第48回(1999年04月号掲載)
東大寺 大仏開眼
「八十華厳」の伝説
 天平十五年十月十五日、聖武天皇は度重なる内憂外患に苦慮された末、遂に意を決して、大仏造立発願の詔勅を発せられた。華厳経に説かれている蓮華蔵世界を象徴する毘盧舎那仏の巨像を造立することによって、国家の安泰、鎮護国家を祈願し、動物も植物も、勿論人間も皆ことごとく栄える理想の世界にしたいという天皇の悲願であった。
 なにしろ、莫大な資材と労力、費用を要する大仕事であった。天皇は、このことのために国民の生活をおびやかすことのないようにと詔勅のなかでも、こまかく配慮されており、おそらく言語に絶する苦労と心痛の連続であったと思われる。
「若し朕が時に、造りおわるを得ざることあらば、願くば、来世に於いて身を改めても、猶作らん。」という天皇のお言葉からしても、工事がいかに困難であったかがしのばれる。
 しかし、この偉業を嘉じ給もうた神仏のご守護と、勧進の長を命じられた行基をはじめ勧進に当った多くの方達、それを支える民衆の協力によって、天皇はついに、この前代未聞の大事業を完遂された。(天平勝宝四年(七五三)四月九日、大仏開眼の法要が行なわれるのにさきだつこと三年前(七四九)聖武天皇は、孝謙天皇に位を譲って上皇となって、もっぱら大仏造営にあたっておられた。)
 晴れの開眼供養の日が近づいた三月二十日には、当日の主な役割が発表された。
 聖武上皇は、お身体の調子が勝れぬというので、、先年来日した印度僧の菩提遷那に、上皇に代って開眼の導師をつとめるよう、任命された。菩提遷那は南印度の人で、中国の五台山に参って、文殊菩薩を拝みたいと思って唐の国へ来られた際、遣唐大使丹治比眞人広成や留学僧玄9等とつきあうようになり、そのすすめにしたがって、唐僧道8、カンボジア僧の仏哲等をともなって、帰りの船に同乗し、天平八年難波津に到着されたその時は、行基が港まで出迎えて、都に案内されたという。
 「華厳経」の講師には、隆尊律師、咒願師には道8律師、開眼法要を統括する都講には行基の弟子景静禅師が任命された。
 大仏建立の勧進に大活躍された行基菩薩は、その完成をまたず、天平勝宝元年の二月に八十歳で、遷化されていたのである。
 それにしても、異国の帰化僧が、この世紀の大会の重職を与えられたということは天平文化のおおらかな国際性を示すものであり、天が下をしろしめす毘盧舎那仏のご開眼にふさわしいものであったと思う。
 四月九日開眼会の当日は、東西十一間、南北七間、高さ十五丈六尺の重層の大仏殿は美しく荘厳され、色とりどりの沢山の幡が、春風にたなびき、御堂の隅々まで種々の花で荘厳されて、これから始まる世紀の大法要の雰囲気をいやが上にも盛りたてた。
 聖武上皇と光明皇太后が定めの席におつきになると、先ず、上位の僧侶達一○二六名が南門より参入し、次に、開眼導師の菩提僊那が輿に乗って東から入り、続いて講師の隆尊律師が輿に乗って西より入るといった調子で、威儀を正した皇族や高僧方が綺羅星のようにいならばれる。
 一同が着席されると、開眼導師はおもむろに仏前に進み出て、長い開眼縷のついた筆を執って、開眼の作法をされた。開眼縷はおびただしい数の参集者それぞれの手にふれられるよう配慮されていて、大仏の開眼作法は、菩提僊那のみにとどまらず。参詣者全員で行ったということだ。
 まさに一枝の草、一にぎりの土でもと、国民大衆が造仏という善根にあやからせてやろうという、聖武上皇の発願以来一貫した大御心のあらわれだと思う。
 この精神は今も生き続けていて、昭和五十五年の大仏殿昭和大修理の落慶法要の折にも、鴟尾の覆いを除幕する時、鴟尾から五色の縷をつないで、管長さんはじめ、多くの参詣者が皆その縷を持って除幕して、鴟尾放光の感激を味わったものである。
 落慶や開眼法要に際して、参詣者一同が五色の縷を持って感動を共にさせて頂くというのは、薬師寺の金堂や西塔、玄奘三蔵堂の落慶の折にも行なわれたから、平城のおおらかな心を伝える南都仏教の伝統なのかもしれない。
 「仏法東帰してより斎会の儀、未だかつて此のごとくの盛んなることあらず」と言われた盛儀の様子は、正倉院に納められた、大仏開眼供養会に用いられた仏具や幡、仮楽面や筆墨縷等によって偲ぶことが出来る。
 殿内に於ける一連の開眼供養が行なわれた後は、衆僧沙彌など九七九九人が南門から左右にわれて入り、仮殿に着座したそうだ。
 今から十年前(一九八八年)奈良置県百年を記念してシルクロード博が開かれた年、仏教界でもこれに呼応して、大仏殿に於いて千僧法要が営まれた。この時、全国から集られたお坊さんが約一二○○名。経文の箱を背に積んだ象や駱駝を交えての行列は、春日大社一の鳥居から大仏殿まで延々と続き、見事なものであった。
 大仏殿の法要では、春空に読経の声が響きわたり、散華が舞い下りて、大仏開眼の折もかくやと思わせるものがあったが、実際の大仏開眼には、その時の十倍ものお坊さんが参加されたとは、それだけでもたいへんなことだっただろう。そして、大歌女、大御舞、久米舞、楯伏舞、女漢躍歌、跳子、唐古楽、唐散楽、林邑楽、高麗楽、唐中楽、唐女舞、高麗女楽等の楽人達が次々と参入して、日本、韓国、中国、カンボジア等の国際色豊かな音楽や舞が奉納されたという。
 私も大仏殿昭和大修理の落慶法要に生まれあわせていたおかげで、その片鱗を見せて頂くことが出来たのはしあわせだったと思う。
 若し、天平の頃、生きていたとしても、その頃の仏教は貴族の学問であり、大学のようなものであるから、一般庶民にとっては近より難い存在で遠くから大仏殿の鴟尾を覗める位しか出来なかったであろう。正倉院の御物も、毎秋一般公開されるようになったのは、戦後のことであるから、それまでは、話に聞いていても見ることは出来なかった。又、そうして大切に保管されていたからこそ、約1250年も昔の威儀をしのばせる法具や御物、おおらかな天平文化を物語るおびただしい宝物の数々を拝観させて頂けるのは有難い時代に生まれあわせたものだと、感謝している。
 唐の高僧、鑑真和上が、師僧の出国を阻止しようとする弟子の妨害や嵐による難破等で、前後十二年、六回目の航海によりやっと薩摩(鹿児島県)にたどり着かれたのが、天平勝宝五年十二月。待望の平城京に入り、良弁僧正の案内で大仏に詣でられたのは大仏開眼から二年目の天平勝宝六年(七五四)のことであった。長年の労苦で和上は視力を失っておられたが、四月には大仏殿前に仮設の戒壇を造って、聖武上皇、光明皇太后、孝謙女帝に菩薩戒を440余人の僧に具足戒を授けられた。
 この時代は、仏教の興隆にともない、国禁を破って勝手に僧や尼になる私度僧が増えて、智行具足の清浄僧との区別をする一線が授戒であった。
 この意味で鑑真、法進、義静など一行二十四人の来国は、天平仏教に画龍点晴を加えるものであった。
 翌七年十月には、大仏殿西方に常設の戒壇院が建立され、三師七証の十人の僧による授戒が毎年行なわれるようになった。鑑真和上というと、すぐ唐招提寺と思うが、七五九年まで東大寺客坊におられたそうである。