第54回(1999年10月号掲載)
奈良坂
奈良豆比古神社
 京都から奈良に通じる京街道の、奈良の入口が奈良阪である。古くは、那羅坂、平城坂、乃楽坂とも書く。
 私は京都方面からの帰り、奈良阪を越えて、大仏殿の屋根や五重の塔が見え始めると、ホッと安らぎを覚える。そして、平安時代の貴族達が、先祖の供養のために奈良を訪れられた時、この辺りから古都を望んで、先祖の懐に抱かれたような、なつかしみと安堵感を持たれたのではないかと思う。そして、平城の都から長岡京へ移る時、この坂の上から故郷を眺めて名残を惜しまれたのではないだろうか。しかし、当時都移転の主要道路はこの道ではなく、平城京の北から歌姫を越えて京都に至る道で、歌姫の辺りを奈良阪と呼んだそうだ。
 けれども、現在の奈良阪の道も、東大寺建立の用材を、泉川(木津川)で山から運び、木津川から奈良へ運搬するために造営された道だというから、荷物を運んだりするのには歌姫街道を使われたのが当然だが、貴族の方達は、先祖を祀る社寺仏閣に遷都の報告をし、前途の無事を平安を祈ってから、この奈良阪をから名残を惜しみながら長岡京に向かわれた方も多かったのではないかと思う。中世になって交通が盛んになるにつれて、奈良阪は、北へ行けば木津・京都、南へ行けば奈良から上街道を経て初瀬や吉野、また、伊勢への道、東へ行けば、伊賀路、江戸街道、また、東山中に行く交通の要路として、街道筋には商家が建ち並び大いに栄えた。
 申楽の面影を今に伝える翁舞で有名な奈良豆比古神社は、この町のほぼ中程にある。
 奈良豆比古神社の歴史は古く、十世紀の初めに編修された延喜式神名帳に「光仁天皇宝亀二年(七七一)正月二十日、施基皇子を、奈良山春日離宮にまつる。奈良津彦の神これなり。のちに田原天皇と、おくり名をたてまつる。」と誌されている。施基の皇子とは、万葉集に秀歌を残しておられる志貴の皇子のことだ。
 志貴皇子は天智天皇の皇子で、天武天皇の甥にあたるという貴いご身分でありながら、兄の弘文天皇(大友皇子)と叔父の大海人皇子(後の天武天皇)の間でおきた壬申の乱の後は、非常にむつかしい立場に立たれた。志貴皇子の御歌に
 むささびは、木末求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも
 というのがあるが、むささびは木末を求めて飛び出したばかりに、山の狩人に捕まってしまった。かわいそうになあ、といったこの歌は、志貴皇子の心のなかを表しているようだ。出しゃばったらやられるから、政治の舞台には出ないで、控えめに控えめにと苦労しておられる。その苦労が皇子の内面を磨き上げて、心つかいの深い珠玉のような秀歌を残しておられる。
 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
 この歌は、都が飛鳥浄御原宮から藤原京  に移った後、浄御原宮の跡に来て、古都を偲んで作られた歌だという。かつては美しい女官達の華やかな彩りの袖を吹きかえした風、その姿が今のことのように、なつかしく思い出されるのに、すでに都は移ってしまって、飛鳥の風はむなしく生い茂った草を揺すって過ぎていくだけという、華やかさと寂しさが詠みこまれた歌。あたかも、父君、天智天皇ご在世の頃と、現実に思いを馳せられたのではないだろうか、との感じがする。志貴皇子は壬申の乱以前に生まれていて、乱以後も、飛鳥の宮、藤原の宮に住んでおられ、七一○年に都が奈良に移ると、奈良に来て、高円山の西のふもと、春日宮に住まわれていた。都の中心を離れた寂しい所ではあったが、皇子は
 石走る 垂水の上のさわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
 と、自然を愛でながら、ひっそり暮しておられたようだ。五色椿の美しい白毫寺は、その春日宮の跡に建てられたと伝えられている。
 志貴皇子ご逝去後、五十年余りたって、皇子の第六皇子 白壁王が七七○年即位して光仁天皇となられた。志貴皇子の存在は、奈良時代の主流を占めた天武天皇系を、光仁、桓武と皇統を平安時代につなぐ重要な役割をしておられる。光仁天皇は才能がありながら不遇であったお父様に天皇の称号をおくられた。それで、お墓も、春日宮天皇田原西陵となり、春日宮天皇とも、田原天皇ともお呼びするようになった。(ちなみに、光仁天皇は西陵から4km程離れただけの、光仁天皇田原東陵に眠っておられるから、よほど孝心の篤い方であったのだろう)
 さらに、光仁天皇宝亀二年(七七一)辛亥正月二十日、奈良山春日離宮に父君の御霊を祀られたのが奈良豆比古神社だという。 桓武天皇の御代になって、春日宮天皇第二皇子の春日王が突然重い病気になり、長岡京から奈良に帰って、父君をお祀りしているこの神社でおこもりをされていた。春日王の御子、浄人と秋王の兄弟は、春日王に付き添って、弓を削り、四季の花を採って市場で売るなどして、孝養を尽くされたことが叡聞に達し、弓削の姓を賜った。 宝亀十一年(七八○)十一月二十一日に、春日王は、春日大社の第四殿のご祭神「姫大神」を勧請して中殿に祀られた。また、後に三殿に春日王も祀られ、保延二年(一一三六)十一月二十二日、春日若宮も勧請して「奈良坂春日三社」と号したという。
 浄人は散楽(猿楽)や俳優(わざおぎ。手ぶり足踏みなど、面白おかしく技をして、舞歌って神人を和らげ楽しませること。)を好まれ、父王の難病平癒を心より祈願して舞を奉納されたところ、神霊がその心を嘉されたのか、病気は全快したと伝えられる。この伝承に基づき、この神社では、毎年十月八日の宵宮祭りに古式に基づく翁舞が町内の「翁講中」の人達によって奉納される。神社には室町時代頃の作の能面や狂言面が二十面以上伝わっていたというから、その頃からずっと奉納されているのだろう。私は奈良に住んでいながら、奈良県無形文化財のみならず、国無形文化財の指定まで受けている翁舞の話は、聞いていても見たことがなかったので、昨年の十月八日、初めてお参りさせて頂いた。
 平素は前を通っても静寂の気がただよっている境内に、綿菓子やたこ焼きの出店が並んで大変な賑わいだ。舞台となる拝殿のまわりには、カメラを構えた人達が、舞の奉納を今や遅しと待ちかまえている。
 翁舞の詞は代々口伝えであり、舞や演じ方も直伝だそうだ。時間になると、出演者が衣装室から拝殿に渡された「渡り床」を、神主―笛―小鼓―地頭―地謡―脇―三番叟―千歳(少年)―大夫の順に渡り、拝殿中央で本殿にぬかずき、所定の位置に直座する。どの人も、専門の能楽師ではなく、平素は種々の生業にいそしむ人達だというのだが、月に照らし出されたその姿は、天皇の前に居並ぶ大宮人のような品格がある。
 天下泰平、国家安穏、五穀豊穰を祈っての祝謡ということで、お芽出度い言葉で祝福しているのだが、はやし言葉などに、浅学な私には、よくわからない所がある。これはきっと、口伝なので、途中で分らなくなったのだろうな、と思っていた。ところが、六月に大津に於て、近畿商工会議所婦人会連合会の総会が開催された時、歓迎会に、日吉神社の山王祭に奉納される伝統芸能を見せて頂いた。その中に、観世流片山清司師(人間国宝片山九郎右衛門師の長男で、井上流家元井上八千代師の孫)が舞われる「ひとり翁」があった。日吉の翁とも呼ばれるこの舞も地謡も、奈良豆比古神社の翁舞に似ていて、猿楽風、それが「四海波」へと、能楽に発展していく過程を見せて頂いているようで感激した。そこで、浄人が猿楽の祖といわれるのも、なるほどと納得した。
 参考のために、翁舞の歌詞を写させていただいた。
大夫/とうとうたらりたらりら たらりあがりららりとう
地謡/ちりやたらりたらりら たらりあがりららりとう
大夫/所千代までおわしませ
地謡/われらも千秋さむらう
大夫/鶴と亀とのよはいにて
地謡/さいわい心にまかせたり
大夫/とうとうたらりたらりら
地謡/たらりあがりららりろ
千歳/なるは滝の水 日は照るとも
地謡/たへずとうたりどうどう
千歳/所千代までおわしませ われらも千秋そうらわんなるは滝の水 日は照るとも
地謡/たへずとうたり どうどうどう
大夫/あげまきや とんどうや
地謡/ひろわかりや とんどうや
大夫/座して居たれど
地謡/まいろうれいちやん とんどうや
大夫/ちはやふる 神のひこさの昔より わがこの所久しかれとど いわいそうようや
地謡/れいちやとんどうや
大夫/千年の鶴は万才楽とうとうたり、また万代の池の亀は甲にさんぎょくを頂いたり、滝の水れいれいと落ちて夜の月あざやかにうかんだり なぎさの砂さくさくとして朝の日のいろをろうず 天下泰平国土安穏の今日の御祈祷なり、ありはらや なじょの翁ども、
地謡/あれはなじょの翁ども そーやいづくの翁 どうどうどう
大夫/そうようや 千秋万才の悦びの舞なれば ひと舞まほう まんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫/まんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫・脇/あげまきや とんどうや
地謡/いろはかりや とんどうや
大夫・脇/天長地久ごまん円満とぎやくすぐればいづれの願も成就せざらん富貴栄華とまもらせ給う これ喜びのまんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫/まんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫/あげまきや とんどうや
地謡/いろはかりや とんどうや
大夫/棟に棟をならべ 門に門をたて、富貴栄華と寄らせ給う これ喜びのまんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫/まんざい楽
地謡/まんざい楽
大夫/あげまきや とんどうや
地謡/いろはかりや とんどうや
大夫/これも当社明神の御威光により 千代なるかな 千代なるかな ときやくすぐれば いずれの願も成就せざらん 富貴栄華と守らせ給う これ喜びの万才楽
地謡/まんざい楽
大夫・脇/まんざい楽
三番叟/おおさようさよう 喜びありや 喜びありや わがこの所より外へはやらじとどおんもうす

三番叟/あらめでたのおに心得たるとの大夫殿にけんざん申そう
千歳/丁度参って候、年頃のほうばいずれ友達 御宮殿の為にまかり立って候 三番申楽きりきり尋常に御舞さうて座敷ざっと 御なほり候へ ぢょうどのう
三番叟/のうこの色の黒い尉が処の御祈祷千秋万才と舞納めやうばやすう候、先はとの大夫殿はもとの座敷におもうもうと御直りそうて この尉が舞はうずるを いかにもおもしろく おんばやし候へ
千歳/われらがなほろうずるは じようどんの 前より以てやすう候 まずお舞ひ候へ
三番叟/只御直り候へ
千歳/さらば鈴を参らそう
三番叟/あらいよがましや候
    (鈴を千歳から受け取る)

 舞終わって退場される頃には月が皓々として、見物人一同、古代の夢に酔ったように静まりかえっていた。
 思わず私も駄句を三句
 月光にうかぶ大樹のシルエット
 豊穰の神の化身や翁舞
 大宮人を思わす翁月照らす    正子