第45回(1999年01月号掲載)

春日大社の信仰と伝説 弐

 奈良町のお正月は先ず神仏の礼拝から始まる。神棚、稲荷社(庭先にお祀りしてある)、十二カ月の神様(歳徳神のことだろうか。家では十二カ月を護って下さるとして、十二組のお鏡餅をお供えする。)床の間の鏡餅の前、(氏神様と春日様を遥拝するのだという)、それから仏壇にお雑煮をお供えして、家長から、後は年の順番に、前記の順序でお参りする。お雑煮を祝った後は氏神の御霊神社と春日大社へ初詣に行く。神棚にも、春日様や氏神様はお祀りしてあるのだが、やはり初詣に行かないと気持ちが落ちつかない。
 これ程、人々から崇敬され、敬慕されておられる、春日の神様は、大きな白い鹿に乗って奈良へ来られたと伝えられる。古来中国では、白鹿は千年の寿齢を保ち、帝の徳が満ちる時にのみ姿を現すとされている霊獣である。
 春日四所大神のなかでも一番先に奈良へおいでになった武甕槌命は、柿の木の鞭を手に持って、白鹿に乗って鹿島を出発したというので、今でも旅に出ることを「鹿島立ち」という。この伝説から、春日の神様は旅や交通の安全を守って下さるという信仰が生まれた。昔むかし、常陸の国鹿島で、東国の鎮護にあたっておられた武甕槌命は、永住の地を求めて、お母様の甕速日命がおられる奈良の春日野まで、はるばるとやって来られた。
 ゆるやかな起伏をもつ春日野には、老杉にからむ藤の花が咲き乱れ、東の森の彼方には、一際緑の濃い、こんもりとすげ笠を伏せたような御蓋山。そのうしろには、春日の山なみが連なって、まるで絵のように、美しくおだやかな眺めであった。
 朝晩、鹿島灘の荒磯を見て暮らしておられた武甕槌命にとって、奈良の自然の優美さは、まるで夢の国へ来たようで、すっかり気に入って、ここを永住の地にしようと、決心された。ところが、ここで意外な出来事がおこった。
 武甕槌命のお供をしてきた舎人が、年が感じられない位若々しくて美しい甕速日命に恋こがれて、恋のとりこになってしまった。しかし甕速日命は、けがらわしいとばかり、一切うけつけられなかった。しかし、あまりしつこいので、山にかくれようと、ある夜そっと御殿を抜け出された。それに気がついた舎人はすぐ後をつけて行った。甕速日命が飛ぶ鳥のように速く逃げると、舎人は大蛇に変身して走りにくい山道を追っかける。川の側まで追いつめられた甕速日命は、今は、これまでと、剣を抜いてこの大蛇を切り捨てて、山に身を隠されたそうだ。やがてその山頂に、武甕槌命、甕速日命、舎人を祀る社がたてられた。これが、現在春日山頂の高峰に鎮まる末社、「神野神社」にまつわる説話である。この「こうの神」を祀る社は奈良の東山間部には数ケ所あるという。この話に出てくる、「大蛇」「河」「剣」は、いづれも水の神と深い関係にあるもので、豊作を願って水霊神を崇拝したことを物語るものであろう。昔から、「大和豊作米食わず」(今のように溜池が沢山造られる前の大和は、水の少ない所だったので、大和に水がたっぷりあって豊作になるような年は、他の土地では水浸きなどがあって不作だという意味)と言われた程、水不足が心配の種であった大和の農家の人達は水を司る神様を何より大切にしたのであろう。三重県境に近い、つつじの名所、神野山の山頂には、武甕槌命の叔母様にあたるという1速日命の陵といわれる塚があり、かつてはここにも「こうの神」が祀られていたそうだ。神野山は、以前は八十八夜、今は五月三日に近在の人達が一家総出で山登りをして、咲き誇るつつじや椿の花を賞でながら持参のお弁当を開き田休みの一日を楽しむ美しい所だ。かなわぬ恋に悩んだ舎人の霊も母子の二神と共におだやかに村人達を見守っていて下さることだろう。ちなみに、私の家の初代は、この神野山の麓の村から百五十年程前に奈良へ出てきて、現在地に店を構えているので、この伝説に一層の親近感を覚える。
 春日山頂には、「神野神社」の他にも高山神社、鳴雷神社、上水谷神社などの末社があるが、いずれも水神である。
 奈良に都があった頃、天皇の寵の衰えたのを嘆いた采女が、猿沢池に身を投げて死んだ。すると、以前から猿沢池に潜んでいた龍王が、不浄を忌んで、春日山の香山(高山)に移られた。ところが、香山の近くの谷に屍体が捨てられていたので、龍王は浄域を求めて飛行し、室生の龍穴に安住されたという。この説話により、春日山に龍王を祀り、祈雨法要が盛んに営まれた。その龍王社が高山(香山)社である。
 高山神社と鳴雷神社は、滝坂を流下する能登川、神野神社は佐保川、上水谷神社は水谷川の、それぞれの水源地に臨み、その鎮守をされている。春日大社の中東権宮司さんは、「今、下流の大和川は水質ワースト・ワンなんて言われていますが、春日の末社が守られている水源からは、今もキラキラ輝く清らかな水がコンコンと湧きだしています。奈良がユネスコの世界遺産に登録されたのを記念して、一度皆さんにこの聖水の清らかさを見ていただきたいものだと思います。」とおっしゃる。私達住人も、神様のお膝元から流れてくる川を大切にして汚さないよう万全の注意をはらいたいものだ。
 話を少し戻して、鹿島を出発した武甕槌命が、大和の阿倍山へ向かう途中、伊賀国の夏身(名張市夏見)を流れる一瀬川で水浴びをして、薦生山でしばらく休息された。その時、鹿島からお供をしてきた中臣の時風と秀行という二人の兄弟神主に、美味しそうな焼栗を一つづつ与えられた。そして、命は、「その栗を植えて、もし芽が出たら、おまえ達の子孫は末長く栄えるであろう。」と仰せられた。
 焼いた栗が芽を出すなんて、普通は考えられないことなのだけれど、素直な二人は何の疑義も抱かず直ぐその焼栗を植えて、たっぷり水を施した。すると、天がその素直さを嘉みしたもうたのか、焼栗が芽を出した。このおめでたい故事によって、二人は「中臣殖栗連」という称号を頂いて、尚一層心を込めて神様にお仕えされたという。
 都が飛鳥の藤原にあった頃、武甕槌命は、都の守り神として藤原京の東方阿倍山に鎮座しておられた。その頃、奈良の春日野一帯の土地を所有する大地主神である榎本の神が阿倍山に訪ねてこられて、武甕槌命に、「私の住んでいる春日野と、あなたの阿倍山を交換してくださいませんか。」と相談をもちかけられた。
 もともと春日野の風景が大好きだった武甕槌命は、二つ返事で承知された。ところが間もなく都が奈良に遷ることになって、守り神である命も奈良へ引越された。一方、阿倍山へ移られた榎本の神は、参詣人が少なくなって貧乏暮らしとなり、とうとう武甕槌命に助けを求めてこられた。武甕槌命は、やさしく「それなら、私の社の側に社を建てて、お住みなさい。」というので出来たのが、現在、春日大社の廻廊の西南の角にある「榎本神社」だということだ。
 この話には、もう一つの説もある。武甕槌命は、御蓋山の西麓に広大な神地を構えようと、その土地の地主の榎本の神に、「この土地を地下三尺(約一米)だけ譲って貰えないか。」と頼みに行かれた。榎本の神は耳が遠くて「地下」という言葉がよく聞えなかったので、「三尺位なら、お安いご用」と簡単に承知してしまわれた。ところが、工事が始まると、何十ヘクタールにもわたる広い土地の周囲に大きな囲いが建ちはじめた。榎本の神はびっくりして「話が違うではありませんか。」と申し入れたが、武甕槌命は、「私は、地下三尺と言ったのですが、あなたにはよく聞えなかったのでしょう。その代わり境内の樹木は地下三尺より下へは延ばさないし、あなたも住む所がなくては困るだろうから、私の近くで一緒に住んでください。」というので、現在の摂社春日神社(通称榎本神社)が出来たという。
 明治頃までは、春日大社にお参りに来た人は、必ず榎本神社に詣でて、その柱をこぶしで何度もトントンたたきながら、「春日さんお参りしましたぜ。」と言って、ほこらのまわりを回ってから本社へお参りしたそうだ。
 でも、その地下三尺を面積の三尺とカン違いされたという頃は、この広大な土地は、東の聖なる山をとおして、はるかに鹿島の方を遥拝するためのお祭り広場で神様も武甕槌命一柱だけであった。
 奈良時代もなかばを過ぎた頃の或る夜、時の帝の称徳天皇の夢枕に武甕槌命が立たれて、「南向きの神殿を造って、経津主命、天児屋根命、も共に祭れ。」とのお告げがあった。経津主命は武甕槌命と共に、天照大神の命を受けて出雲に下り大国主命を説いて国土を奉還させた神であり、天児屋根命は、天の岩戸隠れの折の功労神であり、藤原氏の祖先の神でもある。称徳天皇は聖武天皇と光明皇后の間に産れられた皇女であるから藤原氏の血を引いておられるし、時の左大臣は、鎌足の四代目の孫に当る藤原永手であった。このご託宣を喜んだ永手は早速手配して、上記の三柱の神と天児屋根命の后神である比売神を祭る四棟の神殿が立派に建ち上がったのだが、神護景雲二年(七六八)のことである。
 さて、四柱の神様が御殿にお鎮まりになってほっとした、時風と秀行の兄弟神主は、「ところで私達はどこに住めばよいのでしょうか。」と神様にお伺いを立てた。すると神様は、「この榊の枝を投げるから、その落ちた所に住むがよい。」と榊の枝を大空にむかって投げられた。榊の枝は飛燕のように飛んで行って、春日大社から西南約五粁米の、現在辰市神社のある地点に落ちた。それ以来、二人の子孫はずっとそこに住んでいたが、五粁の道のりを歩いて通うのは何かにつけて不便だったので、そのうち、春日のお社に近い高畑に引っ越してきたので、高畑は社家町となった。今も高畑に残る古い土塀やおもむきのある家並は、その頃の面影をとどめている。
 春日の社家の家では、今も、毎年お雑煮を祝う前に、ご先祖様を祭る神棚に向かって、「榊の枝はいずくに候」「さればその御ことめでとう候」という問答を交されるそうである。これは、神様が投げられた榊の枝が落ちた所に住みついたという、家の始まりの縁起を祝う、おめでたいしきたりであるという。
 また、春日の神様が鹿島から奈良へ来られる途中には、こんな話もある。奈良市大柳生町に元春日という神社がある。ここは神様が春日山まで来られる途中、あまり大きくもないが、こんもりとした良い森があったで、一時滞在された所だという。そこを出発して、西へ少し行った所で一休みして、「ああ しんど。」(疲れた)と言われた。それで、今でもそこに「神道」(今は新道と書く)という家があって、その側には、鹿の足跡と馬の足跡が残った石があるそうだ。こうして神様は、遂に奈良の春日山に落ちつかれた。その縁で、大柳生から毎年春日大社へお供えの餅を献上する習慣になっていた。ある年、奈良の人達が、遠い大柳生からわざわざ持って来て頂かなくても、こちらで搗こうと言って、糯米を蒸し始めた。しかし、一日蒸しても二日蒸しても蒸し上がらない。困り抜いて大柳生の人を呼んで来ると、その人の足が一歩敷居に入ったとたん、ちゃんと蒸し上がったという。