第51回(1999年07月号掲載)

頭塔と玄方様

 高畑や破石周辺は、春日大社の社家の並んでいた頃の風雅な趣をもつ、絶好の散歩道である。此の間、この辺りを歩いていて、ふと飛火野荘のほうを見ると、駐車場のむこうに、巨大なお椀を伏せたような、サンチーのストゥーパーに似た土塔が姿をあらわに現しているのにびっくりした。かの有名な頭塔だ。驚いたというのは、かつては、頭塔のまわりには、木々が生い茂って、小山のような観を呈していたからである。昭和六十一年から調査に入って、一辺三十三メートルの正方形の基壇の上に、ピラミッド状に、七段の石組と、周囲に三尊仏等、天平様式の優れた石仏を配した見事な土塔で、頂上には十三重(?)の小塔があったと推測されるそうだ。木々に覆われていたり、調査中はおおいがかけられていたのが、久方ぶりに、創建時に近い姿を現した訳だ。
 頭塔は文字通り、奈良時代の傑僧、玄方の首塚だと伝えられている。しかし「東大寺要録」に、神護景雲元年(七六七)良弁僧正の命により、実忠和尚が造立されたとある土塔が、その記された位置や、石仏の年代から見て、この頭塔にまちがいないとされている。土塔造営の目的は、天平宝宇八年(七六四)におこった恵美押勝の乱平定後の鎮護国家のためと思われる。塔の構造から見ても、墳墓ではなく、釈迦を祀った仏塔の様式であるし、東大寺系の瓦も出土しているそうである。
 頭塔が玄方の首塚であるという伝説が生まれたのには、次のような時代背景がある。
 奈良時代の政治は藤原不比等の主導で始まり、不比等の没後は長屋王が実権を握っていた。天平元年(七二九)長屋王の変からは、藤原氏の権力が再び盛り上がってきたが、天平九年平城京内に蔓延した天然痘によって、藤原氏の四卿が相ついで逝去され、藤原氏は大きな打撃を受けた。これに代わって誕生したのが、橘諸兄(もろえ)政権である。橘諸兄は、唐から帰って間もない玄方や吉備真備を登用して新知識の導入をはかり、天平文化を高揚したいと考えた。唐で学んできた幅広い知識を実践できる地位を得た二人は、兵士・健児(こんでい)の停止、郡司の減員、国の併合等の行政整理を目的とする、いくつかの新政策を実施した。 藤原宇合の息子で、藤原式家の中心人物であった広嗣は自分が大宰少弐に任じられて、天離る(あまさかる)大宰府に左遷されたのは彼等が提唱する新施策ののせいだと恨んでいた。そこで、天平十二年九月、玄9と吉備真備を排除することを要求して、筑紫で反乱の兵を挙げた。朝廷ではその鎮圧のために、国毎に七尺の観音像を造らせ、「観音経」十巻を書写させると共に、大野東人を討伐の将として大軍を率いて九州へ向かわせた。両軍交戦の結果、広嗣は板櫃川の合戦に敗れ、西方に逃れようとしたが、捕えられて殺された。その残党も沢山戦死したり処刑されたりしたため、人々は心の中に、広嗣の怨霊が何か恐ろしいことをやらかさないかと、恐怖を抱いていた。というのは、広嗣は豪勇のほまれ高く、一矢でよく四方を射ることが出来たとか、彼は龍馬を持っていて、それに乗って、午前は王城で政務を執り、午後は鎮西に下って大宰府の仕事をしたといったような超人的なうわさが日を追って拡がっていたからである。
 こうした背景のもとに、天平十七年十一月、玄9僧正は筑紫の観世音寺に遣わされることになった。観世音寺は天智天皇が、筑紫の朝倉行在所で崩御されたお母様、斉明天皇の追善のために建設されかけていたのが、まだ完成していなかったので、その仕上げと、落慶の大導師を務めるためという名目ではあったが、左遷であったと思われる。
 玄方が大宰府に赴任して、半年余りで観世音寺は見事に完成し、天平十八年六月十八日落慶法要が行われることになった。当日、大導師を務めておられた玄9僧正は、その法会の場で亡くなられたのである。
 玄方の死は、藤原広嗣の怨霊のしわざであるという噂は当時から拡がっていたが、年を経るに従ってその伝承がだんだん物語化していった。
 「今昔物語」には、「彼の玄方の前に怨霊現じたり。赤き衣を着て、冠したる者来て、玄方を掴取りて空に昇りぬ。悪霊其の身を散々に掴破して落したりければ、其の弟子共、拾い集めて葬したりけり。(中略)彼の玄9の基は、千今奈良に有るとなん語り伝えたるとや。」とあるのが、この頭塔であると考えられている。
 「平家物語」には、「天平十八年六月十八日、筑前国御笠郡大宰府観音堂造立供養せられし導師には、玄方僧正とぞ聞こえし。高座に登り鐘打鳴らす時、俄に空かき曇り、雷夥しう鳴りて、彼の僧正の上に落ちかかり、その首を取って雲の中へぞ入りにける。同じき十九年六月十八日、枯髑髏に玄9という銘を書いて興福寺の庭に落とし、人ならば二・三百人ばかりが声して、虚空にどつと笑う音しけり。」とされ、落ちてきた骨を弟子達が拾って葬ったのが頭塔であるといわれている。
 又、「源平盛衰記」には、「十八年六月に大宰府観音堂造立供養あり。玄9僧正導師たり。高座に上がって啓白し給いけるに、俄に空掻曇り、雷電して黒雲高座に巻き下し、導師を取って天に騰る。」とあり、「彼の広嗣討たれて後、亡霊荒れて恐ろしき事共多くありける中に…」として、広嗣は朝敵として討たれたにもかかわらず、後難を恐れて神として祭られていることを述べている。現在、佐賀県唐津市の鏡山に鏡神社があり、その主神は神功皇后であるが、別殿には藤原広嗣を祭っている。奈良市高畑町の新薬師寺西南にある鏡神社はそのご分社である。
 江戸時代になると、奈良では頭塔に関連して、玄9の身体の他の部分が落ちたところにも塚を作ったという説も生まれた。肘が落ちた所が肘塚町で、肘塚があったから町名となったと言うが、塚の所在はわからない。眉と目が落ちたのが大豆山町、昔は眉目山とも書いたそうで、この町の崇徳寺の境内に眉目塚の古跡が残っているそうだ。胴は押上町に落ちたので胴塚を作ったというが、いずれもつまびらかではない。
 玄9僧正は、天平時代きっての名僧であるにかかわらず、広嗣の怨霊に関する怪談めいた伝説があまりにも流布された為、後世の人達に誤解されておられる面があると思う。
 玄9僧正は大和の生まれで、阿刀氏の出身であったという。若くで出家して、岡寺の義淵上人について、法相唯識論を学んだ。義淵の弟子の中でも行基、良弁等と共に、七上足の一人とされているように、早くから賢明の評判が高かった。
 政府は霊亀二年(七一六)に、阿部仲麻呂を遣唐大使とする大規模な遣唐使の一行を派遣することとなった。この一行に玄方も学問僧として、吉備真備や阿部仲麻呂等の留学生(るがくしょう)と共に同行することになった。この時代、唐へ留学することは、ちょっとやそっとの秀才でかなえられる夢ではない。これだけでもその卓越した優秀さがしのばれる。光明皇后は、この秀勉強逸な人材達の海上安全、無事平安を願って、藤原不比等邸の東北の隅に、角寺(隅寺)を建てて祈願をこめられた。それ程の期待を受けて一行は、渡唐の途についたのである。
 当時唐は玄宗皇帝の時代で、唐朝の絶頂期であった。玄方は、この華麗な長安の都で、法相唯識論の権威、智周大師について、法相教学の奥義を学んだ。長安での玄方の信望は非常に高く、玄宗皇帝から特に重んじられて紫の袈裟を賜った位である。唐の開元十三年(七二五)に玄方が五台山に登った時、途中で文殊菩薩が姿を変えられた老人や、瑞鳥に会い、山上で文殊菩薩に会ったという霊異話が残っている。更に、占師が「玄方という名は、還ると亡ぶという字の音と同じであるから、帰国すれば必ず迫害を受ける。」と予言し、唐にとどまることを極力奨めたという。この話は、いみじくも彼の運命を暗示しているし、又、阿部仲麻呂が引き止められて、遂に帰国できなかった事情にも似ている。しかし、玄方は、折角得た新知識を故国の発展に役立てたいと、在唐十七年の後、次回の遣唐使の帰国に従って、吉備真備等と帰国の途につく。
 帰国の途中、船団は海上で暴風雨にあい、玄方の「海龍王経」読誦の功徳によって、彼等を乗せた船だけが、無事種子島に漂着したそうだ。
 天平六年(七三四)十一月に大使の一行は九州に着き、翌年三月に入京した。そして、四月に真備は「唐礼」百三十巻、大衍暦(たいえんれき/暦書)、測影鉄尺(天文観測具)、銅律管(楽器)等を献上し、玄方は、経論五千余巻と仏像等を将来して献上した。玄9が誦して海難をのがれた「海龍王経」は隅寺に納められ、四海安隠仏法弘通を願って海龍王寺と寺名が改められた。現在も海龍王寺には、玄方将来の「海龍王経」四巻が蔵されている。
 玄方は帰国後、興福寺の菩提院に住み、興福寺系法相教学の第一人者として、多くの学僧を育て、天平時代の仏教興隆に大いに力を尽くした。
 帰国後の玄方は、朝廷から厚く処遇された。天平九年には、当時の僧綱の最高位である僧正に任じられ、日本で最初の紫の袈裟を許されている。そして、朝廷内の仏堂である内道場に居ることを認められた。同年十二月、玄方は聖武天皇のお母様である藤原宮子皇太夫人の病気を治している。宮子夫人は天皇出産後、病のため、一度も天皇に対面することが出来なかったが、玄方の祈りによって、病気が治って、天皇に会うことが出来た。玄方は宮廷内で絶大な信用を得、内道場で大きな勢力を持つこととなった。
 この時代は、奈良時代の天平の盛期を迎えようとする時代であり、仏教の上でも、国家仏教・学問仏教として空前の輝きを放つ時にさしかかった時期であった。先進国の盛唐文化に接し、それを身に付けて帰ってきた玄方は、僧正という立場からも、政界、宗教界に於て、否応なしに主導的な役割を果たすことになる。仏教行政、国分寺の設置や大仏建立に尽くした努力と功績、一般施政の上でも、その斬新な知識は大いに役立っている。しかし、その手腕と声望の高さに対する嫉妬や反感、複雑な政界の人間関係等により、その全盛を誇った時代は、彼の帰国した天平七年から約十年位に過ぎなかった。
 政治的に、もっとおだやかな時代であったなら、又、玄方様が仏教に専心出来たら、こんな怪談的な伝説を残すような最後を遂げられるようなことも無かっただろうに、と希有な天才の晩年の不遇が惜しまれてならない。
 しかし、玄方様の進言があってこそ、国分寺を全国に配置することによって、仏教国家の充実をはかり、毘盧遮那仏の造立も実現して(玄方様の最初に考えられていた所と場所は変わったけれど)、国威を内外に高揚できたのだろうと思う。大仏様が観光の目玉となっている奈良にとっては、大恩人である。又、玄方様の誠実な人柄と、優秀な才能と実践力は、立派な弟子達を養成し、興福寺の法相六祖の一人として尊敬されておられる。