第52回(1999年08月号掲載)
福智院と清水界隈
地蔵信仰について
 頭塔の前を東西に伸びる道は清水通りである。清水通りは、歩くことが唯一の交通手段であった頃は、東山中から奈良へ生産品を売りに来たり、また、必需品を買って帰ったりする人達で賑わった通りであった。人だけではなく、東山の原始林からの清らかな水脈の通り道でもあるらしく、この辺りに清水が湧き出して、通行人や牛馬がのどをうるおしたと伝えられるところから、清水郷(今は上・中・下清水町)という地名になったという。現在もこの通りに二軒の酒造家があるが、水が良いところから、この地に居を定められたものであろう。又、一説には、天平八年(七三六)聖武天皇のご発願により玄方が開基した清水寺があったので、清水と呼ばれるようになったと言う。「奈良坊目拙解」には、「僧 玄方が奈良清水谷に寺を建て、地蔵菩薩像と唐から持ち帰った五千余巻の経論を安置した。これが清水寺の開基である。」とあるから、その頃から清水が湧く聖地であったのだろう。
 天皇が国家鎮静を祈願して玄方に開山させた清水寺には、封戸百戸(その戸からの租税を寺の収入とする。)田十町、扶翼童子八人を賜っている。当時の高僧、大安寺三論宗の律師 道慈が扶翼童子六人を賜っているのから推しても、玄方がいかに主んじられていたか、又、清水寺の盛大さが想像に難くない。
 玄9が筑紫の大宰府に移る時、清水寺は弟子の報恩に譲られた。報恩は、玄方が非業の死をとげたあと、その骨を頭塔に納めてから、清水寺を弟子の延鎮に譲って、自分は吉野山にこもったと伝えられる。吉野山で修業して、観音呪法を体得した報恩は、天平勝宝四年(七五二)に孝謙天皇の病気を加持して験を現している。
 天平宝字四年(七六○)には高市郡桧隈村に南清水寺(子島寺)を創建して師匠の菩提を弔った。報恩は延暦十四年(七九五)に没するまでに、備前四十八寺を開いたと伝えられる。
 その弟子の延鎮は、宝亀九年(七七八)に山城の八坂郷に入って練行し、坂上田村麻呂の帰依を受けた。ある時、霊夢を見て、坂上田村麻呂の発願によって、延暦十七年(七九八)京都東山に清水寺を開山した。延暦二十四年には桓武天皇の御願寺となり、今も、あの立派な舞台造りの本堂に群なす参詣者の絶えない清水寺は、玄方僧正の孫弟子の開基である。清水寺の名は、名水音羽の滝からついたものと言われるが、「しみず」と言わないで「きよみず」としたのは、南都に「しみず」寺があったからではないかと思われる。以上から考えてみても、清水寺がいかに由緒正しい大寺であったかを推察することができるが、天平寺院の清水寺は現存せず、遺構も発見されていない。
 中世になって、すっかり荒廃していた清水寺を、建長六年(一二五四)興正菩薩叡尊が再興された。そして、清水寺のご本尊は地蔵菩薩であったというところから、建仁三年(一二○三)に東山中の福智庄(現奈良市狭川町)に於て造立されて祀られていた、丈六(二・七三m)の地蔵菩薩像をこの地に移して、寺名を福智院と改められたという。
 奈良時代、平城京の四条大路の外京への延長線と、東京極線(七坊大路)が、現在の福智院のあたりで交わっていたのではないかと思われるところから、かつての清水寺はこの辺から頭塔を含む、上・中・下清水三町にわたる広大な寺域に壮大な堂塔伽藍が建ち並んでいたと推測される。興正菩薩が、その清水寺再興の意味をこめて福智院を創建されたのであるから、当時は、丈六のご本尊にふさわしい大規模な本堂が威容を誇り、立派な伽藍が建ち並んでいたことと思われるが、その「福智院古地図」すら現存しない。
 しかし、「大乗院寺社雑事記」には、「当時の福智院主が興正菩薩で、大慈三昧院慈信大僧正の御座所であった。」と誌されているそうだ。大乗院は、一条院と、興福寺の主導権を争った門跡寺院である。まして、大慈三昧院は、関白・摂政をつとめ、一条家の始祖となった藤原実経の子息であるから、その頃の福智院の隆盛ぶりがしのばれる。
 鎌倉時代頃からは地蔵信仰が庶民にも広がり「霊験あらたかな福智院のお地蔵様」として崇敬を集めていたが、長い歳月の風雪に加えて、明治初年の廃仏毀釈で、寺域が狭められ、領地や什物を失った。一時荒廃にまかせていたが、徐々に立ち直り、昭和三十年には国の文化財保護法の適用を受けて、解体修理が行われ、鎌倉中期の面影を伝える本堂が見事に甦った。
 本堂は重層の建物のように見えるが、一重に裳階(もこし/建物の軒下壁面に造られる庇様のさしかけ。法隆寺金堂、薬師寺三重塔等に見られる)付きで、屋根は本瓦葺きの寄棟造り、正面には一間の向拝がついている。しかし、本尊の地蔵菩薩座像だけでも丈六、台座の下から光背の上まで二十二尺(六・七m)もあるどっしりとしたお姿から見ると、本堂はいかにも手狭な感じがする。江戸時代に書かれた「奈良坊目拙解」によると、「建長六年に再興して福智院と名を改めた時の本堂は七間四方、経堂が本堂の右側にあった。今の本堂はそれほど大きくない。思うに、清水寺が荒廃したあと、経堂に庇をつけて改造し、そこに本尊を移したのではないか。」とあるのが、もっともと思われる。
 それにしても立派なご本尊だ。桧の寄木造りの上に漆を塗り重ねて、その上に彩色が施されていた。「天平彫刻を追い越せ。」との気概をもって取り組んだ南都仏師の意気込みが感じられる、どっしりとした、たより甲斐のある気魄に満ちたお姿である。舟形の光背はぎっしりと小型の化仏をつけた千仏光背である。
 頭上の化仏は不空成就如来。(釈迦と同体)左右に三体づつの六地蔵がおられる。光背の化仏が五六○体、六地蔵と本尊を入れると五六七体あり、釈迦滅後、五六億七千万年の後に下生されるという弥勒仏の出現まで、現世を護り衆生(しゅじょう)を済度するとの、地蔵菩薩の誓願を現しているようだ。仏像の光背に沢山の化仏を配することは、その仏の功徳の大きさを顕わすものとされているが、実際に千仏光背を負っておられる地蔵菩薩は、福智院の本尊のみだという。
 京都国立博物館蔵の「地蔵縁起」による霊験記。
「奈良の都の福智院と云所に、地蔵菩薩おハします。墨染の衣をきさせ給て、人の夢には見え侍るなる。世中ゆゆしく飢渇して、あさましく人おほくし(死)にける年、さきさきは在地の物めくりて、佛供燈明などまいらせけるが、一人もこの飢渇によりて、かたする人なし。その堂に住持独り有りけり。先々は、此仏供の花香を時折にしけるが、物まいらす人なくて三日に成にけれハ、すてにうえて後戸にふしたりけるが、僧の墨染の衣きたるが、まくらにたち給て、心ほそくなおもいそ。食物はさっけんするそと仰られけり。かかる程に、其暁、春日の権預が夢に、すみ染の衣着たる僧の、塗りたる箱を持たせ給ひて、これに白きよね(米)一はこ入て送給へ。これハ福智院に侍る僧なりとて、箱をおきて、去給ぬとおもひて、おとろきて枕を見るに、塗りたる箱あり。福智院の着到の箱と書きつけたりけり。不思議の思をなして、夜のあけはなるる程に、白米を一はこ入て、もちてまいりたりければ、うしろ戸にうえふしたりつる住持の僧、おきあがりて、涙をながして事のよしをかたりければ、権預も、いよいよ信をおこして、人をすすめて、佛供燈明其後はたえさりけり。」とある。
 このように、霊験あらたかなご本尊様をおまつりする福智院ではあるが、現住職の阪井昇道師が、住職を拝命された昭和四十三年には、本堂の解体修理は終わっていたとはいえ、本堂改修工事事務所が、そのまま庫裡として残され、庭は荒れ果てて、境内に枝豆が植えられているような状態だったそうだ。四十六年に結婚以来夫婦力を併せて境内の整備にあたられ、近くに住む私達も、通る度に寺観が整っていくのに目を見はる思いであった。
 平成八年、丙子の年は、天平八年玄方僧正が清水寺を開基してより、ちょうど二十一巡目(一二六○年)。玄方僧正が入寂されてから一二五○年御遠忌に当たるのを記念して、懸案であった山門が竣工し、怪奇な伝承によって、ともすれば良からぬ僧のような誤解を受けられておられる玄方僧正の顕彰碑も出来て、僧正のご遺徳を顕現されたのは、誠に結構なことであったと、ご同慶にたえない。
 地蔵信仰は、奈良時代には「十輪経」等の地蔵経典は伝来しており、清水寺の本尊も地蔵菩薩だったといえ、奈良時代や平安初期の、仏教が貴族達の信仰と教養だった頃は、それ程さかんではなかったようだ。地蔵はサンスクリット名でクシティガルバという。クシティは大地、ガルバは胎であらゆるものを包蔵するという意味。大地はさまざまなものを生み出す力を秘めているように、全てのものを育成し、成就させる慈悲深い菩薩様だというので、平安時代も後期になって、民間にも仏教が広く浸透するにつれて、地蔵信仰は大いに発達した。
 飢餓や戦乱で死体が累々といった時代になってくると、お地蔵様は、現世利益だけでなく死後の人をも救って下さるというので、特に鎌倉時代頃から、お地蔵様にお願いするという風潮が高まってきた。人は生前の業によって六道、すなわち、天道、人(間)道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に輪廻転生(りんねてんしょう)するという。天道は天人の世界で、最も楽多く苦の少ない世界ではあるが、天人にも五衰があり、死苦がある。人道には四苦八苦があり、修羅道は戦を繰り返してやむことがない。畜生道は虫から蛇、鳥獣に至るまで弱肉強食を繰り返し、牛馬も人間に使われる苦があるという。まして、飢餓道や地獄道に至っては、その苦しみは言をまたない。生前の行いによって、どの道に行くかを判定する閻魔大王の本地仏は地蔵菩薩で、適正な裁きをつけて、反省させた後は、地蔵菩薩として現れ、六道輪廻の苦しみを助けて下さるというのである。寺院を建てたり、多くの寄進をしたりして、善根を積んだと自己満足できる貴族達と違って、食べるのが精一杯の庶民にとって、お地蔵様は現世も来世も、苦しみを救って下さる唯一のたのみの綱だったのだろう。いまも各地にある六地蔵はその信仰からきたもので、とにかくお地蔵様は老若男女を問わず、最も身近に敬愛されている菩薩様である。
 鎌倉時代、無住一園が編纂した「沙石集」には、「南都には地蔵の霊佛あまたおわします。知足院(東大寺)、福智院、十輪院、市の地蔵(町々に立っている地蔵)など、とりどりに、霊験あらたか也。」とある。
 十輪院は、元興寺の一院であったと言われ、地蔵十輪経に基づいて造られた寺である。ご本尊の石仏龕は、地蔵菩薩を中心とする地蔵曼荼羅と言うべき、日本には珍しい石の仏龕である。釈迦の滅後、弥勒仏の出現されるまでの現世を地蔵菩薩がみそなわすという教えそのままに、中央に半肉彫の地蔵菩薩、向かって左に過去を守るお釈迦様、右に弥勒様が彫られている。その周囲には、十王、仁王、塔、四天王等を線彫にし、入口の石材には七星、九曜を梵字で現し、十二宮、二十八宿の星曼荼羅も配すなど、七堂伽藍にお祀りするほどの仏様をコンパクトに龕にまとめている。この前にある本堂は、源頼朝公の命により、藤原時代の貴族の家を移築して拝殿としたものと伝えられる、誠に優雅なものである。夏には蓮の花が美しい池を囲んで、石の春日曼荼羅、同じく石の愛染曼荼羅、不動明王立像等があり、御影堂の裏側には開基の魚養様の塚がある。小ぢんまりとしていながら、なかなか見ごたえのあるお寺である。
 中清水町には、市の地蔵の一つとして、弘法大師爪かき(爪彫り)の地蔵といわれる石の地蔵尊が祀られていた。一時、町内と、この地蔵尊の安置場所を買った人との間で問題があったそうだが、町の北側に新しい道路が出来て、そこにお祀りすることになって、円満に解決したということだ。場所柄、交通安全のお地蔵様としてお祀りされているが、長年人々の暮らしと、世の中の移り変わりを見てこられた優雅なお地蔵様だ。
 奈良町には由緒や言い伝えのあるお地蔵様が多く、地蔵盆も盛んである。