第41回(1998年09月号掲載)

新薬師寺

 旧志賀直哉邸の前を更に山手へ、古い土塀の跡の残っている道を歩くと、新薬師寺への由緒ありげな径に出る。この辺りは、左側に不空院という鑑真和上の創立とも伝えられるお寺があるので、不空が転じて福井町になったということだ。ご本尊は、不空羂索観音坐像で、興福寺南円堂のご本尊の試みの像とも伝えられている。一般には「福井のお大師さま」と親しまれて、参詣者も多いそうだ。
 不空院を過ぎると、直ぐ右側には、新薬師寺の土塀と、重要文化財の東門が見える。瀟洒な東門は閉まっているので、拝観者は塀に沿って南門にまわる。南門の前から東方を眺めると高円山が意外と間近に見え、眼の下を、白毫寺へ通じる径がしらじらと伸びている。左手は春日山。ここまで歩いて来た春日野や高畑とは趣の異なった鄙びた風景だ。
 新薬師寺は、天平十九年(七四三)三月、聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建されたという。聖武天皇は、ご即位以来、飢饉、大地震、疫病の流行、皇太子の天折、藤原広嗣の乱と不祥事があいつぎ、大仏造立によって、こうした不祥事を払拭し、理想の世界を具現しようとなさったのであろうが、度重なる遷都や、新羅との緊張した外交関係等、肉体的や精神的な疲労が一気に噴き出したのか、天平十七年病に倒れて容体が悪化した。そこで全国の寺で天皇の病気平癒を祈る薬師悔過の法要が営まれ、六尺三寸の七仏薬師像と九間の金堂の建立が発願されて、天皇のご病気も回復された。しかし、大仏開眼の前年の天平勝宝三年(七五一)に天皇は再び病気にかかられ、新薬師寺に四十九人の僧侶を集めて、七日間、「続命の法」が修せられ、その功徳か、天皇は大仏開眼法要にも臨席され、七五四年には鑑真和上によって戒も授けられておられる。
 新薬師寺は、当初四町四方に、南大門、中門、金堂、講堂、食堂、鐘楼、鼓楼、三面僧房、東西両塔を備えた大寺だったというが、七八〇年には西塔に落雷したことから発した火災で金堂・講堂が焼け落ち、九六二年には台風による風水害で諸堂が倒壊し、本尊も壊れてしまう。その都度復興を計られたが、治承四年(一一八〇)平重衝による兵火で奈良の諸寺は、一面焼野原と化したが、幸い、新薬師寺は現在の本堂(昔の食堂ではないかと言われている)が焼け残った。おかげで、私達は低い建物に緩やかな勾配、軒の深いほのぼのとした屋根の線に天平の面影をしのぶことが出来る。堂内は窓がなく、ほの暗い内陣の中央に、目の大きな重量感のある榧の木彫りの薬師如来様がどっしりと坐っておられる。半眼の、眼の細い仏様を見つけているので、はじめて拝した時はびっくりする程の重圧感を感じた。この眼の大きさから、光明皇后の眼病の平癒を願って聖武天皇が造立されたという説もあるようだ。しかし、この像はおそらく延暦年間(七九八〜八○六)の造立と推定されている。創建当初は七体の如来像であったのだろうが、今のご本尊は、光背に小さな六仏を配した七仏薬師座像である。
 円壇の上には、ご本尊を取り巻くような形で、十二神将が、外にむかって立っているのは、一大パノラマを見る思いがする。塑像の十二神将は、ガラスの眼をはめ、念怒の形相すさまじく、激しい動きをとらえた写真的で、均整のとれた武将の姿は、鎌倉時代の作のような印象を受けるが、天平と墨書きされた像もあり、日本にある十二神将のうちで、最も古い像だと言われている。このパノラマ式仏像群と、天井を張らず、化粧屋根裏を見せ、床には瓦を敷いた本堂とがよくマッチして、東方瑠璃光世界をしのばせる。この絶妙の調和を見せる十二神将も、創建当初のものではなく、近くにあった岩淵寺から鎌倉時代に移されたものと伝えられる。(伝説では大洪水で岩淵寺から流れて来たと言われている)

1.梵鐘  昔、元興寺の鐘楼に夜な夜な鬼が現れて人々を困らせていた。当時元興寺には雷の申し子と言われる程の怪力の小僧がいたので、鬼を退治しようと、ある夜鐘楼に登って待っていた。その夜も鬼が出てきたので、小僧と大格闘になったが、どちらも強力なので、なかなか勝負がつかない。釣鐘の周囲をまわること数十周、鬼がとてもかなわないと思って逃げ出した時は夜明も近かった。北の方へどんどん逃げて行く鬼を小僧が追っかけて行くと、鬼の姿がふと見えなくなってしまった。それが不審なので、その辺りは今も不審ヶ辻町と呼ばれている。その元興寺の鐘が、鎌倉時代に新薬師寺の鐘楼に移されたという。それで、この鐘には、鬼の爪痕だという、無数のすり疵がついていると云う。重要文化財のこの鐘は、大晦日には、東大寺の国宝の鐘と共に、除夜の鐘として、奈良の町に天平の余韻を響かせている。

2.景清地蔵とお玉地蔵  本尊の北の方に、錫杖の代りに弓を持った木彫等身大のお地蔵様が立っておられるのは、景清地蔵である。謡曲で名高い「景清」が、鎌倉時代の大仏大修理の開眼供養の折、頼朝を討って平家の恨みを果たそうとするのに先だって、新薬師寺の近くの勝願院町に庵を結んで住んでおられたお母さんにいとまごいに来た時、この地蔵尊に、自分の弓を持たせておいたと伝えられる。お地蔵様にしては、鋭い眼差しが、武将を連想させたのかも知れない。この像は景清辻子とも呼ばれた勝願院町の景清堂に安置されていたのが、明治二年に客仏として新薬師寺に迎えられたものだという。
 十数年前、この像が修理される時、胎内から出て来た古文書によって、建立当時は裸形の像として作られたのではないかと言うことになった。裸身の像に衣を着せておまつりするのは、今も伝香寺の裸地蔵や、西光院の裸大師にその風習が残るように、写実主義が主流となった鎌倉時代には、裸形の像に衣を着せて、何年か毎にお衣替えするのが流行ったようだ。この像も当初はお衣替えをしながらおまつりされていたのだろうが、後に、衣替えをしなくてもよい木彫りの衣を追刻して着せたようだ。胎内文書によって、この像は興福寺の高僧「実尊」の徳をしのんで、一二三六年頃造られたものという。
 今は、昔のままの頭部と、木彫りの法衣を模作の体部にはめ込んだ景清地蔵を本堂におまつりして、一体は像造当時の姿のままに、頭部を新しく模作したものをつけて、「お玉地蔵」という尊称を奉って、西南にある香薬師堂の本尊の脇に安置されている。一体のお地蔵様が見事に二体に生まれ変わられれた訳である。この堂の本来のご本尊、香薬師如来は、高さ七十三センチの優雅な白鳳風の傑作であった。この仏様は、明治以来三度もの盗難に遭っておられる。二度までは発見されて帰って来られたのだが、三度目の昭和十八年三月持ち去られて以来、未だに行方がわからない。幸いにも石膏の型取りがあったので、その型による複製がおまつりされている。この像は黄金造りだという言い伝えがあった為、度々難に遭われたようだが、何とか又、戻っておいでになるように祈りたい。

3.紙貼地蔵 地蔵堂に安置されているお地蔵様の中に、よく紙を貼りつけられておられるお地蔵様がいらっしゃる。これは、紙切れを水に浸して、お地蔵様の、自分の患部と同じ所に貼りつけて、お願いすると、病が治ると信じられているからだという。

4.夜なき地蔵  昔、春日大社の社殿で、夜毎に子供の泣き声がするので、神官が不思議に思って社殿の扉を開いてみると、一木造りの地蔵尊がおられた。おうかがいすると「新薬師寺へ帰りたい。」とおっしゃるので、直ぐ新薬師寺へお移ししたとのことで、香薬師堂におまつりされている。

5.錐  眼病や耳の病気になやむ人は心をこめて、ご本尊様に祈願し、本堂に奉納されている錐を一本頂いて帰り、それを持って「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」と真言をとなえながら患部をつつく真似をすると、不思議に平癒するという言い伝えがあるそうだ。平癒した人は、御礼として錐に氏名を書いて十二本奉納するしきたりになっている。

6.鯉  境内に二つの小さな池がある。この池に泳いでいる鯉は、皆、目か耳が悪いという。これは目や耳を病んだ人が、祈りをこめてこの池に鯉を放つと、鯉が身代わりに目や耳を患い、その人は全快するからだという。
 新薬師寺の南門を出ると、直ぐななめ前に鏡神社がある。もともと、新薬師寺の鎮守であろうが、いつの頃からか、藤原広嗣の霊を祀る御霊神社となった。御霊とは怨霊のことで、政争に敗れた皇族や貴族、冤罪によって憤死した人達の霊が、天災や疫病、雷神となってたたると信じられていたので、神社を建てて鎮魂を祈ったことは、先に御霊神社の項で述べたことだが、ここもその鎮魂の社である。
 天平九年(七三七)当時宮廷の権力を握っていた藤原四郷(武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟)が七月から四カ月のうちに天然痘のためあいついで亡くなった。そのあと、政権の中心に登場してきたのが、光明皇后の異父兄弟橘諸兄である。諸兄は、最新の唐文化を身につけて帰国した、吉備真備や、僧玄を重用した。真備や玄と対立し、藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣(宇合の子)は、七三八年末、大宰少弐に左遷された。広嗣は七四〇年、玄と吉備真備を除くことを求めて大宰府に於いて反乱の兵を挙げたが、一カ月程で政府軍に平定され、肥前、松浦で斬殺された。その怨霊はたちまち諸兄一派にたたったので、これを奉祀したのが肥前鏡神社(松浦明神)と言われている。
 又、玄僧上が筑紫の観世音寺の供養に、導師としておもむいたところ、広嗣の怨霊が雷となって、玄を黒雲の中につかみ上げてしまった。そして玄の肢体を引きちぎって奈良の都に投じたと言われている。それで首は頭塔へ、肘は市南部の肘塚、眉と耳は大豆山町の眉目塚、胴は押上町の胴塚に葬られたと伝えられれている。
 しかし、頭塔は、実際は神護景雲元年(七六七年)、東大寺の実忠和尚が、師良弁の命によって、「鎮護国家の為」築造した土製の塔である。むしろ恵美押勝の乱と関係があるのではないかと思われる。
 鏡神社から西北へ少し行った所に、大和路の美しさを世界中にアピールしてくださった写真家入江泰吉先生の作品を展示した奈良市写真美術館がある。終戦直後、「アメリカ軍が京都や奈良を爆撃しなかったのは、そこにある仏教関係の美術品が欲しかったからで、おそらく仏様達を持ち帰るであろう」という、うわさ話を聞かれた先生は到底信じられないと思いつつも、当時の社会情勢としては、そんなこともあるかも知れないと、愕然とされた。そして日本人の心のよりどころであり、貴重な文化遺産を、せめて写真に記録しておこうと決心されたそうだ。それで撮影器材もなかなか入手困難な時代であるのに、苦心しながらも、いつ持ち去られるかも知れないという懸念から、追い立てられるように、撮影にとりかかられたそうだ。白鳳、天平の繊細優美な仏像を彫った仏師達は「一刀三礼」して、ノミに祈念を籠めたという。「彫刻家兼求道者であったのでしょう。」と先生はおっしゃっていたが、先生自身、崇高な美に心を打たれてシャッターを押される度に、心を清め信仰を深めていらっしゃったのだろう。おかげで仏様に興味をもち、その美しさにふれて、実際の仏様をおがみたくなって奈良を訪れた方も沢山おられることだろう。まさに菩薩行と思う。
 以前先生が描かれた色紙を頂戴して、「先生、画もお描きになるのですね」と言ったら、「そりゃあ、あんた、画が描けなかったら写真の構図もきまりませんが」と言って大笑いされたことがある。なる程、先生の写真を見ると、花でも風景でも、最も美しい瞬間を最高の角度からとらえて、カメラに納めて下さっている。私達は、おかげさまで、居ながらにして、うつろい易い自然の一番良い所を、凝縮して見せていただける訳だ。
 此の間、写真美術館の西田栄三館長様に会ったら、「入江先生の写真を、いつまでも美しく見て頂こうと思ったら、温度とか湿度、光線等、常に細心の注意が必要なんですよ。」と言っておられれた。ネガの保管もなかなか大変なようだ。心に語りかけてくれる大和路の美の記録を、最善の保管で、遠い未来まで伝えて行って頂きたいものだと思う。