第53回(1999年09月号掲載)

大乗院庭園と今西家書院

◆大乗院庭園と今西家書院
 奈良ホテルの南に名勝旧大乗院庭園がある。大乗院は一乘院と共に、藤原家の子弟が門跡として、興福寺の寺務を司る別当寺院であった。もとは、現在の地方裁判所の場所にあった一乘院と肩を並べて、その東側(文化会館の前)にあったが、治承四年(一一八〇)の乱のため、平重衡によって東大寺、興福寺等の諸堂と共に焼き払われた。
 当時、現在地の辺りに、元興寺の禅定院というお寺があったのを譲られて、そこに移転した。寺域は今、奈良ホテルが建っている鬼棲山(鬼薗山ともいう)を含む広大なもので、大乗院はここに移ってから寺運がとみに盛んとなり、堂塔も整っていった。
 奈良時代、夜な夜な元興寺の鐘楼に現れ、鐘をつきならして人々を悩ませた鬼が棲んでいたと伝えられる鬼棲山の上には、丈六堂、天竺堂、八角多宝塔、釈迦堂、弥勒御堂、観音堂等が建ちならび、下方の平坦地には庭園や生活に必要な寝殿、雑舎等の多くの建物が荘厳をきわめていた。ところが、室町時代のはじめの宝徳三年(一四五一)元興寺からの火事で、大乗院の堂塔の大部分が焼失してしまった。しかし、火災後ただちに復興したというから、当時の大乗院の勢力がしのばれる。
 庭園は瑜伽山の麓の湧水をひいて作った池を中心としたもので、最初は禅定院の庭として、平安時代に築造されたが、室町時代の中頃に大々的な補修がされて、一躍有名になった。時の大乗院門跡尋尊大僧正が、京都の庭師の第一人者である、善阿弥を招いて改修させたのである。当時は、奈良随一の名園として、将軍足利義政をはじめ、公家達がしばしば見学に来たそうである。尋尊大僧正は、博学多才で知られる関白太政大臣、一条兼良の子息であるから、センスも人脈もあり、興福寺の膨大な財力とあいまって、このように後世に語り継がれる名園を造ることが出来たのであろう。
 大乗院はその後、元和五年(一六一九)にも火災にあったが、不死鳥の如く復興して、幕末までは別当坊として栄えていた。ところが、明治維新の排仏毀釈で僧侶達は還俗し、ご門跡は松園家となり、坊官たちは、松村・松井・福智院と名のった。大乗院の跡は一時飛鳥小学校となったが、明治三十三年十一月に飛鳥小学校が現在地に移ってからは、荒地として放置されていた。
 奈良に外国人の観光客が訪れるようになり、洋式のホテルが必要となったので、明治四十二年(一九〇九)に、この土地を日本国有鉄道が買い上げて、山上に奈良ホテルを建て、庭園は荒れたままになっていた。昭和三十三年(一九五八)に、国の名勝に指定されたが、庭石等もなくなっていて、荒廃が著しかった。財団法人日本ナショナルトラストが文化庁から、管理団体に指定されたのを機に、昭和四十八・九年にわたり整備され、平成七年から本格的な発掘調査が実施された。平成八年には、名勝大乗院庭園文化館も完成して、かつての大乗院の模型や関係資料を展示すると共に、奈良町を散策する人達が、美しい庭園を眺めながら休息出来る憩いの場となっている。また、奈良市の公共施設なので、お茶室、和室、会議室、展示場等を格安で貸していただけるので、市民にも喜ばれている。
 大乗院庭園文化館から、少し南に行って最初の辻を右に折れたところに今西家書院がある。この書院は、もと大乗院門跡にお仕えしていた福智院氏の居宅であったものを、大正十三年に銘酒春鹿の醸造元、今西家が譲り受けられて現在に至っている。一説には、大乗院の御殿を賜って移築したとも伝えられる典雅な建物で、重要文化財に指定されている。
 この貴重な建物に、昭和十六年頃から二十七年まで、後に朝日新聞社の専務になられた小松美幸さん一家が住んでおられた。お嬢さんの美謝子さんとはクラスメイトだったので、時々遊びに寄せていただいた。昭和十三年に柱を全部根継ぎをし、北側庇の屋根の葺替えが行われ、同十五年には内部の貼壁の張替、書院東側茶室の建替が行われたばかりだというので、綺麗に整備されていたが、さすがに、どっしりとした歴史の重みを感じさせる風雅な家であった。
 室町時代の面影を残す書院は、半蔀(上半分が上げ蔀になっている)になっていて、この蔀戸は、戦争末期には柳生に疎開させていたそうである。使われている飾り金具等も創建当時のものなので、よく、学者や画家が見に来てスケッチをしておられたという。小松さんの話によると、陽の光が全く入らない塗りごめの室があったり、長五畳と呼んでいた畳廊下があったりで、趣味的な造りの家なので、ふだん生活するのには不便な上、貴重な建物に傷でもつけては大変だというので、平素は江戸時代中頃に建て増しされたと思われる部分で生活しておられたそうだ。今西家書院は、その後、昭和五十三年九月から五十五年四月まで解体修理が行われ、見事によみがえった中世の貴族屋敷の雰囲気を多くの方に楽しんで貰おうと、一般公開されている。
 小松さんの話によると、今は立派に寺観の整っている地蔵大仏で有名な福智院も、彼女がここに住んでいた戦争中や戦争直後は、荒れ果てて草の生い茂る無住寺であった。それでも地蔵盆になると、近所の人達が寄り集まって、町内会の役員さんを中心として、草を刈ったり、掃除をして、お地蔵さんをお祀りしたそうだ。そして、物の無い時代であったけれど、皆で工夫し、お参りにきた子供達にささやかな物ではあるが、お地蔵さんのお下がりとして持って帰って貰ったという。「暑い時だけれど、私もモンペをはいて毎年手伝ったよ。」と明るい声で、なつかしそうに語るのを聞いていると、それが奈良町を今日まで支えてきた心なんだなあと、しみじみ思う。

◆奈良町に息づく 中将姫伝説とゆかりの寺々
 この頃テレビ等で、よく奈良町が紹介されるので、遠い所からわざわざ奈良町を訪れて下さる方が多くなった。折角来て頂いても、表面だけ見ると、古めかしい面影を残しているとは言うものの、これ位の町は地方都市に行けば全国どこにでもあると思われるのではないかと、高い交通費を払って来て頂いたのがお気の毒になる。そこで、私は時間の許す限り、興味深げに家の看板を見たり、家を覗いたりしておられる方に声をかけ、番茶でも飲んで頂きながら、つぎのような話をする。(勿論、話はその時によっていろいろだが)
 「今通っていらっしゃった猿沢池の西側に、丹塗りの祠があるのにお気がつかれましたか。これは采女神社といい、時の帝に愛された采女が、帝の寵が衰えたのを嘆いて、汀の柳に衣を掛けて、池に身を投げて亡くなられたのを哀れんで祀られたものだと伝えられています。その采女さんを、今の福島県郡山市から奈良に連れて来て、官女として宮中に仕えさせたのは、東北巡察使として彼の地におもむいた葛城王でした。葛城王は美努王と橘三千代の間に生まれた子で、光明皇后の異父兄にあたります。臣籍に下って母の姓を継ぐことになって橘諸兄となりました。奈良の都に天然痘が大流行して、天下の実権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死んだ後左大臣になったのが、その橘諸兄です。若き日の諸兄ゆかりの伝説が残る猿沢池から南へ五分歩いたところにある御霊神社には、聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后であった井上内親王と、その皇子の他戸親王など、八柱の神々がお祀りされております。御霊神社から歩いて二分位の所にある高林寺一帯は、藤原豊成卿のお邸跡と伝えられて、このお寺には豊成公のお墓があります。藤原豊成公は橘諸兄が左大臣を務めた時の右大臣です。十分足らず歩いただけで、天皇、左大臣、右大臣と、時の最高権力者にかかわりのある伝説が、さりげなく市井の底に息づいているのが、奈良町の面白いところだと思うのです。ちなみに藤原豊成公というのは、中将姫のお父様です。」と言うと、たいていの方は「ああ、あの中将姫の…。」とうなづいて、「なんでもないような町の中にある一木一草にも何かゆかりがあるような気がしてきました。奈良町の魅力が分かってきました。」等と嬉しいことを言って下さる。でも、「中将姫は当麻の方ではないのですか。」と言う方や、若い人の中には、中将姫を知らない方も多い。そういえば私の子供の頃は、絵本や雑誌にも中将姫物語が出ていたり、紙芝居や歌舞伎でもよく上演され、継子いじめに涙を流したり、仏門に入って修業をつまれ、遂に蓮糸の曼荼羅に極楽浄土を現身で見られる様を見てホワとしたものだが、この頃は本にもお芝居にもあまり登場しなくなった。そこで周知のこととは思うが、中将姫伝説を書いておく。
 聖武天皇の御代、右大臣藤原豊成と妻百能(紫の前ともいう)の間には子供が無かったので、長谷の観音様に祈りをこめて授かったのが、白玉のように美しい姫であった。天平十九年八月十八日、姫一歳の誕生日の席で、赤ちゃんの姫が筆をとって「はつせ寺 救世の誓いを現して、女も法の国に迎えん」と歌を誌して人々を驚かせたという。姫が三歳の時、お母様が亡くなられ、豊成公は照日の前という後妻を迎えた。姫にとっては継母である。継母に子供が出来た頃から、継子いじめが始まる。九歳の時、天皇に召されて琴を演奏したところ、天皇はいたく感動されて、おほめの言葉を賜った。継母はそれをねたむ。雪の日に庭の松の木にしばりつけて折檻したり、毒を盛ろうとしたが失敗する。
 十五歳の時、再び天皇に召されて琴を奏したところ、あまりに上手であったので、天皇より三位中将の位を授けられた。それ以来、中将姫と呼ばれるようになる。継母はますます姫へのねたみを強くし、度々姫を亡きものにしようと企てたがうまくいかない。ついに家来の松井嘉藤太に命じて姫を雲雀山の山中で殺させようとする。主命ではあるが、可憐な姫の姿に決心もにぶりがちな嘉藤太ではあったが、いよいよ意を決して刀を振り上げようとした時、姫は「一寸お待ち下さい。」と猶予を乞い、西方に向って手を合わせ、実母の菩提を回向し、父と継母の息災を阿弥陀仏に祈念した。このけなげな姿を見て、嘉藤太は姫を殺すに忍びず、姫の衣に猪の血を付けて、継母には「殺しました。」と報告すると共に、いとまを取って、妻と共に雲雀山に籠り、姫を守り育てた。(嘉藤太は主の娘を殺すことは出来ないと悩んで、豊成の家臣、国岡将監に相談したところ、将監は自分の娘を身代わりにすることを決心して、娘の首を姫と偽って差し出したという説もある。)
 後日、雲雀山に狩に来た父豊成と再会した姫は、父に伴われて奈良の都に帰る。姫は自分が命を長らえる事が出来たのは、ひとえに仏のご加護であると感謝し、なお一層信仰を深め、ついに当麻寺で出家し、法名 善心比丘尼となり、後、法如尼となる。
 姫は西方極楽浄土を説く「称賛浄土仏摂受経」を篤く敬い、千巻の写経を発願された。ひたすら西方浄土にあこがれながら写経をしておられると、「蓮の茎を沢山集めて糸を取りなさい。」とのお告げがあった。荷車に何台もの蓮を運ばせて蓮の糸を用意すると、宝亀二年(七七一)七月十日、観世音菩薩と阿弥陀如来が、尼と女人に化身して出現し給い、蓮糸を大きな釜に入れると、糸は五色に染まった。そして、姫を指導して機を織らせられた。織り上がった布には、極楽浄土の姿が見事に描き出されていた。天応元年(七八一)四月(三月ともいう)十四日、姫は二十九歳で阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、極楽浄土へ転生された。(入寂された。)
 多少の差異はあるだろうが、継子いじめの過酷な運命の中でも、信仰心が篤ければ有難い霊験にあずかれるという説話として、説教聖が各地で民衆に説き聞かせたものを、中世には謡曲などに、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃等に取り上げられて一般大衆に広まった。
 しかし、豊成卿の墳墓を守る高林寺の前住職、稲葉珠慶さんは、中将姫の話をされる度に、「私も中将姫のお芝居を見に行った事がありますが、雪ぜめの場面等、目をあけて見ることが出来ませんでした。自分がいじめを受けているように、身をさいなまれる思いがします。信仰説話という成り立ち上、苦労が多ければ多い程、後の霊験が輝きを増すという話の性格上、付け加えられたのだと思います。中将姫は幼少の頃、お母様を亡くされたので、信仰心が篤かったのは当然でしょうが、なんといっても右大臣で、藤原南家の統領のお嬢様ですし、継母といっても南家奥方なのですから、精神的に冷たいところがあったとしても、折檻なんてはしたないことをなさる筈はないと思います。」とおっしゃる。私も、名家の奥方、お姫様なのだから、お付の人も沢山おられるだろうし、いじめというのは、心の中の葛藤を後世の作家達が形に現して、分かり易くしたのだと思う。
 中将姫は東木辻三棟町の誕生寺の辺りで産れられたと伝えられ、境内には産湯の井戸が残っている。本尊は法如尼御自作と伝えられる中将法如尼像で、庭には極楽へ導く二十五菩薩の像が阿弥陀如来をお祀りしている極楽堂へと並んでいる。参拝すると、住職が中将姫涙の和讃を唱導して下さる。
 鳴川町の徳融寺は、豊成卿の邸、鳴川の御館の跡と伝えられる。境内には幼い姫がしばりつけられ雪ぜめにあったとされる松があったそうだ。観音堂奥の小高い植込みの中に、豊成公と中将姫を祀る二基の宝篋印塔が立っている。
 戦国時代、松永弾正久秀が、多聞城を築くために、寺々の墓石を徴収した。豊成公父子の石塔も、その時運び去られようとしたが、住職の弟子で連歌師心前が、
 曳き残す 花や秋咲く石の竹
と詠み、久永に由緒を伝えたので、危うく事なきを得たという。(註 石の竹は唐なでしこの事で、石塔をかける)
 清らかな聖女、中将姫が生まれ育たれたという木辻、鳴川辺りは、かつての木辻遊廓地区に隣接している。苦界にあって、つらい悲しい日々を送っていた遊女達にとって、仏の御加護で苦しい生活から救われたという中将姫の物語は、唯一の夢であり救いであったと思われる。
 井上町の高林寺は、中将姫が発心され、仏道修業に入られた地とされている。本堂の厨子には、豊成公と中将姫の座像が祀られている。境内には豊成卿の廟塔があり、その前には、一株の牡丹の大木がある。毎年、四月十三日、十四日の中将姫御会式の日には、その年の寒暖に関係なく、見事な白い大輪の花をつける。
 白牡丹 法如尼いまも在します
 という、小林月史先生の句碑が立っているが、その清らかな美しさは、この地で修業された姫の道心が今も、この辺りにただよって、奈良町の移り変わりを見守っていて下さるような感じがする。