第50回(1999年06月号掲載)

古都奈良の文化財が
世界遺産に!

 平成十年十二月二日、奈良が誇る、東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日大社、春日山原始林の八資産群が世界遺産として登録された。奈良市制百周年の掉尾を飾るに最もふさわしい快挙であった。誠におめでたいことで、奈良市民一同歓喜に沸きたった。
 世界遺産条約は、文化遺産や自然遺産を損傷、破壊から守る為に世界遺産として登録し、国際的な協力援助体制を確立することを目的に、一九七二年の国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で採択されたものだが、日本では批准に手間どって、一九九二年に締約した。その翌年、日本で最初に登録されたのが、「法隆寺地区の仏教建造物」、「姫路城」等である。これは、従来石仏や石の建造物がオリジナルであり、木造建築のように度々修理を加えて保存されてきたものはオリジナルでは無いかのような概念を持っていたヨーロッパ人等を瞠目させたようだ。更に今回登録された八遺産の内、七遺産までが、遺産という言葉に疑義を感じる位、信仰の場として千三百年近い歳月をしっかりと生き続けていることは、胸を張って世界に誇るべきことだ。しかしこれには法灯を護り、又それを支える数知れぬ人々の筆舌に盡し難い労苦があった筈だ。その労苦の結晶が世界に認められて栄光に輝いた今日、先人達のご苦労の一端を偲んでみたい。 奈良の社寺はいずれも度重なる地震や落雷等の天災、兵火や失火等による人災で甚大な被害を蒙っている。聖武天皇の御発願で、国力を挙げて造営された大仏様でさえ、一度は地震で、一度は平家の焼打の時、その御頭は落下し、堂宇は焼け落ちてしまった位だから、他の社寺も押して知るべしである。
 建物は灰燼に帰しても人々の信仰の火は消えず、僧侶達の命がけの復興運動を朝廷、時の権力者、萬民の信仰心が支えて、社寺は不死鳥の如く何度もよみがえった。
 しかも驚くべきことに、こうした混乱のなかでも各社寺に於ては途絶えることなく、祭事や勤修が執り行われている。有名な二月堂のお水取り(十一面観音悔過の行)は、今年で千二百四十八回目、奈良が焼野ヶ原になった時でも勤修されていたそうだ。春日祭やおん祭、その他各社寺で毎年、あるいは毎月勤修される法会が、遠くシルクロードより渡来した古の芸能や工芸を今日まで伝えているのである。
 奈良の寺院というよりも、日本の仏教界に最大の打撃を與えたのは、明治元年に発令された神仏分離令、それから発生した廃仏毀釈による寺院、仏具、経文等の破壊運動であろう。寺領は没収され、還俗を余儀なくされた僧侶も多く、堂塔は荒廃した。
 藤原氏の氏寺として幕末までは権勢を誇った興福寺でさえ、中金堂は県庁舎、食堂は寧楽学校舎として利用され、無住になったことさえあったということだ。更に五重塔まで売りに出され、買った人は解体すると費用がかかるので、焼いて金具だけ取ろうとしたところ、類焼をおそれた近所の人達の反対運動で焼くことが出来ずあきらめたと云うことだ。おかげで(何度か再建されたとはいえ)光明皇后の創建になる壮麗な五重塔が今日に残った。光明皇后が、自ら簀の子を持って土を運ばれたと伝えられる、この堂々とした塔が無くなっていたら、猿沢池畔から見上げる奈良の風景は、画竜点睛を欠くものとなっていたことだろう。廃仏毀釈の嵐が過ぎると、次第に復興の気運が盛り上がり、明治の中頃からは本格的な復興にとりかかって、徐々に往時の面影を取り戻していった。
 今回登録された内で、一番復興が遅れていたのは元興寺である。元興寺は我が国最古の本格的仏教寺院 法興寺が奈良遷都にともない飛鳥から現在地に移築された由緒深い寺であるが、度重なる火災や土一揆等で衰退して、昭和の初め頃には、極楽坊本堂と禅室、小子坊と、それを取り巻く荒れ果てた庭が、民家の間に埋もれるように残っているだけであった。この寺も廃仏毀釈の折り、今の飛鳥小学校の前身である、研精舎という、椿井小学校と共に奈良で一番古い小学校になったり、その後女学校に使われたり、真宗の説教所に貸されたりしたあとは、昭和二十年位まで荒れるにまかせて草に埋もれていた。私の家は、かつての門前町、元興寺町にあるのだが、元興寺は安政六年に残っていた五重塔が焼け落ちたのを最後に、無くなってしまったと信じていた。まして、中院町にある極楽坊と呼ばれる荒れ寺が、かつて栄光を誇った元興寺の一部であったなど、近所の大人も子供も誰も知らなかった。私が子供の頃は、「極楽坊なんかへ遊びに行くと、子取り(人さらい)にさらわれるから、行ってはいけない。」と固く戒められていた。それでも怖いもの見たさに破れ垣から覗くと、屋根は傾き、草は背丈より生い茂って化け物屋敷さながらであった。男の子達は覗くだけではあきたらず、探険としょうしてもぐりこむと、床は抜け落ちそうで、埃と蜘蛛の巣に、ほうほうのていで逃げ出して来たようだ。
 昭和十八年頃になって、極楽坊は有名な智光さんが住んでおられた住坊で、禅室と呼ばれているのは僧房らしいと、識者の中で言われ始めて、特別保護建造物に指定された。そこで、この無住寺を管理していた西大寺から、元興寺の修理復興の特任住職として就任されたのが、辻村泰圓師であった。その泰圓師さえ、特任されて初めてこの寺に来た時は、「門から入ろうとしても、中はひっくり返っているし、入れるような所ではありませんでした。なんとえらい寺だなと、覗いただけで引き揚げて帰ったという記憶があります。」とその手記に誌しておられる。それでも禅室の解体に手をつけられたようだが、師は召集を受けて兵隊に行ってしまわれ、修理作業は昭和二十二年までストップしてしまった。その間に、大阪空襲で罹災した方達が、一時極楽坊に住んで、本堂で七輪を使って煮炊きしておられるとのうわさを聞いたこともある。今から思えば、この無住時代によく火事等がおこらなかったものだ。
 本格的な修理作業が進むにつけて、この建物が奈良時代の遺構を残す貴重なものであるということがわかってきた。柱等の寸法が半端でどうもおかしいので、天平尺で計算してみたらぴったりなので、柱、桁、梁等も奈良時代のものであることがわかったようだ。この解体修理により、今では日本で唯一となった行基葺の屋根をもつ僧房がよみがえった。行基葺とは、玄奘三蔵から道昭菩薩が釈尊の生れ故郷の瓦の葺き方を習い、帰国してから行基菩薩に伝えた希有なものである。この解体作業により、数万点に及ぶ宗教史上の貴重な資料も発見されて、今日世界遺産に登録されるという栄誉を得られた訳だが、その間の三人の住職の辛苦を目のあたりに見ているだけに、今昔の感にたえない。

 白鳳伽藍の復興をめざして着々と成果をあげておられる薬師寺でさえ、前管長の高田好胤師が、「昭和二十一年当時の薬師寺金堂は、雨が降れば雨漏りがひどく、法要の時に傘をささなければならず、又お天気がいい日はお堂の中で日光浴ができる有様でした。」と著書に書かれている。その金堂の再建を一巻千円(現在は二千円)のお写経を百万巻勧進することによって達成しようという悲願をたてられたのである。一文字一文字書き写すことが功徳になると説かれても、はじめのうちはなかなか捗らず勧進に随分苦労されたようだ。辛苦の末、昭和五十一年遂に写経百万巻を達成して、金堂の落慶法要をされた。お写経の勧進によって人々の心に撒かれた仏心は芽を出し、枝を伸ばして、現在は中門から廻廊、講堂と白鳳伽藍の復興が進んでいる。
 人によっては、「奈良の寺院は滅びの美が良い。薬師寺はキラキラしすぎる。」と言う人もいる。しかし滅びの美ばかり追及していて、本当に滅んでしまったら、復旧のよすがも無くなってしまうであろう。
 「奈良のお寺は修復や再建されると、どうしてあんな派手な色になるのでしょう。」と言う方もいる。お寺というと墨染めの衣、白木造り等の、お葬式等を連想した暗いイメージを持たれているのだろうけれど、奈良時代の寺院は、「国家鎮護、天下泰平、萬民豊楽」を願って創建されたもので、七大寺では今でも檀家は持たれないし、原則としてお葬式はなさらない。当時の寺は仏教の修業は勿論であろうが、大陸の文化を学ぶ学問所であった。仏法のみならず、医学、土木建築、美術、文学諸々のことを学ぶ国立総合大学のようなものだったのだ。侘とかさびとかが貴ばれ始めたのは中世頃からで、白鳳天平時代は華やかな唐の文化が、そのまま奈良で花開いた時代だから丹と青が基調となるのは当然である。各寺院とも、多くの学識経験者の意見も聞き、資料に基いて適切な修復をしておられるのが認められて、今回の遺産登録となったのだろう。

 「咲く花の匂うがごとく」とうたわれた平城京の中心平城宮跡は都が長岡京に移ると急速に荒廃していった。当時の日本では新しい都を造営する時は、古い都の建物を解体して、その資材で新都を建設するのがならわしであった。それに拍車をかけたのは、大和の国司が農民を集めて、高い壇を削り、溝や池を埋めて水田にするように指導したからである。都が長岡京から平安京に移った頃には、平城宮跡は水田の底に眠っていて、ここがかつての宮殿跡だとはわからない位になっていた。平城宮跡に関心が持たれ始めたのは、明治二十八年、京都で平安遷都千百年祭が行なわれた時、前の平城京は奈良のどの辺にあったのだろうと疑問を持たれたからだという。明治三十年になって古社寺法が制定されて、初代の奈良県技師として赴任してこられた関野貞氏は、佐紀の田んぼの中にある「大黒芝」という土壇は、「大極殿」がなまったものであることを発見した。その新聞発表を読んで喜んだのは植木職の棚田嘉十郎氏であった。奈良公園の植木の管理をまかされていた棚田氏は、公園で仕事をしていると、「昔の御所の跡はどの辺ですか。」と観光客から何度となく聞かれるのに答えることが出来ず、何とか知りたいものだと思っていたからである。棚田氏は私財を投じてこの重要な史跡の保存運動をすすめた。地元の地主の溝辺文四郎氏もこの運動に温かく力を貸したが、棚田氏は二十年に亘る保存運動で資産を使い果し、心労と栄養失調から失明して、大正十年自宅の座敷で咽喉を突いて自殺された。JR奈良駅前の三条通りの入口に、「平城宮大極殿跡 是より西乾二十丁」裏には「明治四五年 建之 棚田嘉十郎」と彫られた大きな石碑のみが棚田さんの功績を物語っている。
 しかし平城宮跡に一般の関心が高まり、学者達による本格的な発掘調査が行われ始めたのは、戦後のことであった。そして長年の懸案であった平城京の朱雀門と東院庭園が復元され、平成十年四月十七日、秋篠宮殿下御夫妻をお迎えして盛大な記念式典が挙行された。平城遷都千三百年記念には大極殿も復元して国際性豊かな天平文化の息吹を人々に感じて頂く予定だという。
 以上述べたように、数知れぬ多くの先人達の血のにじむようなお働きによって、尊い遺産を遺して頂いたことに深甚の感謝を捧げる次第である。それと同時に、この遺産群の近くに住まわせて貰っている私達は、観光のお客様を温かく迎え、質問に答えることの出来るように勉強しなければならないと思う。そして願わくは、七大寺の中の西大寺、大安寺、光明皇后のお姿をうつしたと伝えられる十一面観音のおわす法華寺、パノラマのように薬師如来をかこんで十二神将が立つ新薬師寺、伎芸天の美しい秋篠寺、アジャンタの石窟寺院に似た十輪院の石龕、その他古い歴史と美しいたたずまいを持つ大和路の多くの遺跡にも世界遺産の輪を拡げて頂きたいものだ。
 余談ではあるが、十二月三日、マレーシアから帰国した私のもとに、見事な花束が届いた。プライベートな旅行であったし、第一今日帰宅することを知っているのは家族位のものだ。メッセージカードには「この度はおめでとうございます。佐野敦代」となっているが、誕生日ではないし、お祝を頂くような心当たりもない。
 それに、送主の住所の静岡県清水市というのも、親戚や友人のいない地名だが、佐野敦代様という名前は見覚えがある。家は昔から奈良町で砂糖屋を営んでいるので、奈良町を訪れたお客様がよく立ち寄って下さる。奈良町と言っても、一見何の変哲もない古ぼけた町へわざわざ来て下さったお客様に、私が家にいる時は、出来るだけこの近辺の伝説やしきたりをお話したり、歩き疲れた方にお茶を差し上げるようにしている。たったこれだけのことなのに、お礼状を下さる方もあって、それが洋服箱一杯に詰っている。それを探すと、有った、有った。八月に来て下さった方だ。それにしても何のお祝いだろうと思って送り状にある番号に電話をしてみた。すると聞き覚えのある明るい声が、「元興寺さんが世界遺産に登録されたでしょう。以前お参りした時のことを思い出して嬉しくて。きっと元興寺町に住んでいるあなたも喜んでおられるだろうと思って、花を贈りましたの。」とおっしゃった。たった一度お会いしただけの方が、覚えて下さっていて、こんなお心づかいを頂戴したのは恐縮であり、感謝であった。それと同時に、数多くの国宝や文化財が存在する奈良に住む私達は、その有難さに馴れ過ぎて、心の奥に、「世界遺産に登録されるのは当然でしょう。」といった不遜な思い上がりがあったのではないかと反省した。
 香り高い花々が、「謙虚な気持で、皆で貴重な民族の文化遺産を大切に守って下さいね。」とささやきかけているような気がした。
 これからも、奈良を訪れて下さるお客様方に、満足して頂けるよう、私共奈良市民一人一人が努力していきたいものだと思う。