第49回(1999年05月号掲載)
東大寺
転害門
 東大寺の西北隅にある、三間一戸八脚の形式をもつ堂々とした風格をもつ転害門は、度重なる火災や地震の害も受けず、東大寺で唯一、天平創建時代の建物である。
 東大寺では、大仏鋳造という大事業完遂のご守護を祈るために、天平勝宝元年(七四九)筑紫の宇佐から、八幡大神を勧請することになった。
 招請をうけてやって来られた八幡大神は、歓迎の人達に迎えられて、この門から東大寺境内に入られた。その時、大神は、「あらゆる殺生を禁断する。その代り、災害を転じて福を与える。」とおっしゃったので、以後この門を「転害門」と呼ぶようになったという。
 東大寺では、八幡大神を守護神として、大仏殿の東南に手向山八幡宮を建てて尊崇していたが、治承の乱の後、三月堂の東に遷されて、今もなお多くの人々の崇敬をあつめている。
 なお、この神社に現在ある神輿は、南北朝時代の初期につくられたもので、室町時代には、東大寺の僧兵達が、しばしばこれをかついで朝廷へ奏上にでかけた由緒深いものであると云う。
 総国分寺として、広大な境内に建立された数多くの堂塔のなかで、創建当時のものはこの門一つという程、天下の東大寺も度重なる災害を受けておられる。
 大仏開眼から百年余り経った八五五年、五月二十三日、大地震で大仏様の頭が墜落してしまった。修理には眞如上人が中心となって勧進にあたられ、大仏発願の詔の心をうけつぎ、「一文銭、一合米」の喜捨でも、こころよく受けられた。
 修理には六年間かかり、八六一年三月十四日には盛大な開眼供養(御首供養会)が行なわれた。
 眞如上人は、平城天皇の第二皇子という尊いご身分でありながら、道心篤く仏門に入られた方である。
 眞如上人はこのあと、求法のため唐に渡られ、更に仏蹟を巡拝したいと発願して、天竺を目指されたが、途中羅越国(シンガポール付近)で虎におそわれて一命をおとされた。一説には、すでに七十才を越えておられた上人は、体力的に天竺まで行けそうもないと悟られて、みずから虎の餌食となって、千里を走る虎の身体を借りてでも天竺へ入ることを願われたのだという。
 又、九三六年には落雷で西塔と廻廊が炎上し、九七○年には東塔に落雷している。
 この時代、天災もダイナミックであったとも言えるが、高い建物が少ない時代だから、塔は避雷針のような役割を果たしてしまったのかも知れない。
 今は見ることが出来ない豪華な七重の両塔を想像するだけでも、天平文化の華やかさを推しはかることが出来る。
 それにしても、現代を生きる我々は、公害や犯罪の増加を憂いて、「末世だな」なんて言っているが、眞如法親王のように高邁な理想を抱かれた方でさえ、なしえなかった仏蹟巡拝を、私達のような俗人でさえ、何度も仏蹟にお参りさせて頂くことの出来るご時世に感謝し、その文明が自然を破壊したり、人々の心を枯渇させたりすることのないよう、最善の努力をしなければならないと思う。
 こうした自然災害は、その後も何度かあったようだが、それにも増して残念なのは、二度の兵火で、東大寺のみならず、興福寺、元興寺の貴重な諸堂の殆どが焼失していることだ。
 この第一回は治承四年(一一八○)十二月二十八日のことである。ことのおこりは、後白河法皇の皇子の以仁王が、源頼政とはかって、平家討伐の兵を挙げようとしたことにある。しかし、計画は早くも平家にかぎつけられたため、以仁王は園城寺(三井寺)へ逃れられたが、平家の軍は、源氏に味方する延暦寺園城寺に焼打をかけた。
 以仁王は南都へのがれようとする途中でつかまって殺されてしまった。
 かねてから、以仁王に味方していた、東大寺、興福寺の衆徒達は、その報を聞くと、平家の無道をなじって騒ぎたてた。怒った平清盛は、その子重衡に命じて、大軍をひきいて南都に攻め入らせ、東大寺、興福寺の諸方に火を放って、またたく間に堂宇のほとんどを焼きつくした。この時、廬舎那仏の御頭は後に落ち、左右の御手も折れて前に横たわるという見るも無残なお姿になってしまわれた。
 こうして天平・平安の宗教的遺産は、一夜にして灰燼に帰してしまったが、翌年二月に平清盛が死去して後は、後白河法皇の宸志により復興気運が動きはじめた。
 もと醍醐寺の僧であった後乘房重源を、造東大寺勧進職に起用して、朝廷、幕府、仏教界をはじめ、一般民衆にも働きかけて、先ず、大仏の修理に取り組んだ。大勧進を引き受けた時、重源はすでに六十一歳であったが、彼は一二○六年、八十六歳で入寂するまで、ひとすじにその仕事に邁進した。彼の縦横の働によって、その難事業は着々と進展し、ようやく大仏鋳造が終わったので、文治元年(一一八五)後白法皇台臨の下に、大仏開眼供養がおごそかにとり行なわれた。
 次は大仏殿の造営である。重源はひきつづき必死の活動を続けたが、これに積極的な援助を惜しまなかったのは源頼朝であった。
 平家が、全国民の崇敬していた南都の諸寺、殊に大仏殿を焼き払ったことによって民心を失ったことから、その修復をすることによって民心を得ようとしたのであろう。全国の守護、地頭に対しても協力を要請している。再建事業は順調にすすみ、十年後の建久六年には、造営が完成し、三月十二日には、落慶法要を行うことになった。
 頼朝はそれに参列するために、夫人の政子や子供達と共に、有力な御家人達にまもられて、二月十四日鎌倉を出発し、三月四日には京都に到着した。一行は三月十日、前日から参籠していた石清水八幡宮を出発して多数の将兵を従えて威風堂々と東大寺に到着し、宿舎東南院に入った。
 法要の当日頼朝は腹心の和田義盛、梶原景時にそれぞれ数万騎を配して東大寺の警固にあたらせたので、蟻の這い込むすき間もなかったという。平家の残党の悪七兵衛景清は、頼朝の参列をあらかじめ知って、「今こそ平家の恨みをはらす絶好の機会だ。頼朝の首をとらずにおくものか」と覚悟をきめて、坊さんの姿に化けて、前もって東大寺の中にまぎれこんでいた。
 ところが、頼朝の到着と共に、にわかに詮議がきびしくなって、身分がばれそうになったので、慌ててこの門に逃げ込み、楼上に身をひそめて、頼朝が門を通るのを待ちぶせて討ちとろうと計画していた。
 しかし、当日になると、その警戒が一層きびしくなって、遂に警護の武士にみつかって、斬り結んだ結果、いづこともなく退散した。そのことがあってから、この門のことを、「景清門」とも呼ぶようになった。
 第二回目は永禄十年(一五六七)十月十日。室町の末期頃になると、幕府はその威信を失って、各地で大名達の小ぜりあいが続き、戦国乱世の様相を呈してきた。
 南都では松永久秀と、三好三人衆(三好下野守、三好日向守、石成主税助)との抗争が続いていた。松永勢は、多聞城に拠り、三好勢は大仏殿に陣を張ったので、その激しい攻略は、東大寺を戦場として行なわれた。そのため、それまでにも、文殊堂、授戒堂、戒壇院、千手堂その他の建物が焼け落ちていたが、十月十日の夜、多聞城を出た松永勢が、三好勢の本陣大仏殿に焼き打ちをかけた。
 虚をつかれた三好勢の防戦はおよばず、火は廻廊をひとなめにして、大仏殿に燃え移り、ものすごい火柱を立てて、大音響と共に炎上してしまった。
 東大寺にとって全く不慮の度重なる災害をくぐり抜けて、創建当時の面影をとどめているのが、この転害門である。又、一説には、婆羅門僧正が東大寺に入る時、この門で行基菩薩が待っていて、手で招いたが、その様子が手で物を掻くように見えたので、「手掻門」とも呼ばれるようになったと言われる。また、この門は、聰国分寺の東大寺と総国分尼寺の法華寺を結び、平城宮に通じる佐保路(一条大路)に面しているので、佐保路門とも呼ばれていたそうだ。