妃を愛する天皇が、攻めあぐんでいるうちに、姫は「稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)のなかで、皇子を産まれた。姫はその皇子に「誉津別命(ほむつわけのみこと)」と命名して天皇方にお渡しし、自らは、追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、稲城の古事から、五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。これ程愛していた夫を捨てて兄の方に走ったというのは現代の感覚から言うと不思議な感じがするが、古代社会に於ては、夫と兄のどちらかを選ばなければならぬ場合、古代の女性は当然のこととして兄を選んだそうである。それが当時の常識であり、道義であった。姉妹は兄弟を守護する霊能をもつと信じられていて、兄弟姉妹が政治権と、宗教権を分掌して一族を支配するとされたヒメ・ヒコ制時代の悲劇である。
 数年前、マスオ商事の佐保山SS建設の計画がもち上がった時、私は、「あの辺りには、黒髪神社という古い祠があると思うので、そのあまり近くで、神域をお騒がせするようでは申し訳がないから、位置関係を調べてくるように。」と言った。早速調べに行った社員が帰って来て、「黒髪神社というのは、道の向かい側のゴルフ練習場の上の山で、この土地とはかなり離れています。それに、黒髪がぶらさがっているようなお祠と違って、赤い鳥居が沢山たった明るいお社でした。」とのことであった。私もお参りに行ってみると、道路は舗装されて車で前まで行けるようになっているし、南下にはドリームランド、北下にはゴルフ練習場、東側には家が建ち並んで、万葉集に詠まれた
“ぬばたまの 黒髪山の 山草に 小雨降りしき しくしく思ほゆ”
のイメージはない。赤い鳥居には「黒髪山稲荷神社」の額が掲る明るいお祠になっているのにびっくりした。悲劇の皇后も今は明るく五穀豊穰の神として、国や民衆を護ってくださっているのであろう。
[編集部註]大仏鉄道は、名古屋・大阪間で開業していた関西鉄道が、観光客誘致のために明治三十一年に建設した加茂・奈良間の路線。鉄道の国有化、加茂・木津・奈良ルートの完成により明治四十年に廃線となった。船橋通りの北端、大仏駅跡に記念碑が建てられている。