第42回(1998年10月号掲載)

西大寺

 西大寺は、聖武天皇が建立された東大寺に対し、西の大寺として、聖武天皇の皇女である称徳天皇の誓願によって創建された千二百年に余る歴史をもつ名刹である。
 けれども、奈良近辺の人達は、「西大寺」と聞けば、肝心のお寺より、近鉄の主要点である西大寺駅、又は、近鉄百貨店や奈良ファミリー、銀行等が建ち並ぶ西大寺の町を連想する人が多いだろう。しかし、この西大寺の発展にも、名刹西大寺が間接的ながら大きな役割を果しておられるのである。
  大正の初めに、大阪電気軌道KKが、大阪と奈良を結ぶ電車を計画した時は、西大寺より南によった、現在の宝来町・菅原町のあたりを通って、駅もその辺に出来るということで杭打ちまで出来ていたそうである。そこで西大寺の人たちは、寄り合いを開き、西大寺には南都七大寺の一つで千二百年もの由諸ある西大寺があるのに、電車がこの近くを通らないのは残念だ。この際線路を移動して、駅はお寺のそばに設置して貰おうと決議して、会社と交渉した。何度も折衝の結果、会社側は、希望通り変更するには、経費が三万円あまりかかる。(六万円という説もある。)その費用を西大寺村で負担してくれるならということになった。村では何度も役員会を開き、協議に協議を重ねた結果、西大寺村所有の会所を売却して、その費用に当てたそうだ。こうして電車が開通し、最初の西大寺駅が出来たのは大正三年四月だが、二○米程で、一輛どまりの小さな駅だったという。大正九年に橿原-西大寺が開通し、昭和三年には、京都・奈良を結ぶ奈良電が西大寺に乗り入れることになって、西大寺は名実共に交通の要所となり、大軌電車が関急となり、近鉄と、会社も発展して行くと共に沿線も開発されて、今日の繁栄を見るに至ったのも、ここに西大寺があったのと、固い決意をもって頑張った古老達のおかげである。
 西大寺は天平宝字八年(七六四)九月十一日、称徳天皇(当時は孝謙上皇)の誓願によって、金銅七尺の四天王像を鋳造して、翌年、天平神護元年に創建された。
 この天平宝字八年九月十一日は、孝謙上皇の信任が篤く、太師(太政大臣)正一位にのぼり、恵美押勝という名を賜って、権勢を振っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀叛を計画したが発覚して、官軍に追われて近江へ逃走した日である。この乱の時は、一旦正倉院へ納められていた御物のうち、武器・武具の大半が出蔵されたと伝えられるから、都は大変な騒ぎだったのだろう。この日が西大寺建立発願の日になったということは、こんな叛乱が二度とおこらないよう、鎮護国家の祈りをこめてのことであろう。通常は釈迦如来とか、薬師如来などが本尊様になることが多いが、最初に四天王が本尊としてお祀りされたというところに、西大寺建立の主旨が推測される。
 恵美押勝(仲麻呂)の乱によって淡路島に配流された淳仁廃天皇に替って、孝謙上皇は称徳天皇として再び皇位につかれた。称徳天皇は、お父様である聖武天皇が造営された東大寺に劣らない西の大寺を、女帝御自身によって建立したいとの念願から、造営中も、しばしば西大寺に行幸されるなど、並々ならぬ熱意を示された。こうして、西大寺は、南北、北一条路から南一条大路、東西、二坊大路から四坊大路の広さ三十一町の寺域に、百五十余の華麗な堂塔伽藍をもつ大寺となったのである。しかし、称徳天皇は、西大寺が造営中の神護景雲四年(七七○)八月四日、五十三才で崩御された。称徳天皇在位中は法王に任じられて権勢を誇った道鏡は、下野の薬師寺に追放されて、二年後薨じたが、工事はその後も続けられたという。
 都が京都に移ってからの西大寺は、火災や落雷、台風等の度重なる災害によって、広大華麗な伽藍は、見る影もなく衰退していったようだが、代々の住職によって法灯は守られていた。
 鎌倉時代になって、叡尊上人(興正菩薩)が西大寺へ来られた頃、「荒廃、言語の及ぶ所に非ず」と嘆かれた程であった。叡尊上人は、正法興隆のため、身命を賭して西大寺復興にあたられた。衣文の線が流れるように美しいご本尊の釈迦如来立像は、一二四九年、上人が僧衆十六人仏師九人を嵯峨の清涼寺につかわし、然(ちょうねん)が、宋の台州開元寺にある、インド伝来の釈迦如来立像を、張延皎、張延襲兄弟に依頼して模刻して持って帰ったという三国伝来の釈迦を模刻させたもの。愛染明王像、大黒天像、叡尊上人寿像、金銅宝塔、鉄宝塔、金銅透彫舎利他、この寺の寺宝には叡尊上人の時代のものが多い。
 荘厳な美しさで有名な文殊菩薩と四待者の像も、上人の十三回忌に完成したものだという。大ぶりな獅子の鞍上に坐られた文殊菩薩の威厳に満ちたお姿もさることながら、合掌して左足を踏みだしながら頭をふりむけて文殊様を仰ぎ見る善財童子の像が、得も言えぬ位可愛らしい。この善財童子の写真が数年前奈良のポスターになったので、この像に魅せられて奈良を訪れた方も多かったであろう。
 興正菩薩(叡尊上人)は、ある日西大寺に来た老翁に、何にでもよく効くという秘薬の処法を伝授された。菩薩が翁に名を尋ねられてると、「我は少彦命石落神也。」といって姿を消された。菩薩は不思議に思って、その薬を調合して病人に与えると、誰もが平癒したというので、施薬院をもうけて、石落神の秘薬、「豊心丹」を作って病人を救い、東門の辺りに社を建てて石落神を祀られたそうだ。豊心丹は昭和十七年まで、官許の売薬として伝えられてきたと言うからスゴイことだ。
 蒙古の大軍十万余が来襲した元寇の役(一二八一)の時、興正菩薩は、奈良京都の僧五百六十余人と共に、石清水八幡宮の宝前で勤行し、「東風を以て兵船を本国に吹き送り、来人を損なわずして所乗の船を焼失せしめ給え」と祈られた。その時、宝殿の扉が自然に八の字に開いて、一本の箭が雷のような響をたて、光を放って西に去り、猛風大雨が起って蒙古の大軍を吹き払ったと伝えられる。
 現在も、十月三日より五日まで、三日三晩昼夜不断で厳修される「光明真言会」も叡尊上人によって、一二六四年より始められた。私も以前お参りさせて頂いて、三日三晩も、この行が続くのかと、舌を巻いたが、当初から昭和の初期までは、七日七夜だったということだ。ちなみにこの法会の時使われる鈴は、「すずむし」と呼ばれる非常に音色の美しいものである。
 有名な大茶盛は、延応元年(一二三九)の正月、二七日間の修正会の翌日の一月十六日、鎮守八幡宮にお献茶をして、修法満願のお礼を言上し、参詣の人たちにもお茶を振舞ったことに始まると伝えられる。当時まだ貴重な高貴薬扱いされていたお茶を、皆で廻し飲みしたのである。この行事は毎月行われたが、西大寺でお正月のお茶を頂くと、一年間無病息災で暮らせると人々が沢山お参りするようになったので、小さな茶碗では間に合わず、大きな茶碗で茶を点てて廻し飲みするようになったので「大茶盛」の言葉が生れたという。もともと、この「茶盛」という言葉は、世間一般では酒盛をするような場合、戒律の厳しい西大寺では酒を酌み交わすことは出来なかったので、お茶を飲んで親交を温めることを茶盛と呼んでいたそうである。
 当時極めて貴重なお茶を、貴賤貧富、老若男女にわけへだてなくふるまい、しかも一つの茶碗のお茶を廻し飲みするということは、叡尊上人の衆生は皆、同一仏性であって、差別なきものであるという考えを如実に現した行事であろう。
 昭和六十二年(一九八七)西大寺主催で、弘法大師が密教の奥義を学ばれた青龍寺跡で、恵果阿闍梨と弘法大師に献上供茶をし、玄宗皇帝ゆかりの興慶宮跡で日中親善の大茶盛をしようというツアーが計画されたので私共夫婦も参加させて頂いた。陝西省の省長さんや西安市の市長さんはじめ沢山の中国の要人達が来ておられたが、頭がすっぽり入ってしまうような大きなお茶碗でお茶を飲む姿に、互に笑いころげながら、日本人も中国人も皆一つのお茶碗からお茶を頂くことによって、グンと親近感が強まったような感じがした。
 大茶盛の茶菓子は、「金銭」と呼ばれる幻の金銭貨「開基勝宝」をかたどったお菓子である。淳仁天皇の天平宝字四年(七六○)三月に勅して金・銀・銅の三種類の貨幣を鋳造したという記録はあるが、金貨の「開基勝宝」だけは、長い間発見されなかった。この幻かと思われていた金貨が、寛政六年(一七九四)四月十九日、西大寺の西塔跡から一枚発見されたのである。金貨としては日本最古のものだという貴重な一枚の出現であった。ところが驚いたことに、それから百四十年余りたった昭和十二年十二月八日、西大寺の西北にあたる丘陵を地ならししていたところ、この「開基勝宝」金貨が三十一枚も出土してセンセーションを巻き起こした。称徳天皇の御用邸があった所ではないかとか、鋳銭所の跡だろうとか、いろいろの説が飛びかった。そして、この瑞祥を記念してこの辺り一帯を西大寺宝ヶ丘と名付けられた。
 余談ではあるが、私共が経営する奈良自動車学校の用地は、今は西大寺竜王町と呼ばれているが、昭和三十三年開校当時は、地名表示が宝ヶ丘になっていた。或る日事務所へ遊びにこられた土地の古老が、「この学校を造成するのに、随分土を動かされましたが、何も出てきませんでしたか。」と聞かれた。「以前金貨が出たと言うのは、道をへだてた北側の高台でしょう。この辺りは全くのさら地だったようで、何も出ませんでしたよ。」と答えると、その方のおっしゃるには、金貨が発見されたことに刺激されたのか、当時、神功皇后陵から西南十町の地点に黄金製の鵄が埋められているという、まことしやかなうわさがたち、西南といえば西大寺近辺だというので、宝ヶ丘とか、竜王神社、高塚といった、なんとなくそれらしい地名の由緒ありげな場所を掘ってみる、面白半分の宝探しがはやったそうだ。荒唐無稽な黄金伝説はさておき、開校当初のこの辺りは、少し歩くと、龍胆や桔梗・女郎花が咲き乱れ、雉子や小綬鶏の姿を見かけたりして、その昔、大宮人が野遊びに来られた所ではないだろうかと思われるような風情がただよっていたが、今は住宅が建ち並んでいる。
 話をお寺に戻す。東門を入って本堂へ行く途中、天平創建当初の邪鬼が残る四王堂の前に、放生池があり、池畔の「百万」」ゆかりの柳が水面に姿を写している。謡曲「百万」によると、昔、百万という曲舞の名手が、一人子の男の子を連れて西大寺の念仏会にお参りした。その日は参詣者が多く、雑踏のなかで子供を見失ってしまった。百万は狂ったように探しまわったが、ついに見つけることは出来なかった。一方、迷子になって柳の木の下で泣いていた子供を、吉野から来た雲水僧が可哀そうに思って修業の旅に伴なっていった。母は狂女となって子供を探し歩くうち、京都嵯峨の清涼寺で、僧に連れられた我が子にめぐり会って、正気にたちかえったという。百万の愛児は、清涼寺で仏門に入り、十遍上人という名僧になったとも、後に唐招堤寺に入り、この寺の復興に努めた高僧になったとも伝えられる。
 昭和五十年に建てられた、田中哲菖氏作の「狂女百万」の詩碑が、訪れる人に迷子になった母子の悲しみと、それによって発心して出世した仏の慈悲を語りかける。
 西大寺の御本尊は、清涼寺式釈迦如来、百万の子が迷子になったのは西大寺で、めぐり会ったのが清涼寺、子供が発心して僧になったのも清涼寺と、物語ながら、不思議なご縁が感じられる。