第43回(1998年11月号掲載)

平城宮跡と法華寺

 平成十年四月十七日午後一時より、平城京の朱雀門と東院庭園復元記念式典が、秋篠宮ご夫妻をお迎えして、盛大に挙行された。
 平城京は、和銅三年(七一○)元明天皇が藤原京からこの地に、遷都されて以来、桓武天皇が延暦三年(七八四)長岡京に都を移されるまで、七代七○年余り、咲く花の香る如くと称えられ、天平文化の華を咲かせた都であった。
 平城京の入口である羅城門をくぐると、七五メートルもの幅の朱雀大路が、真っ直ぐ北にむかってのびていた。その朱雀大路を四キロメートル行った地点に平城宮の正門である朱雀門が建っていた。朱雀門の左右には高さ六メートルの築地がめぐり百三十ヘクタールの宮城をとりかこんでいた。朱雀門は、衛士によって守られ、特別な時以外は閉されていて、公式の場合でも天皇や皇族、高位、高官の人しか、この門を通る事が出来なかったそうだ。
 元旦には、天皇は大極殿に出て、大宮人達の朝賀を受けられる。東北の陸奥、出羽や南の島、奄美、屋久、徳之島などの人達が産物を貢物として献上する時は、朱雀門の左右に太鼓や笛の楽隊と騎兵が並んで歓迎の儀式が行われた。貢物を持ってきた人達は、門のむこうの大極殿におられる天皇を拝したという。当時奈良の都は国際文化都市であったから、外国使節の送迎もこの門の前で行われたり、時には沢山の人が集って歌垣なども催された。天平六年二月一日には、天皇が朱雀門に出て、歌垣を御覧になったという記録もあるそうだ。復元された朱雀門のオープニングの日には、昔、唐の都長安で、吉祥をもたらすとして、慶事の時に行われた「華夏龍翔の舞」と呼ばれる、大きな龍(全長七○メートル)と鳳凰が中国の人達の手によって天空に舞い遊び、天平の王朝風俗を再現した天平行列が練り歩き、OSKによる天平ロマンミュージカルが上演されるなど、参加者を天平の夢に陶酔させた。西暦二○一○年の平城遷都千三百年の記念には、「平城宮第一次大極殿院」を復元して、国際性豊かな天平文化の息吹を再現される予定だという。
古代の日本では、新しい都を造営する時は、古い都を解体して、その建築資材で新都を建設するのがならわしであったから、都が長岡京に移ってからは、「咲く花の匂うがごとく」とうたわれた平城京も急速に荒廃して、南都に残された七大寺と、その門前町を除く、大部分は土と化していった。
 それに拍車をかけたのは、大和の国司が近くの農民を集めて、高い壇を削り、溝や池を埋めて、水田の水が漏れないように、床土として粘土を厚く敷いて、水田と化したことであった。都が長岡京から平安京に移り、平重衡の焼打ちに会った東大寺が、鎌倉幕府によって再興され、二度目の大仏開眼を行われた頃には、平城京跡は水田の底に眠っていて、ここがかつての奈良の都の宮跡だということはわからなくなってしまっていた。誰にも知られず、ひそかに眠り続けていた宮跡に関心をもたれ始めたのは、ようやく幕末になってからであった。明治二八年京都で平安遷都一一○○年祭が行われたのを機として、その前の平城京は、奈良のどこにあったのかということに世間の関心が高まってきた。明治三十年、古社寺保存法が制定されるについて、初代の奈良県技師として赴任してきた元東大教授の関野貞は、都跡村大字佐紀の田んぼの中に、地元の人達に「大黒の芝」と呼ばれる高い土の壇があるが、平城宮の大極殿の跡で、「大黒の芝」は「大極殿」をなまったものであるということを発見した。このことを報じた新聞を読んだ、植木職、棚田嘉十郎はこの記事に大変感激し、のちの半生を平城宮跡の保存顕彰に捧げることになった。と言うのは、奈良公園の植木の管理を任されていた棚田は、公園の手入れをしていると、「昔の都の跡はどこにあるのか。御所の跡はどこか。」と観光客から何百回となく聞かれるので、前から関心を持っていたのせある。棚田は私財を投げうって保存運動をすすめ、地元の地主溝辺文四郎も棚田を終始助けて保存運動に力を貸したが、二○年にわたる保存運動で、資産を使い果たし、心労と栄養失調から目の光を失った棚田は、大正一○年、自宅の座敷で、咽喉を突いて自殺した。
 しかし、JR奈良駅前の三条通りに、「平城宮大極殿跡、是より西乾二十丁」裏には、「明治四五年、建文、棚田嘉十郎」と彫られた大きな石碑が棚田さんの功績を物語っている。
 復元された、称徳天皇時代の東院庭園の近くには、こんもりとした、宇奈多理巫神社の社がある。ご祭神は、高皇産霊神。神功皇后の頃に、武内宿称が勤請し、後に法華寺の鎮守となっている。光仁天皇の楊梅宮、又、聖武天皇の南苑(南樹苑)はこの辺りであったのではないかとの、説もある。宇奈多理巫神社の前を通り、村の細いながらに風情のある径を通り抜けると、寺の格式を示す、薄黄色に五本の白線の入った筋塀をめぐらせた法華寺の門前に出る。
 法華寺は「法華滅罪寺」として、全国の国文尼寺を統括する総国分尼寺として造営された格式の高いお寺で、代々門跡尼様が大切に法燈を護っておられる。
 法華寺は、もと光明皇后のお父様、藤原不比等の邸宅であった左京一条二坊の地が、天平元年、光明子が皇后になられるにともない、皇后宮となり、天平十七年に宮寺に改められたのが始まりで、天平十九年には法華寺政所牒に名前が確認出来る。
 法華寺の本願主、光明皇后は、大宝元年(七○一)御父、藤原不比等、御母犬養宿禰橘三千代の間に生まれられた。幼名を安宿媛といったが、通称光明子と呼ばれる程、美しく光り輝くような容姿と、慈悲深く、明朗で明晰な頭脳の持ち主で、多くの人々から敬愛されておられた。光明子御年十六歳の時、皇太子妃となり、二年後に阿部皇女(後の孝謙天皇)を生まれた。神亀二年(七二四)聖武天皇が即位され、皇太子妃は夫人となられた。同四年に皇太子基王が誕生され、天皇をはじめ国中が喜びにわき立ったが、不幸にして病魔におかされ、御年二歳で亡くなられた。天皇夫人のお悲しみは、到底筆舌に及ぶものではない。天平元年八月、夫人は皇后となられた。
 当時皇族出身でない夫人が皇后になるということは大変な出来事であった。長屋王の変も、この立后をめぐるトラブルが原因とも言われているが、光明皇后の優れた資質は、何にもまして、国母たる皇后位にふさわしいものであった。皇后は、仏教への信仰が篤く、悩める者を助け、病める者には薬を与えることを請願され、皇后宮職に施薬院や悲田院を置いて庶民の苦しみに救いの手をさしのべられた。
 皇后は貧しい人や病人のために浴室を建てて沐浴出来るようにされた。伝説によると、皇后はこの浴室で、千人の垢を流すという誓願を立てられた。あと一人で結願という千人目に来たのは、全身に膿を持った重症の患者で、身体中が崩れかけて、臭気が浴室内に充満する程であった。さすがの皇后もこれには一瞬たじろかれたであろう。しかし皇后の決意は固かった。「この膿を口で吸って貰わないと病気はよくならない。」と泣いて訴える病人の願いを聞き届けて、その患部に唇をあてられた。すると病人はたちまち大光明を放って、「皇后様は阿0(あしゅく)仏の垢をおとりになった。」と大音声で告げて姿を消された。皇后は大へん喜ばれて、その場所に阿0如来を祀る阿0寺を建てられたという。今も法華寺の東門の奥の方に皇后の慈愛を物語る浴室が残っていて、内には古い、から風呂が残っている。(から風呂とは蒸風呂のこと)
 信仰心の厚い皇后は、興福寺の五重塔建立を発願され、自ら土を運んで基礎を固められたという。天平五年に逝去されたご生母の橘大夫人の菩提のために、興福寺に西金堂を建立し、大夫人の一周忌に落慶された。この西金堂のご本尊であった丈六釈迦如来坐像と、法華寺のご本尊十一面観世音像をめぐって次のような言伝えがある。
 北天竺の乾蛇羅国(ガンダーラ)の見生王が、生身の観世音を拝みたいと発願して、三七、二十一日間入定しておられると、その満願の夜、有難い夢のお告げがあった。「生身の観世音を拝するには、これより東の海を渡った日本という国の、聖武天皇の正后、光明皇后の姿を拝しなさい。」ということであった。しかし、王の身で国を留守にして万里の海を渡ることは至難であるので、重ねて祈念されたところ、「巧匠を、かの地につかわして、光明皇后の姿を刻ませて、それを拝みなさい。」とのご啓示を得た。そこで王は、早速、問答師という名匠を日本に派遣することにした。問答師は苦難の末ようやく難波に着き、皇后に拝謁してお願いしたが、容易にはお許しがでなかったが、そのうち、「わが願いを叶えてくれれば、姿を写してもよい。」と仰せになった。その願いとは、ご生母橘三千代の菩提のため建立中の興福寺西金堂の本尊、丈六釈迦如来坐像の彫刻をしてくれれば、ということであった。問答師は精魂をこめて如来像を刻み上げた。そして、許しを得た問答師は、庭の蓮池を歩かれる皇后の姿を、尊い十一面観音の像に、三体刻んだ。一体は仏師が携えて王のもとに持ち帰り、一体は内裏に納め、一体は施眼寺に安置した。今、法華寺の御本尊として祀られているのは、この内裏に納められたご一体だという。この尊い十一面観音様は、平素は秘仏だが、十月二十五日〜十一月十日の間だけ拝観が許される。ご本尊のお身丈は一○○センチで、本堂の黒漆塗の厨子の中に立っておられる。白檀の一木造りで、両手首と頭上面だけが別木で作られているそうだ。
 髪、眉、髭に群青を、唇に朱を施してある他は、彩色をせず、素木のままで木肌の美しさを出しているので、一層ほのかな朱の唇に目をうばわれる。境内にある会津八一氏の歌碑、
  ふぢはらの  おほききさきを  うつしみに
      あひみるごとく  あかきくちびる
という歌が実感される。豊満な腰を少し左にひねり、右足を少しうかせて立たれる姿は、今にも歩き出されそうだ。右手が膝の下まで達する程、長いのは、三十二相の正立手摩膝相と言うそうだ。光背が、蓮の葉と蕾というのも珍しい。蓮の葉も巻葉か、開き初めのもので、花も開いたものは無い。咲き誇っておられるのは、ご本尊様だけという発想だろうか。光背の蓮を押さえることによって、一層ご本尊様が法力豊かに感じられる。又、蓮池の周りを散歩されているお姿を写したという故事も連想させられる。
 ご本尊の前には、小さな土作りの犬が三宝にのせてお供えしてある。これは、昔から伝わる御守犬の祈願のためである。その昔、光明皇后が一千座の護摩供養を行じられて、七日間法華経を読誦加持された。その護摩火の灰を、清浄な山内の土に混ぜて、自ら小さな犬をお作りになり、諸人の病苦災厄を除くことを願って、広く結縁の人達に授けられた。この伝統を主んじて代々の門跡様や尼さん達が、型や機械は一切使わず、手ひねりで作っておられる。この頃は、子授け安産のお守りとして、又、小さな犬の表情が可愛いからと、希望者は多いが、数が少ないので、希望通りには行きわたらないそうだ。
 本堂の片隅で首うなだれて佗しげな姿で安置されているのは横笛の像である。建礼門院の雑司であった横笛は、滝口入道との恋に破れて法華寺で仏道に入っている。横笛が伏見の里に隠棲している時、悶々の情を法華寺の尼公に書き送った手紙と、入道からの恋文で作った紙衣の像だという。恋という煩悩を燃焼して成道した女性の姿である。
 境内は、いつも箒目がすがすがしく、凛とした気品がただよっている。本堂の東にある小門は平素は閉されているが、春と秋に客殿や庭園を公開する期間が設けられている。正方形の石をそろばんの玉のように斜に敷きならべた、いろこ敷きの石だたみをたどると、大玄関や内玄関にでる。客殿から「上の御方」と呼ばれる奥まった室には、菊や牡丹の紋を散らした襖がはまっていて、要所要所に季節の花が美しく活けられている。上の御方の南には、池を中心とした素晴らしい庭が展開する。この建物は仙洞御所を移したとも言われ、庭は「仙洞写し」と伝えられる。
 現在の門跡様は、久我高照様という典雅で美しい方。以前おうかがいした時、紫の被布に白綸子という藹たけたお姿で、一緒に庭を眺めながら、「今の季節、亀の子が孵る時期で、砂利をかきわけて地上へ出てきた小さな赤ちゃん亀が、池の側まで這って行って、ポチャンポチャンと池へ飛び込むのが可愛いですよ。」とにこやかに話して下さったお顔が忘れられない位、温かで和やかであった。美しい皇后様をモデルとした観音様をお祀りするのにふさわしいお寺であり、それをお護りするのにふさわしい御門跡様だと思う。