第47回(1999年03月号掲載)
東大寺
大仏建立時代の背景
 青丹よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり(巻三―三二八)
 丹塗の柱、青い甍が軒を連ね、きらびやかな大宮人達が行きかう、あでやかに咲き香る花のように華やかな都を思い描かせる平城京讃歌である。しかし、この歌は奈良の都で詠まれた歌ではない。大伴家持のお父さんの旅人が大宰府長官として赴任した時、その補佐をする大宰少弐として随行した小野老が、奈良の都をなつかしんで詠んだ歌である。大伴旅人も
 わが盛 また変若めやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ(巻三―三三一)
「私ももう年だ。男のさかりが又もどってくることがあるだろうか。もう一度、あの奈良の都をこの目で見たいものだが、もう駄目かもしれないな」と慨嘆している。
 たしかに、奈良時代は中央集権が確立し、唐の爛熟した文化やシルクロードの秀れた文物が入って来て、都の体裁や律令制も整った華麗な都は、天離る鄙に転勤した身から見れば、泣きたい程なつかしい所であっただろう。
 しかし、都の上層部では、皇位継承問題に、旧王族、旧豪族と、新興勢力である藤原一族との間の政権争奪が微妙にからみあって、闘争の繰り返しであった。
 そうした時代背景のもとに即位された聖武天皇であったが、即位以来、天候不順の為の凶作・飢饉、加えて大宰府から流行しはじめた天然痘は、七三七年には平城京内に蔓延して、前代未聞と言われる程の死者を出した。その上、大地震、最愛の皇太子の夭折と、繊細な神経の持主であった天皇が、かなりまいっておられるところへ、藤原広嗣の乱がおこった。それまで、政権を掌握していた藤原の四卿が天然痘で次々死亡したため、代わって樹立された政権への反発ではあったが、広嗣は光明皇后の甥であったから、この反乱に大きなショックを受けられて、平城の地がおぞましく感じられたのであろう。乱の勃発と共に東国に退避された天皇は、鎮定後も平城京にかえらず、山城の恭仁京を都と定めて、その造営を始められた。
 そして、造営なかばの恭仁京で、天平十三年二月十四日、国分二寺建立の詔勅を出しておられる。しかし、平城京の大極殿を移転させた恭仁京の造営は思うにまかせず、天皇は、近江の国に紫香楽宮を造って、皇居を移された。
天平十五年十月十五日、かねてから広大な構想をねっておられた盧舎那大仏造立の詔勅をその地で出し、ただちに鋳造のための寺地を近くの甲賀に定め、工事にかからせた。工事は順調にすすんでいたが、たまたまその頃、紫香楽宮周辺の山々に山火事が頻発して、被災する住民がおびただしく、世情が騒然としてきた。
 そこで、天平十六年の二月、難波京に遷都してその造営工事を急がせた。だが、あいつぐ遷都さわぎで、人心が定まらず、難波京の造営は思うにまかせなかった。そこで、難波京に移って一年後の、天平十七年五月に、再び住みなれた平城京へともどって来られたのである。
「遷都後三ヶ月目の、天平十七年八月二十三日、盧舎那仏造立を、紫香楽の地から、大倭国添上郡山金里に移して工事を始め、天皇みずから御袖を以て土を入れ持ち、運んで御座に加えられ、公主、夫人、命婦、采女、文武官人等も、土を運び御座を固めた。」とのべられている。
 この時代は、中央政府の支配領域が拡大し、北海道を除く、略今の日本の統一がなしとげられていたので、豊かになったとは言うものの、相つぐ旱魃や悪疫の流行、大地震、内乱と、経済的にもかなり疲弊していたであろうと思われるのに、我が国では前代未聞の五丈三尺五寸もある巨大な『盧舎那仏』の造立を発願されるのは、重大な決意を要したであろう。いや、そんな時代であったからこそ、盧舎那仏造立によって華厳経の世界を具現し、鎮護国家を祈り、仏法の興隆によって萬民の平安を願われたのだと思う。
「(前略)三宝の威霊に頼て、乾呻相泰かに(天地が平穏に)万代の福業を修めて、動植、咸く栄えことを欲す。粤に天平十五年次発末十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して像を鎔し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及して朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしめん。(中略)如し更に人の一枝の草、一杷の土を持て、像を助け造らんことを請願する者あらば、恣に之を聴せ。国郡等の司、此のことに因り百姓を侵し擾して、強いて収斂(租税をとりたてる)せしむること莫れ。遐邇(遠い所も近い所も)に布告して朕が意を知らしめよ。」とある。たとえ、一枝の草、一つかみの土でもいいから、広く国民の協力を得ることによって、仏縁にあやからせてやろうという大慈悲の心と、国民に無理強いの負担にならぬよう、役人達に釘をさす、誠に行き届いた詔だ。
 その工事は、金光明寺造仏所から、造東大寺司に発展し、幾多の危機と困難を克服して、三年がかりで、八度の鋳継ぎによって、大仏の巨像が略完成した。仏体だけで約250トン、蓮華座に約130トンの銅を要したので、和銅元年(708年)以来、政府に蓄積されていた銅は、文字通り、国銅を尽しての大工事であった。
 本体は、ほぼ出来たが、塗金に用いる黄金の入手に苦慮しておられたところ、七四九年の二月に陸奥国小田郡より、黄金産出の報が届いた。まさに神仏の感応したまうところであると、四月一日には聖武天皇、光明皇后は、百官をひきつれて東大寺に詣で、日本最初の産金を報告し、大仏のご加護に感謝の詔を捧げられた。そして、神仏や歴代天皇のいつくしみを国民皆と共に歓ぶ詔が出されて、年号を天平感宝と改められた。この詔のなかで、天皇は大伴、佐伯同族両氏が代々宮廷を護ってきたことを嘉賞され、大伴家持の位一階をすすめられた。
 当時越中の守として越中の国府にいた家持は、いたく感激して、その感激を、彼の生涯に於ける最長の長歌一首と、反歌三首をお祝いとして奏上した。その反歌のなかの一首、
 すめろきの 御代栄えむと
  東なる みちのく山に 金花さく(巻一八―四○九)
の万葉歌碑が、東大寺真言院境内に建立され、平成十年四月十五日除幕された。日は異なるが、奇しくも、黄金産出の詔を捧げられた月、又、大仏開眼は四月九日だったから、これとも同じ月に、犬養孝先生揮毫のこの歌碑が東大寺境内に建ったことに、深い感銘を覚えた。
 天平勝宝四年(七五二)四月九日の大仏開眼の日を数日後に控えたその日は、麗らかに晴れ上った暖かい日であった。青い空には、出来上がったばかりの大仏殿の屋根が、くっきり浮かんで春日に輝いていた。
 なにしろ、今まで見たことも聞いたこともないような大きな建物が、鮮やかな朱や緑に塗られて、そびえたっているのは、まさに偉容である。それは華麗なだけではなく、おごそかな威厳を備えていて、内におられる大仏様のご威徳をしのばせるものがあった。大仏殿の前の広場には、沢山の見物人が押し寄せていた。大仏開眼の法要は四月九日なので、まだ大仏様をおがませて頂くことは出来ないが、まるで龍宮城か、唐の都の大楼のようだという大仏殿を見ておきたいものだと遠近からやってきた人達がひしめきあっていた。聞くところによると、この内には、まだ見たこともない程大きな毘廬舎那仏がおまつりしてあるそうだ。毘廬舎那仏は太陽のように広大無辺の大慈悲の光を、この世すべてのものに注いで下さる仏さまだという。人々はこんな立派な仏様の開眼法要という得難い好機に生まれ合わせた奇縁の喜びに酔いしれていた。
 その時、後の方からかなり年をとっているようだが、背の高い矍鑠とした男の人が、二つの大きな篭を天秤棒でかついで、「ちょっと、ごめんなすって。」と言いながら、人々の間をくぐり抜けて前に出ようとしていた。
 篭で押された人は怒って、「あんた、こんな所へそんな大きな荷物を持ち込んで来て。その篭の中には何が入っているのだ。」と、たずねた。
 「へい、とりたての新しい鯖ですわ。九日には、大仏様の開眼法要が行われますそうですので、是非東大寺様にお届けしようと、持って参りました。」と答えた。聞いた人はあきれて、「あのな、おじいさん、あんたはなにも知らずにわざわざ遠くから持ってきたのだろうけれど、お坊様方は、肉や魚といった生臭いものは一切お召し上がりにならないんだよ。大きな開眼法要だから、天皇様、皇后様はじめ、朝廷の偉い方達が沢山おみえになるだろうけれど、皆、精進料理だから、鯖なんかお使いにならないんだよ。寺務所の人達に言っても無駄なことだから、ひきかえしたほうがいいよ。」と説明してやった。
 しかしおじいさんは、「くわしくお話して頂いて有難うございました。しかしわしは、どうしてもこれをお届けしなければならないのです。すまんが、一寸通して下さい。」といって尚も人をかきわけて前に進もうとした。
 説明した男もあきれて、「あれだけ言ってもわからない、しぶといじいさんだ。どうせ寺務所へ行っても大目玉をくらうにちがいないが、道をあけて通してやりなされ。」と大声で言ったので、鯖売りのじいさんは、ごった返した人波のなかを、前に出ることが出来た。
 丁度寺務所から出てきた若い坊さんに鯖を持ってきた旨をつたえると、案の定、若い坊さんは顔色をかえて、どなりつけた。「そうでなくてさえ、あらゆるけがれを払って、精進潔斎で開眼供養の準備をしているところだ。鯖のような生臭い物を持ち込まれては、どのようなお叱りを受けるかわからない。さあ、さっさと持って帰ってくれ。」
「いや、わしは、どうしても受け取ってもらう。」頑としてきかないおじいさんに、若い坊さんは、今にもなぐりつけんばかりの勢いで、
「受け取れるものか。今すぐ持ち帰れ。早く持ち去らなかったら、ただではすまさないぞ。」と、どなり散らして大騒ぎになった。
 ちょうどそこへ、大仏殿の方から、良弁上人と、その高弟の実忠が出てこられて、騒ぎの訳を聞かれた。そして、
「聞いてのとおり、私共は生臭いものは頂かないことになっておりますが、どうしても受取ってほしいとおっしゃるのでしたら、有難く頂戴して、後程、お参りに来られた方達にでも、分けて、貰って頂くことにします。有難うございました。」とやさしくおっしゃった。
 背の高いおじいさんは、それを聞くと嬉しそうにうなずいて、そこへ篭を置いたまま、あっという間に人波にまぎれ込んで、姿を消してしまった。
「いろんな人がいるものじゃ。ではご参詣の人達に、その鯖を一匹ずつ貰って頂くことにしよう。」
と言って、かたわらにいた雑司に篭のふたを開けさせた良弁上人はアッと驚かれた。
「見よ、実忠、これは、まあたらしい『華厳経』八十巻ではないか。」
「いかにも。お師匠様、これはたった今、唐から届いたばかりのような、新しい経典です。鯖だとおっしゃったのは、はるばる海を越えて届けられたという意味でしょうか。」
「そうかも知れない。それにしても、あの方はいったい、どなただったのだろうか。大仏開眼を祝って菩薩様か、唐の偉い方がお供え下さったものであろう。早速、大切に毘盧舎那仏様の御前にお供えさせて頂こう。」
 こうした伝説をもった「八十華厳」は、今もなお、大切に東大寺に保管されているということである。
 [註]「華厳経」には新旧の漢訳がある。旧訳といわれるのは、東晋の時代(五世紀の初め頃)仏駄跛陀羅が訳したもので、六十巻なので、「六十華厳」と呼ばれる。新訳は、八十巻で、唐の時代(七世紀の終わり頃)実又難陀によって訳されたもので、これは「八十華厳」と呼ばれている。大仏開眼にさきだってお供えされたというお経は、まさに、漢訳されたばかりの、完備した経本だったのである。