第39回(1998年07月号掲載)
東大寺
金鷲と執金剛神
 奈良に都のあった頃、その東部は今の奈良公園のような地形ではなく、小高い丘のような山がいくつとなくつらなり、杉、桧等の森林に覆われていたそうだ。その山のひとつに、小さな庵がたっていて、一人の優婆塞が住んでいた。(優婆塞というのは、僧ではなく、在家の男の仏教信者のことである。)
 優婆塞が守らねばならぬ「きまり」として、「五戒」を保つということが定められている。「五戒」とは、不殺生(生きものを殺さない)不偸盗(盗みをしない)不邪淫(よこしまな、みだらなことをしない)不妄語(うそをつかない)不飲酒(酒を飲まない)という五つを守るということで、人間が本来持っている欲望をおさえなければ、本当の仏教信者とはいえないということである。しかし、これは言うのは易いが、なかなか出来ることではない。けれどもその男はそれを守ろうとして、日夜修業に励んでいた。その優婆塞は念持仏である「執金剛神」を深くうやまい、その像の脛に縄をかけて、常にそれをひっぱりながら、立派な信者になれますようにと祈りを捧げていた。執金剛神像というのは、手に金剛杵を持って仏法を守るあらたかな神様なので、その注意をうながして、お恵みを受けたいとの一心からであった。
 素直な一心の願いが届いたのか、ある時、「執金剛神像」の脛から、鋭い光が、突然いなずまのように流れ出し、それが聖武天皇の御殿にまで届いた。天皇は大変おどろかれて、「今あやしい光が射したが、いったい何の光なのかただちに調べよ。」とお付きの者に命令された。お付きの人は、光をたどってこの庵に到達し、この光は、一人の優婆塞の、なみなみならぬ信心と修行から放たれたものであることを知り、そのことを天皇に奏上した。
 仏教を篤く信じておられた天皇はその男を連れてくるよう命じられた。天皇は一目ご覧になっただけで、その優婆塞がいかに一途な信仰をもって修業してきたかを察しられ、大変気に入られた。「何か望むことがあれば、かなえて上げよう」と尋ねられると、男は喜んで「私の望みは、出家して修業を続けたいことです」と、答えた。「それはたやすいことだ。お前のような道心堅固な者が、坊さんになって正しい仏教の教えをひろめて貰うのは有難いことだ。」と得度を許し、その男に「金鷲」という名前を与えられた。この頃は、僧侶になるには国の許可が必要であり、寺院以外の場所での布教活動は禁止されていたからだ。
 そして、そのきびしい修業をたたえて、庵を修理拡張して、彼の名をとって、金鷲寺(金鐘寺)とし、その付近の広い山林を寺領として与えられた。世の人達も彼の高徳をしたって「金鷲菩薩様」と呼んで敬ったということである。
 聖武天皇は、天平十三年二月十四日詔勅を出して、全国に国分寺を創設された。東大寺は、大和の国の国分寺として先ず造営され、更に総国分寺としての体裁を整え、その後、金光明寺と呼称されるようになった。
 この東大寺は、金鷲寺(金鐘寺)を利用して、これを整備拡張して金光明寺になったものだと伝えられる。つまり金鷲寺は東大寺の前身であるという訳だ。
 しかし、一介の優婆塞であった金鷲が、自分の名前のついた寺を与えられ、しかもそれが国分寺として発展して行くのをねたむ人間もいた。優婆塞のなかでも、金鷲に対抗する程の勢力を持っていた辛国という行者は、金鐘(金鷲)の出世をうらやみ、他の行者達も味方につけて、ことごとに彼と対立していた。
 そんなところへ、総国分寺の本尊にふさわしい大きな盧舎那仏を鋳造して、広大な大仏殿が建立されるといううわさが伝わってきた。その建立の候補地は、金鐘寺周辺になる可能性が多いと思った辛国は、それを何とかして自分の所有地に誘致したいと考えた。そこで、政府高官に賄賂を贈って、とりもちを依頼したり、仲間の行者達とはかって、金鐘の悪口を巷に流したりした。金鐘はそんなうわさを聞いても、特に弁明しようとはせず、笑ってうけながしていた。そんなことから、むしろ逆効果となって、候補地がどうやら金鐘寺周辺になりそうだと聞くと、辛国行者は激昂して、「こうなったら最後の手段だ」とばかりに、兼ねてから飼いならしていた大きなくまん蜂に、「いいか、お前達は、一気に金鐘におそいかかって、ところかまわず針を刺し、さし殺してこい。」といいつけて、蜂を放った。蜂たちは群をなして金鐘寺めがけて飛び立って行った。それを知った金鐘は少しもあわてず、そばにあった鉄鉢をとり上げると一匹残らず、その中にとじこめてしまった。見事な金鐘の蜂退治の話を聞かれた天皇は、「それは、お前が仏様の教えをよく守り、修業をおこたらなかったおかげであろう。」と、おほめになったという。
 そして大仏造立の場所は現在の大仏殿の位置に決った。
 現存する三月堂が金光明寺の本堂で、そのご本尊の不空羂索観音が金光明寺のご本尊ではなかったかという説もある。その不空羂索観音像と、背中合せにまつられている執金剛神像が、あの、あやしい光を放った金鷲の念持仏であったと伝えられ、次のような伝説もある。
 九三九年、平将門は常陸国府を襲撃して公然と朝廷に反旗をひるがえした。いわゆる平将門の乱である。この関東武士の思いがけない反乱に、朝廷は将門調伏を諸寺に命じられた。東大寺では、この執金剛神の前に一山の僧が集って、鎮護国家の修法を渾身の力をこめて行じた。すると突然、執金剛神の髪をしばっていたもとどりの一方が音を立てて崩れ落ち、それが数えきれない程沢山な蜂の大群にかわっと思うと、奔流のように激しい羽音をたてて、呆気にとられている人達の頭上を、東に向って飛び去っていった。それからしばらくすると、東国の方から急使が来て、「さすがの将門も、何千何万という蜂にさされて死んでしまったので、乱は鎮圧されました。」と報告した。皆は今さらのように、「執金剛神」の霊験のあらたかさに驚いた。現在も、もとどりの一方が欠けたままになっているのは、そのためだという。一説には、この金鷲上人こそ、良弁僧正の若き日の姿ではなかったかといわれている。東大寺を開山し、初代別当となられた良弁僧正は、お偉い方だけに超人的な伝説をいろいろ持たれた方である。
 蜂といえば弘法大師が奈良におられた時、東大寺の南大門に大きな蜂の巣が出来て困っているのを大師が真言秘密の法で平らげられたという話も残っている。