第38回(1998年06月号掲載)
東大寺
二月堂 良弁杉
 奈良町の人達にとって、二月堂の観音様は、親戚の小父さん小母さんのような、親しみと尊敬をこめて信仰出来る仏様である。昔から困った事や苦しいことがあると、お百度を踏み、嬉しいことがあると、感謝をこめて報告にお参りした。私も幼い頃から祖父母に連れられてお参りするのが楽しみであった。
 二月堂の舞台から覗めると、目の前に見事な杉の大木がそびえていた。「昔、この杉の木のてっぺん辺りに鷲の巣があったそうな。或る日、義淵さんという偉い坊さんが通りかかると、鷲にさらわれてきた赤ちゃんが、巣の内で泣いていたんやて。驚いた義淵さんに助けられた赤ちゃんは、お寺で育てられて、きびしい修業をして、良弁さんと言う立派なお坊さんになられたので、この杉のことを良弁杉と呼ぶようになったんやで。」という話を聞くと、今にもあの大空の一角から大鷲があらわれて、自分をさらって行かないかと怖くなって柱にかじりついたものだ。
 平成六年、奈良町に音声館が開館した。音声菩薩の名前を頂いて命名された館だけに、奈良の民話やわらべうたを掘りおこしたり、幼児からシルバー年代に至るまでの歌唱指導をする一方、荒井敦子館長を中心に、ぴったりスクラムを組んで音楽療法にも乗り出される等、まさに菩薩行的な活躍をしておられる。この音声館制作主催で、創作ミュージカル「二月堂良弁杉」が平成七年初上演された。非常に好評であったので、その後各地で公演され、この頃祖父母から傅説を聞く機会の少なくなった子供達の心に、良弁上人の伝説を美しい彩どりとリズムをもって甦った。
 第一場面は近江の国志賀の里(今の大津市のあたり)から始まる。青く澄んだ琵琶の湖と、比叡の山なみに抱かれた静かで美しいその里に、働き者で正直な夫婦が仲良く、つつましいながら平和に暮らしていた。結婚して何年もたつのに、子供に恵まれないので、なんとかして授かりたいものだと思っていた。
 「となり村の観音様は、なんでも願いごとをかなえて下さるということだから、お詣りにいってはどうかな。」と勧めてくれる人があって、信心深い夫婦はとびたつ思いでお詣りに行った。
 観音堂の前では子供達が童唄をうたいながら遊んでいて皆で可愛い赤ちゃんが授かるように一緒に心をこめておがんでくれた。夫婦は百日の願をかけて、毎日熱心にお参りをした。やがて願がかなって元気な男の子を授かった。夫婦の喜びはたとえようもない位で、共に祈った子供達や村人も赤ちゃんの誕生を心から祝福した。
 観音様のもうし子であると信じた両親は、感謝をこめて小さな観音像を彫って、その子の守り本尊として紐をつけて、いつも首にかけさせていた。
 年をとってから念願の子を授かった二人は、赤ん坊を目に入れても痛くない位可愛がった。わけても母親は、いっときもその子を離したがらず、畑で仕事をする時も、井戸端で洗濯をする時も、いつも赤ん坊を背中におぶっていた。父親は、「そんなにいつもおんぶしていたら疲れるだろう。少し下ろしてお前も身体を休めたら。」と妻の身体を気づかったが、「もしものことがあったらと心配で、ひとりで寝かせておけません。」と言ってきかなかった。
 第二場面は桑畑。
 明るい桑畑では村人達がせっせと桑摘みをしている。赤ん坊をせおったまま働く妻をいたわりながら一生懸命仕事に精を出す夫婦の睦しさは人々が羨む程であった。
 燦々とそそぐ太陽の恵みを受けて、桑の木は人の背丈程にも伸びて葉を茂らせている。父親は、ふと気がついて、あわてて言った。「おい、お前が仕事に夢中になっていて、桑の枝や葉っぱの先で赤ん坊の目を突いたら大変だ。大丈夫だから、仕事が終るまで、向うの草原へねかせておけよ。」
 たしかにその危険性はあるので、母親も素直に
「ほんとうにそうですね。よく言ってくださいました。それでは、そうします。」と言って、少し離れた草原の木影に赤ん坊をおろしてねかせると、「いい子だから、しばらくおとなしく、おねんねしているんだよ。」と、やさしく言って畑へひきかえしてきた。
 しばらく仕事をしていると、突然ビュウと風を切る激しい羽音が聞こえてきたので、桑畑の両親は、何事かとびっくりして振りむくと、今までに見たこともないような大鷲が、矢よりも早く下りてきたかと思うと、両足で赤ん坊をつかんで、空高く舞い上がってしまった。それは、まったく一瞬の出来事だった。
 驚いた二人は、大声で「赤ん坊が鷲にさらわれた。助けてくれ。取り戻してくれ。」とわめきながら、空を見上げて追っかけた。村の人達も集まってきて、わいわい大騒ぎになったが、どうしようもない。やがて、赤ん坊をつかんだ大鷲は、南の空遠くだんだん小さくなり、ついに見えなくなってしまった。
 (幕間劇)その頃、奈良の都に、義淵という偉いお坊さんがおられた。ある日、今の二月堂の近くにあった、大きな杉の木の下を通ると、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。「さて、おかしなこともあるものだ」と思って、辺りを見まわすと、高い杉のてっぺん辺りに鷲の巣があった。泣き声は、どうやらその中から聞こえてくるようだ。鷲がどこかから赤ん坊をさらってきたのに違いない。それはすててはおけない。早く助けてやらねば可愛そうだと、義淵は、直ぐ木のぼりの上手な木こりの所へ行って、訳を言ってたのんだ。さいわい鷲は巣にいなかったので、木こりは一本の綱を上手に使って、大杉によじ登っていった。やがて巣に達すると、下の義淵に「いましたよ、いましたよ。」と大声で知らせると、赤ん坊を背中にくくりつけて、下りてきた。