第40回(1998年08月号掲載)
春日野から
高畑への散歩道
 奈良公園といえば、殆どの人が、春日山の西麓一帯に緑の絨毯を繰りひろげたような飛火野、浅茅ケ原、片岡(丸窓)の梅林辺りを連想するだろう。この辺りを総称して春日野と呼ぶ。
 奈良時代、春日野は、神を祀る神聖な地であり、大宮人の野遊びを楽しむ別天地でもあり、天皇が鷹狩りをされる場所でもあったようだ。
 天平勝宝三年(七五一)光明皇后が、遣唐使として旅立つ甥の藤原の清河に贈った歌に
 大船に真楫繁貫き この吾子を
 韓国へ遣る 斎へ神たち
 と無事を祈られた。これに対して清河は、
 春日野にいつく 御室の 梅の花
 さかえてありまて 還りくるまで
 と、春日野に咲く梅の花に託して、自分が帰ってくるまで、栄えて待っていてほしいとの返歌をしているが、この願いも空しく、清河は唐で病死した。
 昭和五十八年(一九八三)飛火野から、奈良時代から平安初期と思われる、祭礼用の須恵器や土器、土馬の破片が出土した。飛火野に円錐形の盛土があるのは、祭礼用具を埋めて盛土をしたものだろうと言われている。実際歩いてみると、なだらかに見える飛火野には意外と起伏が多いことがわかる。昔、野守が狼煙を上げたというところから、飛火野と呼ばれるようになったという。
 春の野に すみれ採みにと 来しわれそ
 野をなつかしみ 一夜寝にける
 という山部の赤人の歌や、作者不詳の
 春日野に 煙立つ見ゆ をとめらし
 春野のうはぎ 採みて煮らしも
 などという歌には、寒く厳しい冬が終わり、緑が萌え出してきたのどかな春日野の風景にあこがれた万葉人の心がしのばれる。
 能の「野守」も春日野が舞台になっている。旅の山伏が、大和の春日野に着くと、由緒ありげな池がある。通りかかった野守の老人(前シテ)に尋ねると、野守の鏡という名だと教える。それは、自分達のような野守が鏡の代りにするから、そう呼ばれるのだが、本当の野守の鏡は、昔、鬼が持っていた鏡で、その鬼は、昼は野守の姿となり、夜は鬼の姿となって、ここの塚に住んでいたのだと言う。
 山伏は「箸鷹の 野守の鏡 得てしがな 思い思はず 外ながら見ん。」という古歌を思い出して質問すると、老人は、それもこの水を詠んだものだと、次のような物語をする。
「昔、帝が鷹狩をされた折、鷹の行方を見失ってさがしていると、野守が水中に鷹の姿があることを教えた。それは木の上にとまっていた鷹の影が水に映っていたので、鷹の居場所がわかった故事から詠まれたものである。」と語り終わって塚の中に姿を消す。後場は、塚の中から現れた鬼神(後シテ)は、手に直径五十センチ程の銀色の円い鏡を持っている。鏡は、天上界から地獄の底まで映し出すという不思議な力を持つ野守の鏡で、鬼神は山伏に、四方世界や、天界や地獄の様子を映して見せ、大地を踏み破り奈落の底へと去って行く。
 水鏡の「野守の鏡」は、飛火野の一角にある、水たまりのように小さいくせに有名な「雪消沢」だろうとも、氷室神社の参道の右手にある「鷹の井」と呼ばれる石の井戸だろうとも言われている。
 現代の陽光に輝くのどかな春日野の風景からは、猛々しい鬼神が守る野といったイメージは全く湧かないが、世阿弥が活躍した頃は、春日野にも樹々がうっそうと茂り、狼の遠吠えが聞こえて、昼は人となり、夜は鬼となって野を守る鬼神が棲んでいそうな風情があったのであろう。
 狩猟の地といえば、毎年秋に行われる「鹿の角切り」には、揃いの法被に鉢巻姿の勢子達が、数頭ずつ角切り場に追い込まれた雄鹿を投げ縄やからみ道具で捕えて押さえ込み、鋸で角を切るどよめきから、昔の狩猟の面影をほんのちょっぴり思い描くことが出来る。
 飛火野の奥には、若人に人気のある馬酔木の森や、春日大社参道から高畑にむかう「ささやきの小径」がある。私は、かねてから「ささやきの小径」というのは、若い人達が愛をささやきながら歩くのにふさわしい径といった意味でつけられた名前だと思っていた。ところが、つい此の間、明るい陽光に誘われて久しぶりに、この小径を一人で歩いてみると、ささやきかけてくれるのは、小鳥の声であり、せせらぎの音であることに気がついた。木洩れ日を受けながら歩いていると、せせらぎは夢多き少女時代の想い出を語りかけ、香しい森林の大気を胸一杯吸い込んで、すっかりリフレッシュした気分になった頃、高畑の通りに出た。
 この地は、大和高原が西にゆるやかに伸びた、見晴らしの良い台地となっているところから、高畑(高畠)と呼ばれ、昔から春日大社の社家、袮宜、御師等の方達の住居地であったので、土壁や、そのたたずまいに風雅な趣をもつ家並が残っている。
 又、ここは、東山間の村々へ行く入り口となっているので、東山間との物資の交流が古くから行われて繁盛していた。まだバスやトラックの無い頃、山間の人達は朝早くから自分達が作った農作物や、木炭・薪等をかついでやって来て、それを売り歩き、昼食をすませてから、衣服や農具、日用品等、生活に必要な物を買って帰ると、丁度、一日の仕事にふさわしい行程であった。従って、高畑は静かな住宅地である一面、食堂、旅館、荒物屋、金物屋、雑貨衣料品店、食料品店等が軒を連ねて、大いに賑わった面ももっていた。高畑では渋団扇も作って販売されていたそうだ。渋は渋柿からとるので、今でも高畑に渋柿の木が残っているのは、その名残だという。
 大正年間(一九一二〜二六)になって、この地の風情が文化人の間で認められ、志賀直哉をはじめ、滝井孝作、画家の足立源一郎、浜田葆光、若山為三、中村義夫といった諸先生が居をかまえられて、高畑文化村の観を呈した。志賀先生のお宅のサロンには、奈良在住の文化人達や先生方の友人知己が集まって、新しい文化の話に花を咲かせたり、月1回は食事の会をもたれるというので「高畑サロン」と呼ばれ、奈良の人達のあこがれの的であった。志賀先生は「名画の残缺が美しいように美しい」と奈良の風物を愛されて、大正十四年から、昭和十三年まで奈良に住まわれた。私が幼稚園に入園した時、隣の席になったのが先生の長男の直吉ちゃんだった。色の白い、ほっそりとした都会的な雰囲気を持った少年であった。初めてお辨当を持って行った日、直吉ちゃんはお箸を持ちつけなかったのか、周りの床に白い花が咲いた程、ごはんを沢山こぼした。翌日からはスプーンを持ってきて、スプーンでお辨当を食べているのが、妙にハイカラに感じられたものだ。小学校六年生の頃だっただろうか、「今度東京へ変ることになりました」と言って、学習院の制服姿で私達の教室に挨拶に来られたことも鮮明に覚えている。後に、志賀先生が「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身にはまだ未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と書かれているのを読んで、幼稚園と小学校を女高師付属という環境で育てたことに疑義を感じられたのだろうかと、ふと思ったから、その時の姿を覚えているのかも知れない。
 高畑の一番奥まった閑静な一角にある志賀直哉旧居は、米軍の家族の宿舎となり、その後厚生省の手に移って、飛火野荘という厚生年金寮になっていたが、建物が老朽してきたので改築する運びとなった。そこで中村一夫氏が中心となって保存会をつくり、保存することになった。現在では復元修理して、奈良文化女子短大のセミナーハウスとなり、日本の誇る文豪の旧居は、新しい奈良の名所として一般公開されている。
 志賀直哉先生は、東大寺の上司海雲師とも親交が深く、東京へ移られてから、東京で歯の治療を受けても、なかなかうまくゆかないからと、昭和二十一年の夏、奈良の歯科医の松井先生の治療を受けるため奈良へ来られた時は、一月半程、上司師の自坊の観音院に滞在されたそうだ。その時、やはり上司師のご縁で奈良に帰って来られた、写真家の入江泰吉先生を紹介されて、その後親しくお付合いをしておられたようだ。その入江泰吉先生の作品を展示している奈良市写真美術館も志賀直哉旧居の近くに出来た。
 今もやっぱり高畑は文化村である。