第46回(1999年02月号掲載)

春日大社の信仰と伝説 参

 延慶二年西園寺公衞が奉納した「春日権現験記絵」には数々の春日明神のご神威が絵と書で語られている。

例1・関東武家介入の崇り
 鎌倉時代幕府は全国に守護や地頭を置いた。しかし大和の国は例外で、興福寺がその任に当っていた。ところが、嘉元二年(一三〇四)寺内に騒動がおこったので、その鎮圧のため幕府は興福寺の領地にも地頭を置いた。これをご祭神が嫌われて春日社を去られたのか、春日山の木が急に枯れはじめ、社頭の燈火は消えた。これを知った幕府は崇りと畏れ、直ちに地頭を廃止して、武家不入地にもどした。するとたちまち神火が飛びかって社頭に燈火を点し、春日山は活きいきとした緑を取り戻した。

例2・明神に助けられた楽人
 興福寺の舞人であった狛行光(一〇九二〜一一五二)は十六才の時始めて父、狛行高から賀殿の曲を伝えられた。それ以来、折りにふれて春日の社頭へ行って、この舞を奉納していた。ある時、行光は、重病にかかって息が絶えてしまい、閻魔様の前に引きだされた。
 この時気高い方が現れて、「この者は、十六才よりこのかた、私に深く忠誠を尽くしてくれている。願わくば、私に免じて許してやってほしい。」と言われた。閻魔様はその仰せに従われたので行光は許されて閻魔庁を出ることになった。行光は不思議に思って、「私が命拾いをさせて頂きましたのは、ひとえにあなた様のおかげでございます。あなた様はどなたでございますか。」と尋ねると、「私は春日大明神である。ところで、そなたは地獄をみたくないか。」と言って、行光を地獄の様子を見に連れて行ってくださった。地獄の苦しみは筆舌に尽し難いものがあった。恐ろしい地獄の有様を見て廻ったのち、「どうすれば、このような報いを免れることが出来るのでしょうか。」とお尋ねすると、「父母に孝養を尽しなさい。孝養は最大の功徳であるから、よくよく努めたなら地獄へ落ちることはない。」と教えられたという。
 春日信仰の教説は、鎌倉時代の仏教界の重鎮として、「釈迦に還れ」を主張して、南都仏教の振興に尽された笠置山の解脱上人と栂尾山の明恵上人が集大成しておられるので、験記にも両上人の話が多い。その中でも特に有名な話を一つ披露する。

例3・明恵上人のインド渡航を春日明神が止められた話
 明恵上人は、かねてより釈迦の滅後に生まれたことを悲しみ、せめてインドに渡ってその遺跡を巡拝し、釈尊をより身近に偲びたいと念願していた。(上人は法顕の“仏国記”や玄奘の“大唐西域記”などで勘案されたのであろうか。仏跡から仏跡への距離などをかなり具体的に調べておられたようだ。)いよいよ実行に移そうとした建仁二三年(一二〇三)の正月、保田庄星尾の湯浅宗光の館に滞在しておられた時、宗光の妻橘氏に春日明神が憑依して、明恵にインド行きを思いとどまるよう託宣を下され、それによってインド渡航計画は中止されたという。(春日権現験記絵、全二〇巻のうち、巻一七と巻一八がこの説話になっている。)
【巻十七】 栂尾の明恵上人が、紀伊国白上という所におわし、渡航計画をしておられる時、橘氏女が、建仁二年正月十九日より八ケ日の間飲食を絶って一心にお経を読んでいた。家の人達は病気かと思って心配したが、顔色も良く元気そうであった。毎日湯を浴びて読経しているので、人がいぶかって「どうしたのですか。」と聞くと、「我、何事をも思わず、唯三宝の境界のみ心に入りて、世法心に染まず。」と答えた。
 二十六日の午の刻(正午)、新しい筵を障子の鴨居の上にかけて、それに登って宜う。「我は是、春日大明神なり。御房(明恵のこと)の唐へお渡の事、極めて嘆かわしく侍ればこのことを制し奉らんが為に参りたるなり。御房、智恵人に勝りたる故なり。御房を信じ奉る人をば、我、皆守護するなり。時々は南都の住所へも来られ給うべし。」と仰せられたので、上人は、仰せをかしこんで、「渡航を止むべし。」とお答えになった。橘女は鴨居より降りたが、懐妊中なのに、降り昇りにいささかのさし障りもなく、その姿は静かで蝶が舞うようであったという。
 女は一室に閉じ籠るが、異香が庭まで充ち満ちた。上人は同朋数多引きつれてその室へ行って障子をあけてみると、女房は衣服で顔を覆って臥していたが、上人を見てほほえんだ。上人が「この異香はどうしたのですか。」と聞くと、「何かわからないが、私も身が芳しく思えて、見参の仕度をするところです。高い所へ登りたいので、天井に登るから、この障子を立てて下さい。」と言われたので障子を立てると、天井の板が一枚開いて、益々良い香りが漂ってきた。ひらりと天井に登った女に、上人はじめ一同「南無春日権現」とひれ伏すと、天井より柔和で威厳に満ちたお声が聞えてきた。「先に申したことに、まだご不審があるようなので、再度来ました。神明は皆御房を守護しています。なかでも、私と住吉大明神は殊に惰従してお守りしているから、渡海されても私達は離れないので、苦しまれることはないだろう。けれども、この国におられれば、諸人善縁を結ばさせて頂く事を喜びに思っているので、遠い所へご修業に行かれるのを淋しく思っている。私は仏法を信じる人を皆愛している。」と仰せになって、鴻毛の散るように音もたてず天井より下りてこられた。妙香がいよいよただよって、その香は沈香や麝香とも違う、深く濃い匂いで一同感悦に耐えなかった。お手足を舐めると、甘葛のように甘く、口の病に悩む人がなめると、たちまち痛みがとまった。
【巻一八】 約一カ月後、明恵は春日大社に詣でた。東大寺の中御門までくると、その辺りにいた鹿三〇頭余りが上人を見ると、いっせいに地に臥して出迎え、その時空に異香がたちこめた。春日大社の社殿でまどろんでいると、霊鷲山に詣でて、釈尊に奉仕する夢を見た。その後、紀州へ下る時、ある人は春日大明神の眷属がついて来て下さっている夢を見、また上人の体から芳香が発したという。また、数日後の社参の時、明恵は、二つの鉄槌を持つ夢を見る。上人は、解脱上人に対面するために笠置寺を訪れた。解脱は異香をかぎ、春日明神に法施をしてから、明恵と対面した。感激した解脱は、秘蔵の舎利を紙に包んで明恵に託し、明恵は紙に包んだまま経袋に入れて東大寺に帰った。
 翌日、春日大社に参って、宝前で眼を閉じて法施をして、瞑想しておられると、先の二つの鉄槌は舎利であると感づかれたので、紙包をあけてみられると二粒の舎利が出てきた。「今回お召しになったのは、この舎利を賜らんがためだったのですか。それでは、今より後は、一粒は釈尊の御形見、一粒は大明神の御身と頼み奉りますので、必ず権見の御身、この舎利に入り居させ給え。」と一心に祈願すると大明神は左の脇によりそいて立ち給えり。これ、左の脇に掛け奉る御舎利に、大明神の御身入らせ給う証なるべし。とある。
 大明神のご神託で航海をあきらめた明恵上人であったが、上人が紀州の鷹島に渡って修業しておられる時、はるか西空を望み、釈尊の遺跡への礼拝を行った。この時、この海の水は、釈尊の遺跡が周辺に沢山ある蘇婆河の水に通じているとして、何度もその水をすくって礼拝し、そこで拾った石を蘇婆石と名付けて、終生座石に置かれたという。
 真如法親王は桓武天皇の御孫という貴い御身でありながら、インドの仏蹟巡拝を志し、途中、羅越国(今のシンガポール)で、虎におそわれて落命されている。しかしなお、自分を食べた虎が、千里を走ってインドに到着することを願われたという。そのような時代だから、誠にもっともなご神託であったと思う。
 藤原氏の祖神である春日社は、神仏習合思想のたかまりと共に、藤原氏の氏寺である興福寺と堅く手を結び一体化していった。(明治初年の神仏分離政策が施行されるまで。)
 10世紀頃になると、南都(興福寺を中心とする南都仏教教団)の僧兵は春日大神の神霊を榊に移して神木となし、それを奉戴して強訴におよんだり、北嶺(比叡山延暦寺)の僧兵は日吉神社の神輿を奉じて度々強訴を繰り返した。当時の天皇が「朕の意のままにならぬのは、南都北嶺の僧と、加茂川の水と、賽の目である。」と仰せられたほどの勢力を、僧兵達は持っていたという。
 神仏習合思想によると、神々には、それぞれ本地仏があると考えられ、一殿の武甕槌命は不空羂索観音、二殿の経津主命は薬師如来、三殿の天児屋根命は地蔵菩薩、四殿の比売神は十一面観音、又は大日如来とされていた。鎌倉時代、春日山には地蔵菩薩を救い主とする浄土があり、春日山中やその地下には地獄があると信じられていた。それで、今も地獄谷という名が残っており、多くの磨崖仏が見られる。春日山の峯々を廻る興福寺の僧の廻峯修験が行なわれてきたのは、その名残だといわれる。地獄と極楽の岐路に立って、往生者を極楽に導いて下さるのが、春日第三殿の本地仏地蔵菩薩であるという信仰が篤かった。
 このように高いご神徳を持たれ、諸民から篤く信仰されておられる春日本社の例祭、春日祭は三月十三日に行われる。しかし、春日祭が三月十三日と定められたのは、明治一九年の旧儀再興以降で、維新までは年二回、春二月と冬十一月の上の申の日であったので、「申祭」と呼ばれていた。いまでも、古くから奈良に住む人達は春日祭のことを申祭と呼んでいる。今は昼のお祭りであるが、維新前は日没から夜半にかけて行われる浄闇の祭事だったという。春日祭は九世紀の前半頃から勅使参向の公の官祭として制度化され、今も三勅使祭(春日、加茂、石清水)として格式の高いお祭りである。
 平成十年十二月二日、ユネスコの世界遺産委員会京都会議に於て、春日大社と春日山原始林は、東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡と共に世界遺産に登録された。その直後の十二月六日、春日大社境内に、二基の万葉歌碑が「奈良市に万葉歌碑を建てる会」によって建立された。歌は、山上憶良の

「秋の野に咲きたる花を指折り かき数ふれば七種の花」
「萩の花 をばな 葛花なでしこの花 をみなへし また藤袴あさがほの花」
 と、殿上人達が、そぞろ歩いたであろう、古の春日野をしのばせるものである。
 除幕式の時、神官が清祓いの切麻をまかれると、どこからか鹿が寄ってきて切麻を食べはじめた。その鹿の背に、紅葉がハラハラと散りかかって、誠に奈良ならではの美しくのどかな光景であった。大伴家持の歌に
「ますらをの 呼び立てしかば さを鹿の胸別け行かむ 秋の萩原」
 という歌があるから、天平時代にも春日野から高円一帯には沢山の鹿が棲んでいたのであろうが、その頃はまだ神鹿でなく野鹿で大宮人達の狩の対象であったのだろう。
 武甕槌命が白い鹿に乗って鹿島から来られたという言い伝えは当時からあったようだが、鹿が春日大神のお使いだと考えられるようになったのは、平安朝も中頃以降ということだ。小野道風・藤原佐理と共に書道の三蹟とたたえられた藤原行成(九七二〜一○二七)が、春日大社にお参りした時、参道で鹿に出会った。彼はその感激を「これは春日の神様と心が通じ合った証拠で、何か良いことがおこりそうだ」と日記に書き記している。
 又、平安末期の右大臣であった藤原兼実(一一四九〜一二○七 後に関白となり、九条家の祖となる)は、五才になる姫君の初宮詣に奈良に来て、参道で鹿に出会ったとき、わさわざ牛車から降りて、鹿に頭を下げて伏し拝まれたそうだ。当時は、最初に出会った鹿には、おじぎをする風習があったという。それにしても、当時の鹿の数は、今ほど多くはなかったようだ。
 除幕式が行われた十二月六日は、京都会議を終えた世界遺産委員会の方達が、登録された奈良の社寺を視察に廻られる日であった。世界中の貴重な文化遺産をふんだんに見て来られた方々だろうが、奈良の文化財は遺産という言葉に一寸首をかしげたくなる位、(平城宮跡を除いては)皆、信仰の対象として生き続けているのに、目を見張られたことと思う。しかも、春日大社は二十年に一度の御造替があるために、宮大工や諸工芸の技術が、その都度、親から子へ、師匠から弟子へと受け継がれて、千年以上生き続けている。そしてその技術が、各社寺の修復や薬師寺の天平伽藍の復興に活かされ、平城宮跡朱雀門や東院庭園がよみがえっている。信仰が残した遺産はそうした形のある技術のみにとどまらない。祭や法要が連綿として繰り返されることによって伝わってきた作法、芸能は、遥かシルクロードを通って伝来した当時の面影を今に伝え、さらに日本独自の発想も加わって、より洗練された形で相伝されている。
 奈良の社寺はいづれも血のにじむような努力で、千何百年もの法灯を守ってきておられる。願わくば、西大寺、大安寺、法華寺、新薬師寺、秋篠寺、十輪院等々、世界遺産の輪をひろげて頂きたいものだ。