第44回(1998年12月号掲載)

春日大社の信仰と伝説 壱
春日若宮おん祭り

 数多い奈良の年中行事の掉尾を飾る最大のお祭は、春日若宮のおん祭である。おん祭というと、ついお渡り式のある十二月十七日と思ってしまうが、実際は、十月一日に、春日野のお旅所に於て挙行される縄棟祭に始まり、十一月の末にはおん祭に参勤する人達に装束と参勤辞令を授与する「装束賜り」があり、その日より精進に入る。十二月十五日は市内餅飯殿町の大宿所で行われる大宿所祭。大宿所は、昔遍昭院があった跡で、おん祭の願主役、御師役、馬場役を勤める大和士が神事奉仕に当って精進潔斎を行う参籠所である。
 大宿所の庭には、桿をかけ渡して、山鳥や雉、兎などを懸け並べてお供えされている懸物がひときわ目をひく。
「センジョ(遍昭)行こう  マンジョ(万衆)行こう
 センジョの道には何がある  尾のある鳥と、尾のない鳥(兎)と、センジョ行こうマンジョ行こう」
と、わらべ歌に囃された懸物も、今は雉や兎が少なくなって、塩鮭が沢山懸けられるようになった。
【註】兎を尾のない鳥と呼ぶのは、仏教伝来以来、一般には四ッ足ものを食べることを禁じられたが、兎だけは鳥とみなして食べることを許され、数えるのも一匹二匹ではなく、一羽二羽と呼ばれていた。
 その他境内には、お渡りに使う野太刀や馬長児の笹などが並べられ、ご殿の内には、神前には珍しい献菓子や稚児の餅が供えられ、装束類が所狭しと飾られている。
湯立巫女による「御湯立」も行われ、おん祭名物の“ のっぺ汁 ”が地元商店街の人達によってふるまわれるので、大宿所内は終日大にぎわいである。午後五時からは、おん祭の無事執行を祈念して、大宿所祭が、とり行われる。
 十六日には、宵宮詣と宵宮祭が執行され、深夜には若宮神をお旅所の行宮へお遷しする遷幸の儀が行われる参道は皆灯火を消して謹慎し、参列する人達も、懐中電灯も点すことさえ許されない浄闇の中を、榊の枝で神霊を十重二十重にお囲みして、全員が口々に「ヲー、ヲー」と警蹕の声を発しながらお遷しするそうである。この時焚かれるお香の香りは、春日の森の霊気とあいまって、得も言われぬ芳香だという。
 ご神霊がお旅所に入御された、十七日午前一時からは暁祭、午前九時からは本殿祭が行われ、正午からはお渡り式で華麗な時代絵巻が繰りひろげられ、松の下式やお旅所祭では、神楽・田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽など多彩な芸能が奉納される。お渡りだけでも約千人が奉仕されるという。
 午後十一時からは還幸の儀。遷幸の儀と還幸の儀の間は二十四時間以内と定められているので、午前零時までに、沈香の香りの漂うなかを警蹕の声と、伶人の奏する道楽の音と共に若宮神社にお還りになる。十八日は後宴として奉納相撲と後宴能が催されて荘厳華麗なお祭の幕が閉じられる。
 おん祭はこうした厳粛な神事だけではなく、全国から集まるおびただしい数の参詣者目当の露店が参道の両側に並び、戦前はサーカスやお化け屋敷などの見世物小屋などがたって、ジンタや呼び込みの声が人々の心を浮き立たせた。綿菓子の甘い香りや大釜で毛蟹を茹でる湯気、お好み焼きや回転焼きの匂が子供心をかきたてる。(子供達は揃ってお旅行へ参拝するだけで、学校は休みだった。)
 おん祭名物の植木市は、新居に花の苗をと選択する若夫婦や、孫のために金柑や柿の苗木を庭に植えてやろうと考えているおじいさんなどで賑わっている。農家や山仕事をする人達に人気のあったのは猪の皮の靴だった。皮を縫い縮めただけのような不恰好なものだが、靴下の上にボロ布を巻きつけてはくと、軽くて暖かく、冬の作業には手離せないものだと言うことだった。しかし、この頃にはすっかり見なくなってしまった。毛蟹も水質汚染のせいか、めっきり減って、露店の数も少なくなったけれど、おん祭を祝う市民の熱気は、いささかもおとろえない。
 このように全国の人達の崇敬を集めておられる若宮様のご誕生については、次のような伝説がある。
 春日大社のご祭神は、和銅二年(七〇九)頃より、御蓋山を神奈備としてお祀りされていたようであるが、現在地に四所神殿として創建されたのは、奈良時代、称徳天皇の神護景雲二年(七六八)十一月九日であったという。
 ご祭神は、本殿向かって右より第一殿、武甕槌命(鹿島大神)、第二殿、経津主命(香取大神)、第三殿、天児屋根命(枚岡大神)、
第四殿、比売神(枚岡大神)、第一殿と第二殿のご祭神は、天照大神が、ご子孫を高天原から日本の国に遣わされる、天孫降臨に当り、先住の出雲の大国主命に、この国土を天孫に奉献するよう交渉に赴き、無事に大任を果たされた功労神である。
 また、第三殿の天児屋根命は、藤原氏の祖神で、天照大神が、弟の素盞嗚尊の乱暴を怒って、天岩戸にお隠れになった時、占をし、祝詞を奏して、岩戸からお出まし願った司祭神、第四殿はその后神である。
 創建後、二百三十年ばかりたった長保五年(一〇〇三)三月の或る日、比売神を祭る第四殿の床板の裏に、ところてんか、かんてんのようなぶよぶよしたものが出てきて、だんだん大きくなり、約五リットル位になった時、重みでぽとりっと下へ落ちた。その半透明な物体の中から、約十五センチ程の綺麗な可愛いい蛇が出てきて、第四殿の西北角の柱を伝って、するすると殿内に姿を消したという。片ずをのんで事のなりゆきを見守っていた神主さん達は、やがてそれは比売神から産まれた若宮であることに気がついて驚いて丁重にお祭りした。蛇は水の精で、農業や人々の生活を守る神様と信じられていたので、人々はこの瑞祥を心から慶びあった。しかし、その頃は、若宮様は四殿でお母様の比売神と相住いだったので、その神殿のせまい床に二柱分の神餅をならべることは出来ず、一柱分の神饌ですませていた。
 それから数十年たった或る日、突然比売神が六歳の子供にのりうつって、「私にだけ御供を供えても少しも嬉しくない。なぜ若宮のも供えないのか。以後、“五所王子”(天押雲根命)と名付けて御供を供えよ。」とおつげになった。こうしたご記宜が下ったからには、お供えをしなければならないが、このままでは無理なので、とりあえず二殿と三殿の間に小さな仮の御殿を造ってお祭りすることになったが、その場所は狭くて充分なお祭りをすることが出来なかった。
 ところが、長承年間(一一三二〜一一三五)、天下に洪水飢饉があいついだので、時の鳥羽上皇は大変心配され、種々英慮を巡らせられた結果「若宮の御殿が、このようにお粗末なことでは誠に申し訳なかった。お産まれになった当初から立派な御殿を造るべきであった。」と気付かれた。早速、氏の長者である関白藤原忠通を通じて、春日の正預であった中臣祐房に、新殿を造営する場所の選定をお命じになった。祐房は、神様のお指図を仰ぐため、神前に七日間参籠して祈願したところ、満願の日に不思議な夢を見た。それは、真暗な闇夜、本社から一丁ばかり南の、現在の若宮様の社地にむかって沢山の神主や神人が行列をつくって遷宮する光景であった。ただちに、このことを忠通卿に報告して新殿の造営にとりかかり、長承四年(一一三五)二月二十七日、上皇臨幸のもとに盛大な遷宮祭が執り行われた。
 若宮様の御殿が立派に竣工した翌年の保延二年(長承四年は四月二十七日で終わって保延元年となった。)から、若宮のおん祭は始まった。飢饉で苦しむ人達を救うために、忠通が、作物の収穫期にあたる九月十七日に盛大な祭礼を計画したのである。(現在は十二月十七日になっている。)
 最初の年は、忠通も自ら祭に参加するつもりであった。ところが、当日になって急病で出られなくなったので、忠通はしかたなく、舞楽に出演する楽人に自分の装束を与えて、これを着て、この日の使を勤めるよう、代理をさせた。それで、今でもお渡りには、黒の束帯に、藤の造花を冠に挿して馬に乗った「日の使」が関白の格式を表すお供をひきつれて参加する。
 若宮様は芸能のお好きな神様なので、お旅所や参道に於て、細男の舞、猿楽、田楽相撲、競馬、流鏑馬など国際色豊かな古典が奉納されるが、お渡りの途中、一の鳥居を入った直ぐ右手にある影向の松に向かって行われる松の下式にもおめでたい伝説がある。
 昔、仏教を修業中の教円という僧が、法相守護の神である春日大明神を念じて毎日唯識論の勉学に励んでいると、庭前の松の木の上に黒い装束を着た翁が現れ給い、万歳楽を舞われた。教円は、これは日頃から崇敬する春日大明神が御示現あそばされたと驚喜し、尚一層修業にはげまれたので、一山の長である天台座主になられたという言い伝えにより、おん祭には、この松に影向された神様に敬意を表して、芸能団それぞれが短い演技をしてから、再び行列を整えてお旅所へ向かうのを松の下式という。今でも、能舞台正面の鏡板に描かれているのは、この影向の松をあらわすものである。(影向とは神仏がこの地に姿を現されること。)
 見事な枝ぶりの大木であった影向の松も、平成七年の第五十九次式年御造替の年に枯れて、今は巨大な切株となっているが、横に若木が植えられて、御造替で益々御神威が高まるように、逞しい成長を続けている。
 奈良町に住む人達は、このおん祭をめどとして、沢庵を漬けようとか、棒鱈もつけなくては、とお正月の準備にとりかかる。おん祭は一年の締めくくりであり、お正月準備のスタートなのである。